見出し画像

京都ボヘミアン物語⑰メコンの村の小さな恋の物語

ユーラシア大陸を放浪した高校教師

 浦和高校に長嶋猛人先生という名物教師がいた。
 彼の授業は、江戸時代の寺子屋のように漢文の素読からはじまった。

子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎
(子いわく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや)

ひたすら音読して暗記する。李白や杜甫、陶淵明の詩など何十編も丸暗記したから、漢文の模擬テストはいつもほぼ満点だった。七五調や五七調のリズムをたたきこまれて、肩に力のはいった文語調の文章しか一時は書けなくなったが、逆にそのリズムのおかげで長文を書くのが苦にはならなくなった。
 でもぼくが刺激をうけたのは、授業そのものではなく、毎回授業の途中に披露されるユーラシア大陸横断旅行の体験談とスライドだった。
 大学院生のころひとりで横浜から船でナホトカにわたり、シベリア鉄道で大陸を横断し、東欧諸国を何カ月もめぐり歩いたという。
「ハンガリーの女の子はノーブラで、バケツの水を頭からひっかけたら胸がくっきり見えた」
 そう言ってスクリーンに写真を映した、体の線があらわになった真っ白な肌のきれいな女の子の写真に、思春期の高校生の目は釘づけになった。エキゾチックな美人との出会いこそが旅なのだ。
「おまえらも大学に入ったら海外にいけ。共産圏の国を長期間旅してきたら尊敬してやる」
 彼の挑発にのせられて、「大学生になったら長期の海外旅行をする」と決意した。
 大学に入学すると、文学部の友人とともに、文化人類学の若手研究者があつまる「近衛ロンド」という研究会に顔をだした。そのつながりで、「知的生産の技術」や「モゴール族探検記」を読んであこがれた梅棹忠夫さんの話をじかにきくことができた。
 右も左もわからない1回生でも第一線の研究者と知りあえる場は、今思うととてもありがたいのだけど、当時は世界各国の生活体験談には夢中になったが、研究の中身は理解できなかった。

「不言実行」クソクラエ、大言壮語で自分を追いこむ

ぼくは5月のツルとの読書会で「おまえの話は男が聞いてもおもろない」と全否定されて以来、「人のやらないことをやって、自分の『中身』をつくろう」とつとめてきた。
 夏休みの北海道ヒッチハイク旅行は「2万円」という予算のしばりをもうけ、みんなの前で事前に宣言した。内心は「ほんまにできるんやろか?」と不安だけど、あえて大言壮語することで実行せざるをえない状況に自分を追いこんだ。「不言実行」なんて、自分の能力の枠内で満足するつまらん美意識であり、大言壮語とその現実化のくりかえしが「中身をつくる」ことだと信じた。
 近衛ロンドの影響で、「少数民族のムラ」に興味をおぼえ、いろいろ調べたら1985年に大阪・神戸と上海のあいだに定期フェリー「鑑真」号が就航し、2万円で大陸にわたれることがわかった。
 そこで正月明けの例会で宣言した。
「おれは春休みは中国とビルマ国境の少数民族のムラにいくから新歓(新入生歓迎)イベントの準備には参加できひん!」
 するとオオキが「おれも中国いこうかな」と同調した。

タイ族のムラ、巨大なうんこをする女の子

出発が近づくにつれて不安がつのり、船が出港してからも「故障でUターンすればよいのに」などと考えていたが、48時間後、黄土色の水がたゆたう長江の河口にはいり、上海の港に接岸した。
 中国語はニイハオと麻雀用語しかわからないが、幸いなことに筆談でなんとか意思を伝達できる。ホテルでも商店でも服務員(職員)がやけにいばるのが不快だが、そのうちになれた。
 なかなかなれなかったのは便所だ。
 大便なのに個室ではなく、床に4つ5つの穴が開いているだけ。尻をだして、うんこを穴におとす様子が丸見えだ。ツレションはよいが、ツレグソは衝撃だった。

上海から杭州をへて、夜行列車で2泊して雲南省の昆明へ。そこからポンコツ長距離バスにゆられる。途中2泊して、昆明の南南西500キロに位置するシーサンパンナ(西双版納)タイ族自治州の中心都市、景洪に着いた。少数民族が多いシーサンパンナ州が旅の目的地だった。今では高速道路が整備されており、昆明から景洪までは7時間程度という。

 景洪から船でメコン川を2時間ほどくだった、カンランパ(橄欖壩)というムラに滞在することにした。中心の市場にあつまる長い巻きスカートを身につけたタイ族の女性はすらりとしてうつくしい。
 でも招待所(宿)ちかくの食堂の便所のインパクトは強烈だった。
 高床式の小屋になっていて、床に開いている丸い穴にうんこをおとすと、下からバタバタブハブハというものすごい音がする。穴からのぞくと、おとしたばかりのうんこを豚がむさぼっていた。究極のエコ便所だ。
 薄い板で申し訳程度にしきられた女子便所からは、ぼくのうんこの3倍以上の量がすごい音をたてて落ちている。どれほど巨大な女なのかと思ったら、身長150センチもない小柄なかわいらしいタイ族の女の子だった。一方、身長190センチちかい西洋人旅行者と便所で隣になったときは、かれらのうんこの小ささにおどろいた。体とうんこの大きさは反比例の関係にあるのだろうか?……云々と想像していたら、はずかしいはずの「穴だけ便所」がだんだん楽しくなってきた。
 サバイバルの章で紹介した、うんこの大きさと繊維の摂取量の相関関係はこのときはまだ知らなかった。
 うんこは大きくてバナナ型のものがのぞましいというのがいまや常識だが、戦前はかならずしもそうではなかったらしい。
「厠と排泄の民俗学」によると、東京美術学校の岩村透教授(1870-1917)は、西洋人の排泄物は高尚だとし、日本人は消化の悪いものを食べるので、排出されるカスが多いのに対し、西洋人は消化のよいものを食べるので排泄物も少なく、「サァと刷毛で撫でた様な、極く細い両端の尖った、糸のような糞だ」としるしていた。

「社会主義はおそろしい」研究者は青ざめた

招待所には、卒論のためにタイ族を研究している日本人男性がいた。北京の大学の4年生だ。
 当時の中国は「開放地区」と「未解放地区」にわかれていて、カンランパは開放地区だが、周囲の農村は未開放地区だった。彼はカンランパから毎日往復4時間歩いて調査対象のムラにかよっていた。
「ムラで民家にいれてもらいたかったら、水をくれ、とたのんだらいいよ」
 彼の助言によって、ぼくも毎日周囲の集落を訪ねあるき、高床式家屋の生活をかいま見させてもらった。一度は山岳民族の一家につれられて国境を越えてビルマ側のムラもたずねてみたが、筆談がつうじず、近衛ロンドの研究者のようにムラに泊まりこむことはできなかった。

 3日後、タイ族を調査していた男性が青ざめた表情で帰ってきた。
「あすぼくは北京に帰ります。くわしくは言えないけど、社会主義はおそろしい。君たちもあのムラは二度とたずねたらだめだよ」
 いったいなにがおきたのか? 外国人をうけいれたことで、住民側が公安のいやがらせをうけたのだろうか? 彼の落ちこんだ様子を見て、ムラに泊まりこみたい、という思いはなえてしまった。

女性服務員のラブレター

カンランパの招待所の女の子はタイ族の巻きスカート姿がかわいらしかったが、最初はつっけんどんな態度で声をかけても返事してくれない。
 でも滞在4日目、彼女がぼくの部屋にはいってきた。
「英語をおしえてもらえますか?」
 はずかしそうにざら紙のノートをさしだす。
「もちろん! いつでも教えるよ。そのかわりタイ族の言葉をおしえて!」
 天にものぼる気分でこたえた。
 ベッドに隣あってすわって、英単語を教えていると胸元が見えそうで胸が高鳴る。彼女の名前は羅遠芳ちゃん、ぼくより2歳上の21歳。タイ族ではなく広州出身の漢民族だった。
 キスぐらいできないかなぁ、などと妄想するが、どうしてよいかわからず悶々とするうちに10日間の滞在期間がつきてしまった。
 お別れの朝、ぼくがトイレからでると、彼女がかけよってきて、紙片をてわたしてくれた。尻をふく紙かと思ったら手紙だった。
「あなたに会えてよかった。あなたとおしゃべりするとき私はずっとドキドキしてました」
 同じ部屋に滞在していた英語を話す香港人が翻訳してくれた。
 あわてて彼女の姿をさがすが見あたらない。しかたなく景洪に帰るバスに乗りこんだ。ムラの中心から300メートルほどはなれたムラの出口で、遠芳ちゃんがハンカチをふって見送ってくれていた。
 それだけで、せつなくてたまらなくなった。
 絶対もう一度もどってくる! と心に誓い、3年間ほど文通をつづけたけど、再会は果たせなかった。(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?