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崖っぷちに佇みながら、愛について考える。

人生を変えるような出逢いが続いている。実際に出逢った人がきっかけで、人生が大きく変わったので、確信をもってそう言えるんだけども。

私はもともと、あまり人が得意ではない。

幼少期から、自閉傾向が強めで、他者がやっていることに全然興味がなく、自分の世界で自分の好きなことをしているのが幸せだった。見た目も勉強も遊びも、誰がどう思うかなんて気にしたことがなかった。かつ、半端に賢く独善的で、仲間外れにされても、私の陰で誰が傷ついていても、気づきもしなかった。

思春期になると、その傾向は私をとても苦しめた。協調性のない一匹狼が、社会集団の中で安定したポジションを確保しようとするトライは、だいたい失敗するのだ。大多数の人には「合わせる」ことそのものが苦しかった。興味がないくせに、なんとか話題を合わせにいこうとする、その無意味な努力。無理をして接することで、人と軋轢を生み、また苦しみ。それでも、独りで気にせずに生きていく強さは、当時の私にはなかった。自分の所在無さが辛くて、哲学にはまり、純文学や実存主義に救いを求めた。

大学に入って、奇人変人ばかりの心理学専攻という環境で、見事に誰にも合わそうとしない・合わせられない孤独な輩ばかりに囲まれ、一気に楽になったのを覚えている。精神疾患、発達障害、LGBTQなど、色んな子がいた。そういう、「マイノリティ」と呼ばれる人たちに、恐ろしく親和性を感じている自分を発見した。

私は一見、どこにでもいる普通の人間だけど、すごく崖っぷちに佇んでいる気がする。でも、あっちでもこっちでも、崖っぷちに佇んでる人がいる。あなたも?あーなんかわかるよ、私たち多分交わらないけど。お互いなんとか生きていけそうよね、だってこんなに崖っぷちに人がわらわらいるんだから。こんな感覚。

本来の自分を丸出しにできた、この学生時代の感覚は、その後の社会生活で、真逆の方向へと悲しく切り替わった。崖っぷち人間は許されなかった。私は周りに合わせられない、どこでも浮いてしまう、どこでも異端である、評価されない、という自己否定の感情は、私を平坦で自信のない人間にさせるに十分なパワーがあった。

ただ、私はそれに耐えられる人間でもなかったらしい。ある日、違う世界へとダイブしたのだ。

そこからまた何年も経った今、なぜか、この崖っぷち人間を愛おしく思ってくれる人たちに囲まれて、やたらと幸せに、生きやすく、生きている。

多分、彼ら・彼女らも、別の崖に佇んでいるんだろう。社会の中で、苦しんだりもがいたりしながらも、ちゃんと根を張って、責任と影響力のある立場や人望を手にして、でも、まだ純然たる崖っぷち人間として生きているのだ。なんという、美しく強い人たち。

彼らに出逢うためには、私はあの時飛ばなければいけなかった。孤独を受け入れ、異端を受け入れ、そんな自分を受け入れて、でも進まなければ、今はなかった。当時は誰も私のことなんて気にしていなかったのに、今、まるで美談かのような文脈で過去を語られることもある。だがはっきりと言いたい、そんなかっこいいものではありません。己の在り様に正直に生きる以外に、無かっただけのこと。

あのダイブのおかげで、今がある。そしてたぶんここから、また人生が劇的に変化していく、もちろん良い方向へと。この感覚は、ここ1か月で確信へと変わっている。

こんな風に思えることに感謝、孤独を内包しながら生きていくことにこんなにも希望を感じられることに感謝、そして、こんな私を愛してくれている、崖に佇むあなたに、心から感謝。

読んでくださってありがとうございます。力が抜けたり元気が出たり、人間ってそんなもんかーと思ってくれたら嬉しいです。