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文楽の現場#4 2019年ベスト文楽公演5つ

文楽公演、今年はすべての国立劇場・国立文楽劇場本公演、鑑賞教室公演、東京の若手会を鑑賞し、単発公演は湯布院と西宮に行った。その上での、今年のマイベスト公演5つについて書こうと思う。


『国言詢音頭』 (7・8月 国立文楽劇場本公演)

今年いちばんおもしろかった公演。

惨殺シーンの残虐性自体が見どころという珍しい趣向で、話自体は文楽自体のもつ本質的な面白さからはかけ離れた飛び道具的な内容。また、話に微妙に整合性が取れていない部分があるという不完全な演目だけど、出演者のパフォーマンスによってその不完全さが逆に異様な雰囲気を醸し出し、上演のうえでの魅力になっていた。

遊女や茶屋の人々を惨殺する主人公・初右衛門役の玉男さんがとても良かった。やはり玉男様は良いと思った。立役の人形だと普通は「いかに肚を表現するか」が重要になるが、初右衞門には「肚」があるのか? ないのか? その上で、どう表現するのか? 初右衛門は「陰で馬鹿にされた」というあまりにシンプルすぎる動機から、すさまじく残忍な手口で5人も殺す。玉男さんは、そこに説明や怨恨の感情を表現せず、不可解な暴力をそれそのままに表現していた。そのいびつな精神性がただただ不気味。ただただ恐怖。普通はあたかも人形に感情があるように見せるところ、初右衛門に感情が一切見えないのは、徹底した引き算による計算された演技だと思う。

玉男さんの「犯行に及んだ理由がわからない凶悪犯罪者」役だと、昨年2月の『女殺油地獄』の与兵衛が思い出される。あの与兵衛からはロマンポルノ転向直前の日活のバイオレンス映画のようなピュアさと殺伐感の異様な共存が感じられて驚いたけど、同じ意味不明の凶悪犯罪者でも初右衛門はまったくの不透明、底の知れない暗黒を感じた。かなり現代的な恐怖。双方とも、古典的な味わいとはちょっと違う。

玉男さん的には初右衛門はお好きな役のようだが、なぜ、どういう考えであのように演じているのか、どこかで話を伺いたいところだが……。しかし、あの味わいは玉男様ご自身が何を考えておられるのかまったくわからないからのような気もするので、玉男様にはずっと謎の人でいて頂きたくもある。



『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段 (1月 国立文楽劇場・2月 国立劇場本公演)

今年いちばん狂っていた公演。

遊女・阿古屋が「拷問」にかけられ、琴・三味線・胡弓を演奏するという内容で、歌舞伎では阿古屋役の役者が実際に楽器を演奏するところ、文楽はお人形さんのため「あたかも弾いてるように見せる」というのが普通だと思うが……、阿古屋の人形が本当に琴を弾いていたのが怖すぎた。本当に音が鳴ってる。ほかにも琴を弾く人形は何役かあるが、ほかの役(を勤めた人)とは桁が違う。とにかく気が狂いすぎている。

いったい誰に向かって琴を弾いているのか。本当に演奏する必要などこれっぽっちもない。演奏の精度は阿古屋の目の前にいるお客さんにしか伝わらず、後方席の人からしたらえらい地味な弾き方やな、手元がグシャグシャになっとるなと思われてしまうだけなのに……。勘十郎さんは理解不能な方向に狂ってる人だと思うが、その狂気が極まっていて怖かった。後日、勘十郎さんのお話し会の質疑応答でそれを質問した。と言っても直球でお伺いするのも憚られるので、「阿古屋の琴で手を置く位置は、本当に演奏するときの手の位置に合わせているんですか……?」とマイルドに質問したら、逆に「そう見えましたかぁ〜?(まったく目が笑っていない笑顔)」と質問し返されてビビり散らかしてしまった。鋭い。やはりこの人はやばい、狂っていると思った。

いままで参加したお話し会や上方文化講座での講義を聞くに、勘十郎さんって、本当に考えていることは話さないんだなと思う。お客さんがいかにも期待するような、建前的な「一般論」を説明してくるフシがある。簑助さんが現役だから自分の主体性を含んだ話は遠慮されているのだろうが、実際には相当考えてやっているはず。口で言わなくても舞台で全部表現してますということなんだろう。底の知れない人だと思う。

あと、太夫阿古屋役の津駒さんが掛け合いの他の人をぶっちぎった演奏をしていたのも最高によかった。



『新版歌祭文』野崎村の段 (7月 単発公演 湯布院)

今年いちばん行ってよかった公演。

出演は人形遣いのみ、義太夫が録音(昭和初期のレコードを蓄音機で再生させる)という形態の公演で、どっかの団体が自社プロモーションの慈善事業感覚でやっているイロモノのイベントだと思っていたが、大間違い。主催者の方(地元のレコード屋の旦那さん。蓄音機演奏担当)の熱意がひしひしと伝わってきた。この手のイベントって主催側が本当に(という言い方はあんまり好きではないが)文楽が好きかどうかが公演満足度に直結するかと思うが、この人は本当に文楽が好きなんだなと思った。公演自体の密度を上げようとする熱意が本当にすごい。数分で切れるSPレコードを途切れなくつなげて演奏する技術と工夫たるや、太夫さんや三味線さんが本当に演奏しているのと同じことだと思う。

また、このさい率直に言ますが、私は人形さんたちのパフォーマンスを最大に引き出す床を期待していますので、現状、単発公演を一人で背負える太夫がほとんどいない以上、床を山城少掾のレコードで演奏するという手法はそれをクリアする一種の手法になりえると思った。

人形の出演は勘彌さんがお光、紋臣さんがお染。可愛い系の表現ができる娘役がおふたりいたことによって上演できた演目だと思う。お座敷での上演のため人形を至近距離で見られたのだが、お光は普通に在所娘風のどこかぼさっとしたおぼこい感じで可愛かったのだけど、お染はあまりに美しく、不気味だった。完全に異界から来た生き物で、異様な威圧感があり、ただならぬ雰囲気。お染のみ、手すりのこっち側(客席側)へ出る演技が一瞬あったんだけど、そのときの恐ろしさは忘れがたい。本当に人形が生命を得て動き回っているようで、怖かった。もちろん、ご本人は「自分が日本一可愛い」というつもりでやってらっしゃるとは思いますが……。

来年以降もまた公演があるようであれば、ぜひ行きたい。今回は公演直前に存在を知ってしまったため、次回は早々に航空券を手配したい。とはいえ格安エアラインにしたので交通費は大阪へ行くより安く済んだし(そもそも羽田–大分便が安い)、湯布院で日帰り温泉にも入ったし(ほかのお客さんがおらず貸切状態で最高だった)、さらに温泉つきホテルに格安で泊まれたし、ずっと観に行きたいと思っていた臼杵の石仏群もついでに観に行けて、充実の小旅行だった。



『艶容女舞衣』酒屋の段 (9月 国立劇場本公演)

今年いちばん床がよかった公演。

奥の津駒さん・藤蔵さんがとても良かった。津駒さんがここに配役されるのはキャラ的に妥当なことで、津駒さんの酒屋は以前にも聴いたことがあるし、「まー津駒さんならこういう感じになるかな」という目算をもって観に行ったのだが、とんでもない。想像をはるかに上回るぶっちぎった演奏。狂ってるのかと思った。

お園のクドキは文楽でも屈指の有名場面であるとされている。しかし、この曲が有名曲であるというのは知識として知っているだけなので、形骸化した名曲、もっと言うと現行文楽には“古い”曲だと思っているフシがあった。しかしそれは違うと思い直すことになった。津駒さん・藤蔵さんの演奏はあくまで現行曲、いまのお客さんに理解してもらい、楽しんでもらうためにはどうしたらよいかという、現代文楽としての演奏だった。

津駒さんははっきり言ってやりすぎ、盛りすぎ、万が一もうすこし傾けば文楽の品格としてアウトの部類だと思う。が、そのキワッキワを狙ってくるあたり、本当、攻めてるなと思う。もはや誰からも何も言われなくなったので、思い通りにやってるんだと思う。先述の阿古屋しかり、7・8月の忠臣蔵の七段目のおかる役しかり。津駒さんは最近、「他の人、関係ありませぇ〜〜〜〜〜〜ん!!!」というおもくそ振り抜いた演奏になってきている気がする。そうなると当然三味線も相当盛ってもらわないと合わなくなるのだが、藤蔵さんでよかったよ……。藤蔵さんもアウトぎりぎりのラインまで来る人だと思う。というか、もはやギンギラに俗悪なのだが、もっといったれと思った。いまの文楽に足りんのは攻めっ気とコテコテぶりなんじゃい。くらいの演奏。でもそのぶん、お園の人形配役が清十郎さんだったので、お園の清廉さがキープされ、全体のバランスが取れていた。あの清澄さは清十郎にしかでけん!と思った。

津駒さんには今後もっとどんどん攻めていって欲しいと思っている。結構なベテランなのに異様に狂ってる人がいるのは面白い。初春公演では襲名されることだし、今後はもっと義太夫っぽい曲にも配役されるといいなと思う。



『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段 (6月 大阪文楽劇場 鑑賞教室公演)

今年いちばん自分にとって勉強になった公演。

大阪の鑑賞教室公演は、例年、出演者を4グループに分け、それぞれ同じ演目を別の配役で上演している。そのため、上演されるのはベタな演目ながら、ファンにとっては出演者の違いによる見比べが楽しめるプログラムになっている。グループによって会期が異なるので例年は2グループだけ行っていたが、今年は奮発して4グループすべてを観に行った。

これによって、「人形が、立って、歩くのは、とっても、難しい」ということがよくわかった。人形遣いさんの芸談によくある、派手な演技は誰にでもできるけど、シンプルな動作はとても難しいという話の意味、それがよくわかった。人形は、立って、歩いてるだけですごい。いや、まともに人形持ってられるだけでもう本当にすごい。それと同様に、「人形は左がちゃんとした人でないと大変なことになる」ということもよくわかった。松王丸がもう大変なことになっている回があり、「松王丸、左がまともな人じゃないと横向くことすらできない」ということがよくわかった。慣れていない人をあえてつけたのだと思うが、あんなにも出来ないもんなの!?とびっくりした。だからといっていつもやっている人にばかりやらせても今後どうしようもなくなるので、もう、ひたすら「みんな、頑張ってくれ!!」と念じた。

あとは玉男さんの安定性がよくわかった。まったくブレがない。人形自体の安定感はもちろん、演技に安定性がある。動作ひとつひとつの方向性に乖離や揺れがない。表現の根幹になる性根への考えにブレがないからだと思う。これと競合せいと言われる残り3人の松王丸役の人は大変だと思った。前述の『国言詢温度』もそうだけど、今年は玉男様の良さを改めて知った気がする。




次点は『祇園祭礼信仰記』(4月 国立文楽劇場本公演)、『仮名手本忠臣蔵』祇園一力茶屋の段(7・8月 国立文楽劇場本公演)、『傾城阿波の鳴門』(11月 単発公演・西宮)。こうして見ると、意外と(?)大阪公演の満足度が高い。東京公演は企画のレベルが高いと思うけど、大阪公演は東京ではできないギラギラ演目を臆面もなく出してくるからでしょうか……? 『楠昔噺』なんかは、東京では出せないだろう、東京の客には価値を理解してもらえないだろうと言われてるらしいですね。大阪は大阪で(こういう表現もどうかと思うが)俗悪路線を極めて欲しい。文楽はやっぱり興行であってこそだと思う。

観客としての自分自身については、人形の見方で気づかされるものが多かった。それにはいろいろあるんだけど、一番大きいのは舞台を誠実に観ていないという点。思い込みだけで観ている傾向がある。例えば、私は文楽を見始めたころに玉志さんを「この人誰? 妙にうまいな」と思ったのだが、それ自体は「当時の私、見る目あったわー、よー気づいた」と思うのだが(自分が名前を知らないだけで、その時点ですでに役は良かったので目立っていた)、ほかの人も含めて、見始めたころから評価している人があまり変わっていないというのは、単に人形をよく見ていないからのような気がする。

具体的には、12月は『一谷嫩軍記』を何回か観に行ったのだが、人形の演技を覚え始めたあたりから、自分が玉志さんの演技を正当に評価しているのかがわからなくなって気が狂ってきた。普段から玉志さんを結構凝視しているので、その差分を読み取って演技の意図を類推しているにすぎず、目の前の演技をちゃんと観ていないのではないか(過剰に読み取っているのではないか)と思い始め、いったい、文楽に来ているほかのお客さんたちはどれくらい人形の演技を見ているのだろうと思った。

それで思い出したが、新聞に劇評を載せているある専門家の方、いつも人形についてあんまり書いていないので、昔が忘れられない(床の存在自体を過剰評価しすぎの)人なのだと思っていたのだが、何度か劇場でその人を見かけたときの席が「そりゃそこからでは人形見えないよな」というところで、見てないもんは書けないから書いてないとわかった。本当は一行も描きたくないだろうが、新聞社の要請で一応触れているんだろう。ある意味誠実だなと思った。

文楽、今年も楽しかった。来年はしっかり三味線の演奏を聴きたい。そして、もうすこし丁寧に浄瑠璃と突き合わせた上で人形を見ていきたいと思う。あとは、奇抜な場所での単発公演があったら、行きたい。

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