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森見登美彦という呪い

貴君らの友人がある日を境に「愚かであること」を表現する際、「阿呆(あほう)」という言葉を使ったならば、その友人は恐らく森見登美彦という呪いにかかったと思った方がいい。

この"森見登美彦"というのは近年まで小説家だと思われていたが、その実態は寧ろ呪いに近いことが最近の研究で明らかになった。

この呪いは特に思春期によくかかる。

症状として、なんでもないような事を文章で書こうとすると、やたらとこねくり回して表現してしまうようになることなどがあげられる。

例えば「今日の夕飯のハンバーグはあまり美味しくなかったが、頑張って食べた。」このような何でもない日常のある風景を描写する際、この呪いにかかってしまうと、

「私は腹が減ったので、なにかないかと冷蔵庫の中を覗いてみた。すると、先日買っておいたハンバーグがまだ残っていたので、これを夕餉とすることにした。適当に温め、一口食ってみると一瞬にして口の中が不快感に包まれた。これはミンチにされた家畜たちの怨念であろうか。私は修行に耐える仏僧の心持ちでその不快の塊を口に運び飲み込んだ。」

このようになる。なんと恐ろしい呪いであろうか。

また、森見登美彦の呪いにかかると様々な表現を、耳馴染みのない言葉で表そうとする特徴が出る。
それこそ「愚かなこと」を示す表現として「阿呆(あほう)」を使ったり、「付き合うこと」を「恋仲になる」、もしくは「ねんごろ」など表現したりする。「貴君」などと言い出した頃にはもう手遅れである。その友人はそれ以降、大した文学の知識もないのに毎年下鴨納涼古本まつりに足を運び、小難しい本を散策しながら黒髪の乙女の夢を見る悲しき妖怪として生を全うすることになるだろう。

この呪いにかかった人物は同じ呪いにかかった人物を見分ける能力が異様に発達する。

スタンド使いと同じく、森見登美彦にかかった人間は惹かれ合うのだ。

しかし、行動パターンさえわかれば、誰でも判別することができる。

まず、森見登美彦の呪いにかかった人間はカルチャーを感じる場所に所属していることが多いように感じる。
文芸部、映画部、演劇部、軽音部などに多いのではないだろうか。
例えば演劇部で、冒頭に早口かつ淡々とした口調で小難しい言葉を羅列するような舞台がされていたならば、その脚本家は森見登美彦の呪いにかかっているとみて間違いない。

また、この呪いにかかってしまった悲しき亡者たちの休日の行き先にも特徴がある。

彼らは毎年下鴨納涼古本まつりに姿を表す。
冷静に考えて、この熱中症による被害が叫ばれる現代において、何が楽しくてわざわざ真夏の炎天下で汗を滲ませながら古本なんぞ漁らねばならぬのか、大衆的な感覚では理解に苦しむことだろう。
しかし、彼らとって下鴨納涼古本まつりはただの古本まつりにあらず。彼らにとっては砂漠で見つけたオアシスのような輝きを放っているのである。
彼らは古本を見に行っているのではない。丑三つ時に羽虫が電灯の光に誘われるように下鴨納涼古本まつりに吸い寄せられているのだ。下鴨納涼古本まつりにいる人間は十人中八人は呪いにかかっている。残りの二人は森見登美彦である。

そして、彼らは黒髪の乙女に異様な執着を示す。また、ぶっきらぼうであれば尚良しとする。
彼らの夢は黒髪の乙女と、ひょんなことから仲良ること。そして、2人で歩いている時に、その乙女に1匹の蛾が止まってしまい、「ぎょええええ」と漫画のような素っ頓狂な悲鳴をあげている様を眺めることである。
彼らは努力こそしないもののこの夢の強さだけはフランダースの犬のネロがルーベンスの絵を見たいという気持ちと引けを取らない。
そして、願わくば共に五山の送り火を眺め、その後のあれこれを「語るに値しない」などとスカしてみたいと心の底から願っている。

しかし、悲しいかな大抵の黒髪の乙女は彼らに興味がなく、カルチャーの匂いが漂う黒縁メガネの塩顔イケメンと付き合ってしまう。

亡者たちは黒髪の乙女がフジロックで下北沢発のインディーズバンドのライブを、カルチャー男と楽しそうに鑑賞している様をインスタのストーリーで見つけてしまい、血の涙で枕を濡らし、爆音で銀杏BOYZを聴くのである。

この呪いを解く方法は今のところ発見されていないため、今日もどこかでまたこの呪いにかかったものの家から「夢で逢えたら」が漏れ聞こえていることだろう。

なんと罪深き呪いであろうか。私は一刻も早くこの呪いを解くことのできる呪解師を探すべく、近いうちにグリードアイランドにでも潜入しようと思う。

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