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人は死ぬ前に透明になる。。。

 「フォルトゥナの瞳」は、百田尚樹さんの小説で死を目前にした人が透けて見えるという内容なのだが、もちろん小説だから、フィクションなのだと思う。しかし、この「フォルトゥナの瞳」を実際に体験しているということを書かれている小西浩文さんの「生き残った人の7つの習慣」について紹介したいと思う。

 小西浩文さんは、無酸素登山家で何度も死を目前にしても生き残ってきた方だ。その著書「生き残った人の7つの習慣」の中で、登山の危機管理は「事前準備」がすべてだと論じている。
 しかし、どんなに容易周到に事前準備を行ったとしても、想定外のことは起きる。事故が起きたときに人は想定外だったからという言い訳をしがちだけれど、想定外の出来事が起きるのも、原因があるのだという。

正常性バイアスという落とし穴
 想定外の出来事が起きる一つの要因として、正常性バイアスが働くということがある。
 正常性バイアスとは、認知バイアスの一種で自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりする認知特性のことをいう。
 いわゆる「気の緩み」「過信」「驕り」ということだろう。ゴールを目の前にしたとき、人は、あと少しでゴールだと思い、ゴールだけしか見なくなる。ゴールが近づいていないときには周囲の状況にも気を配るのだが、ゴールが見えた瞬間に周囲の状況が見えなくなるのだ。

危機の予兆
 もう一つ、危機管理で大事なことは、危機の予兆を見過ごさないということだという。危機の予兆は「いつもと違う」というかたちでやってくる。登山仲間がいつも言わないことを言う、いつもは必ず持っているお守りを忘れる、等些細なことなのかもしれないが、そういう「いつもと違う」ということが後から考えると危機の予兆だったということだったそうだ。

 そういえば、この「いつもと違う」と言うことを自分も体験している。昨年、私の母が亡くなったのだが、今から思えば、あぁ、あの時の母の言葉や行動はいつもとは違ってたなということを思い出す。
 母は、一軒家に一人暮らしだった。足が悪く手押し車(歩行器)を使って歩いていた。歩行器を使って歩くくらいだから、大きな病院に一人では行けないことから毎月の病院通いは、車で1時間ほど離れたところに住んでいる私が、付き添っていた。
2021年3月初旬、整形外科の診察のときに、母が言った。
「先生、私、何歳になったかね?」
「91歳ですよ」
「あぁ、もうそんなに生きているのか」
あれ、いつもこんなこと言わないのに何だろ?と思ったのだけれど、会話の流れから不自然さを感じなかったため、そのときはそのまま、やり過ごした。3月末頃に母から電話があった。今から考えるとこの電話も「いつもと違う」ことだった。
毎月の病院通いに付き添っていることもあり、次の病院通いまで私が母に連絡を入れることはあまりしていなかった。普段忙しくしている私は電話しても居ないことが多いから、母もあまり電話をしてくることはなかったのだ。
しかし、その日は違った。日曜日の夕方、外出から帰ってきた私がソファーでくつろいでいるとき、電話が鳴った。母からだった。
「何回も電話したんだよ。今日ね、一人で歩いて美容院に行ってきたんだよ。」
いつもは、私の義理の姉が車椅子で美容院に連れて行くのだけれど、その日は、一人で美容院に行ってきたという。
「時間がかかって、途中休み休み歩いていたら、美容院の人が声かけてきてどこまで行くの?って聞くから、お宅の美容院まで行こうと思ってたと言ったら、介助してくれて助かったんだよ。」と嬉しそうに話しをしていた。
他愛もない短い電話での会話だったけれど、この日の電話もさほど気にすることなく電話をきった。
この時の会話が、元気にしていた母との最後の会話だった。

3つの異変
 クライマーにおける危機の予兆は、
 1.心ここにあらずでボーッとしている。
 2.目がキツネのようにつり上がって、言動が乱暴になる。
 3.透明感が出てくる。
の3つの異変があるという。

1.と2.は、「いつもと違う」に分類されるだろう。
3.は、著者の特殊能力なのかもしれない。
著者は死を間近にした人は透明感が出てくると言うのだ。著者の言葉を引用してみよう。
「私は、これまで事故や悲劇に見舞われた人たちが、その直前、この世のものとは思えない透明感が出て、むしろ本当に透けて見えるという現象を何度も目の当たりにしているのだ。」

まさに百田尚樹さんの小説「フォルトゥナの瞳」ではないか。
小説の中では、死を目前にして生き返った(生き残った)人がこの瞳の能力を得ることができるのだとしている。
著者の小西さんもまさに九死に一生を得ている人物なので、該当している。

フォルトゥナの瞳は、本当にあるのだろうか?
小西さんは、このようにも言っている。
「人が透明に見えるなど、怪しげな宗教や超能力の類だと思われても仕方がない。だが、あえて私がこのような話をしたのは、皆さんに『危機の前には必ず何かしらの予兆がある』ということを、どうしても理解していただきたかったからだ。透けて見えるというのは確かに私だけが感じたことなので、科学的には証明できない。」

実は、私も臨死体験をしている一人だ。
死が目前に迫っている人を見ても、透けて見えることはないけれど、なんとなくその予兆は感じることは出来る。いや、誰でも「いつもと違う」ということに意識を向けるだけで危機の予兆を感じることができるのではないだろうか?

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