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百合樹 第六章馬鹿だねって言われたって ④ 常識

第六章
馬鹿だねって言われたって

何を自分の信念に据えるべきか。
正しいと信じたものを否定されることは往々にしてある。
が、他人の否定を信じないのに肯定だけ信じるというのはいかがなものだろう。
どちらも信じられないのであれば、最後に信じるべきはきっと。


常識

林檎は木から落ちるし、火は触れると熱い。

父の父は祖父であり、朝には太陽が昇って、夜には月が出る。
芝生に寝転べば気持ちがいいし、シュークリームは有無を言わさずに美味い。
これらは世の中において、常に決まり事として認識されていることのほんの一部に過ぎない。
(芝生とシュークリームに関してだけは、何人も異論を認めない。)

こうした世の中の共通認識は、どのようにして生まれるのか。
どのような事象が共通の認識と定義され、どれだけの人の共感を得て、そのようになり得るのだろうか。
こんなどこまでも不毛な問いに思考を巡らせている。

そんな私の目の前には、数十枚の調査書が雑多に積み重ねられている。
少し視線を延ばせば、百枚は超えるであろう高い山を積んで、睨めっこをする者までいる。
ここは今、研究の真っ只中なのだ。

かき集められた一つ一つの個性を集約し、その特徴を共通項とすることで、新傾向を見つけ出す。
私たちが今やろうとしていることは、ある種、世の中に向けて新たな俗識を投げかけることに他ならないのかもしれない。
そう考えれば、これだけ大変な作業もやって然るべきものな気がしてくるし、むしろ、投げかけをする立場にしては、自分の労力が不足しているのではないかとさえ思えてきた。
学生たるもの、勉学に励むことこそ本業だという俗説ができあがってしまったのも頷ける。

今、自席の対面に小さな影が見えているのだが、どうやら彼女は鹿威しになりきっているらしい。
いや、ペースで言えば赤べこだろうか。
夢の彼方である。

ここに来れば、彼女に会って直接話をすることができるのだが、あい変わらずオンライン上での返事はない。
返信が二、三日返ってこないなど多々あるし、連絡がつかないが故に約束をするのも一苦労である。
一週間ほど連絡がないかと思えば、急に大量の連絡が入ったり、会わないだの興味ないだのとごねてみては、不意に擦り寄ってきたりする。

猫なのか。

猫ならばもっと楽なのだろうが、自我を持った人であるから仕方がない。
(もちろん猫にも自我はある。これは言っておかないと何か語弊を生みそうで怖い。)
付け足すと、彼女の自我は少し強めだ。
二人で出かけようと立てた予定も、彼女の自我にかかれば簡単に書き換えられてしまう。
白紙にするのもお手の物。
あげた贈り物を純粋に喜んでくれる時があれば、これはいらないとバッサリ切り捨てられる時もある。
聞こえがよい言い方をするのであれば、とっても素直なのだ。
どこまでも自分本位で欲望に忠実。
そんな彼女に惹かれてしまったのだ。

昨今の世の中では、色々な目を向けられることが増え、誰とも知れぬ人達の言葉が自分に飛んでくるようになった。
他人が見ているものを、さも自分の目で見たかの様に錯覚し、自分の発した声がどこまでも大きな声だと勘違いをすることも稀ではない。
情報が飽和して、何が正しいかも分かりづらくなってしまった現代に、こんなにも純粋に、自分の感情に素直なまま生きられる人がいるのだろうか。

他人からすれば、彼女の態度は一見冷たくみえるだろうし、私たち二人の様子は、世間の持つ恋人同士のそれとは違うかもしれない。
ただそれは、あくまで私たちの中の恋人同士という形態が、世間の持つ恋人同士というものの認識を逸脱しただけのこと。
きっと世間に悪気はない。
悪気はないのだが、世間は悪意がないままに、正しいと思い込んだ姿を私たちに叩きつけてきたりする。

現に、
『本当にお前は幸せなのか。』
なんて聞かれたこともある。
失礼極まりない。
逆に、
『あなたの彼女は幸せでいいね。』
なんて言われたこともある。
冗談はよしてくれ。
誰が誰の幸せを決めているんだ。

誰の批判も当人からしてみれば的外れであるし、本人から聞いていない想いなど、どこまでいっても彼女の本心にはなり得ないのだ。
馬鹿だねと言われようが、間違っていると言われようが、自分が思っていることこそが全てであり、彼女から聞いた言葉が真実なのだ。

自我が強く、自分の気持ちを一番に考える彼女が、私と離れたくはないと言ってくれている。
それが全てであって、それ以外に信じるべき言葉など存在しない。
そして、誰が何と言おうと私は幸せであり、大切な人をどこまでも信じ続けるしかない。
愛し続けるしかないのである。

私は、人として、常に、自分にとって大切なものは何なのか、この胸に識し続けていきたい。

常識とは結局全て、自分の中の世界の話でしかないのである。

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