青空エロス(太宰と三島と拒食とマッチョ②)

クルーズ版でのやりとりを通して「青空エロス」という言葉が出て来た。青空と青い海をバックに、ビキニを着たグラドルがニッコリ、みたいな世界を、そう呼んでみたのだけど。
そこでふと、思い浮かんだのが、三島由紀夫の「潮騒」。古代ローマやギリシャで謳歌されたような、開放的なエロスを、本来、閉鎖的なエロスをよしとしてきた日本の風土に持ち込み、清新な印象を与えた傑作だが、映画化されたりすると、ビミョーにマヌケだったりもする。
過剰なものって、マヌケに映りがちだけど、健全すぎるものについても、やはり、そうなのかなって。
もちろん、三島は本気でその健全さに憧れ、日本文学史上稀な「青空エロス」を創造してみせたわけで。しかも、彼は「文学的創造」だけでは飽き足らず、ボディビルなどによって、自らの肉体を「潮騒」バージョンに改造していくことになる。
「太宰と三島と拒食とマッチョ」という記事を書いた頃から、彼のこうした嗜好というか、方向性について、時々考えてみるのだけど、わかるようでわからない。ただ、その(ややステレオタイプな?)健全さへのあくなき願望が、たとえば太宰治的な、じめじめとしたイメージを持つ文学とは、異質な世界を築き上げた、というのは確かだろう。
とはいえ、根っこはどっちも同じという気もして、要は、芸術家なんて、みんな似た者同士なんだけど。それを言っちゃおしまいなので、次は、僕が考える、両者の決定的違いについて書いてみたい。
うん、このテーマ、ようやく結論めいた方向へ行けるかも。

(初出「痩せ姫の光と影」2010年10月)


青空エロスって言葉、個人的に懐かしい。例として挙げたグラビアなど、全然エロくはないわけで、つまるところ、幻想みたいなものだろう。そういう意味で「潮騒」も一種の幻想小説かもしれない。実際、三島由紀夫は自らの幻想に殉じてあの最期を遂げたわけだし。

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