太宰と三島と拒食とマッチョ①

「ああ、汚い、汚い。女はいやだ。自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、厭だ。金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだ一ぱいにしみついているようで、洗っても洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当たることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。ふと、病気になりたく思う。うんと重い病気になって、汗を滝のように流して細く痩せたら、私も、すっきり清浄になれるかも知れない」(太宰治「女生徒」より)

この作品には、このあと、
「肉体が、自分の気持ちと関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。なりゆきにまかせて、じっとして、自分の大人になって行くのを見ているより仕方がないのだろうか。いつまでも、お人形みたいなからだでいたい」
という文章も出てきて、太宰文学というのはなかなか、拒食的だな、と思ったりもする。
そんな太宰を嫌い「治りたがらない病人などには本当の病人の資格はない」と、斬り捨てたのが、三島由紀夫。
「太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった」
「太宰の文学に接するたびに、その不具者のような弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは、強大な世俗的徳目に対してすぐ受難の表情を浮かべてみせたこの男の狡猾さである」
とも言っていて、実際、三島はボディビルなどによって体を鍛え、文学的にも、思想的にも、マッチョな方向性を模索していく。

そんな両者をちょっと比較してみよう、というのが、この企み。大風呂敷を広げすぎた感もあるけど、やれるところまで、やってみようと思います。


(初出「痩せ姫の光と影」2010年8月)


高校時代、親向けに配られた「子供の変化で気をつけること」みたいなプリントに「太宰や三島のような厭世的文学を好むようになる」という項目があった。三島にすれば一緒にされたくないだろうが、太宰への感情は同族嫌悪に近い。拒食や過食嘔吐、非嘔吐過食をめぐる病気内格差などもまたしかりで、人間にとってマウンティングはもはや本能なのだ。



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