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卒業式と入学式

お彼岸に お墓参りに行く途中、携帯にメールが入った。息子からだ!         「おはよう。明日 小学校の卒業式ですが、先週からジュン(私からは孫)が 学校を休んでいる状況です。特段何かあったわけでもないようで、学校に行くスイッチが入らないようです。家では いたって元気ですが・・」  私は 運転手さんとの話を中断して すぐ返信した。         「それは心配ですね。いま お彼岸で お寺にむかうタクシーの中です。 駅に着いたら電話します」と 同時に 又メールが入る。「担任とも話をして無理に学校に連れて行くようなことは しないようにしています。親として卒業式に参加できないのは 残念ですが、息子のこれからが大切なので、中学校にしっかり行けるように準備をしたいと思います!」「お父ちゃんも大変ね!落ち着いたら電話していい?」「電話はいいですよ!特に問題もないので安心してください。心配させるつもりは無く、とりあえず報告しておきます。今日明日の晩にでも こちらから 連絡します!」「了解しました」

思い返せば、息子の妻Мちゃんが 乳癌を発見したとき、孫ジュンは2才半だった。金沢に転勤していた息子夫婦が 急遽 妻の実家の近くにマンションを購入して、あちらのご両親のお力を借りながら 7年の闘病生活をがんばってくれました。そして、一昨年の5月に亡くなったのですが…  

その間、ジュンは泣きませんでした。 たった一度だけ家族葬の本葬の挨拶に立った息子が 感極まって涙声になった時に 初めてジュンも声を詰まらせ泣きじゃくりました。皆で「泣いてええんよ!おお~きな声出しておかあちゃ~ん、って泣いてええんよ!」と言って 頭を撫でることしかできませんでした。

孫ジュンは小学5年生になったばかり。クラス替えがあり、4年生の時のお友達と離ればなれになり、5年生のクラスがはじまったばかりで「忌引き」に入り、そのうえ お母さんの姉さんの長男君が ジュンと同級生で、その子から「おたふく風邪」をもらってしまい、そうこうするうち 夏休みに入り、長期欠席になってしまったのでした。

お母さんを亡くして初めてのお盆を迎え 我が家に帰省していた時のこと。 私の娘(ジュンからは 叔母に当たる『ねえねえ』と呼んでいた)が 「多発性骨髄腫」と分かって 京大病院に通っていた時のことでした。 ジュンには 母を亡くしてまだ数か月しか経っていないので、ねえねえが癌であることを知らせないでおりました。ショックが大きいと 思ったからです。  8月から始まるはじめての治療は ジュンたちが帰った後の翌日に 予約していたのですが、 台風19号が来るというのです。 「台風で電車が止まれば 点滴治療が受けられなくなる」というので 急遽 ジュン達も家に帰るのをのばしました。 そして 病院に電話して相談したところ、繰りあげ治療を受けることになりジュンのお父さんが車を出して 病院に連れて行ってくれることになったのです。ねえねえが病気だということは この時点で気が付いたと思うのですが、ジュンは何も言いませんでした。しかし 長い長い治療の待ち時間に「この病院で診てもらっていたらお母さん どうだったんだろうね?」と ジュンが お父さんに言ったそうです。その時どのような返事をしたのか、聞いていませんが、やはり お母さんのことを 思いだしたのでしょう。 

5年生の夏休み明け ジュンは学校に行けなくなってしまったのです。辛うじて週2日か3日、好きな国語の時間だけは 学校に行けました。 丁度その時は 俳句の授業だったらしく、俳句の指導を受けて出来たのが

「紅ケヤキ 杉より ちょっと おしゃれ好き」

それを きいて、ねえねえも私も 飛びあがって喜びました。

6年生になって コロナで始業式が遅くれたこともあり「学校に行けるようになりました」と息子からの報告があり ホッとしているところに、あちらのバアバアから「この前、マンションの玄関にジュンの自転車(ジイジイが買ってくれたもの)があったので『あれ~?』と 見ていたら サドルの上に ヘルメットが置いてあったので『どうしたの?』って聞いたら『友達と公園へ 自転車で行って来た』って、言ったんですよ~」と 電話があり、二人で泣いて喜びあいました。

ジュンにとって、先生もお友達も とてもいい関係だったのでは?と思います。ですから、ジュンの6年生は「あっという間の1年」だったのでしょうだから卒業式が近づくにつれて、いろいろなお別れの練習があり、それが辛くてつらくて仕方がなかったのではないか?と想像します。

ジュンにとって「お別れ」は 特別にツライもの

ジュンのお母さんが まだ元気な頃、私は 新幹線に乗って ジュンに会いに行きました。その当時 ジュンは「公文」を習っていて、「毎日決まった分だけやる」ことになっていたのですが、私が来たものですから 遊びたくって、やらなかったのです。ジュンのお母さんは ジュンがやるまで、後には引きませんでした。私もそれに合わせてジュンがやり始めるまで、静かにしていました。そうしたら、ジュンが やっとやり始めたのです。 が… 時間をとってしまっていたのです。日帰りの訪問だったので 私は 静かにしながら「帰りの新幹線の時間」を気にしていました。  腕時計をそっと見て「あ~、時間が…」 

出来ました。がんばりました!けれど、駅に向かう時間です。「ジュン、早く車に 乗れ!」お父さんが 言います。 私たちも 急ぎました。 新幹線の駅までは なんぼ急いでも 20分はかかります。切符を買っていたものですから… 慌てて改札口へ駆け上り、振り返って、ジュンに 目いっぱい手を振りました。バイバイです。その時一瞬 ジュンが へなへなと 地面に座り込んでしまった姿を 今でも、はっきり思い出します。ジュンの気持ちに 応えられなかった無念さとジュンの気持ちを考えると、どうにも 申し訳なくて 忘れることが出来ません。

「遊びたくって、これをやらなきゃ~、遊べない!」と一生懸命にやったのに・・・お別れが 来てしまった!


そして、お母さんとの「お別れ」 

ジュンは本当にがんばりました。7年間という、長い年月。 2才半という母親の「ハグ」が「愛」が 一番欲しい時、それでも 泣かずにがんばりました。「3才のころやったかな~、夜中に夢遊病みたいに起き出して『さみしい~、さみしい~!』って泣いてた」と、つい最近 おとうさんから聞いた話は 寝耳に水でした。その話を聞いて ジュンの心の傷の深さを 知りました。なにも出来なかった自分を 申し訳なく思いました。 

火葬場にむかう途中のことでした。「ねえ、ねえ、お父さん!お母さんはここで どんなに なるの?」と聞いている声で 振り返ってみると、大股で歩くお父さんに 小走りで 付いて行きながら、ジュンが お父さんの顔を覗き込んでいるのです。お父さんは おおきな空の骨壺を抱えながら「そうだな~、小学校の理科室に つってあるの、アレみたいになる」「アレ?」「うん、ガイコツ!」 私は それっきり 前を向いて歩くことで 精一杯でした。


お母さんとの別れから 一年半の後。「ねえねえ」と呼んでいたジュンの叔母ねえねえが 亡くなりました。ジュンにとってもジュンのお母さんにとっても 優しいねえねえでした。でも、もうだれも ジュンに「忌引き」を強いることは しませんでした。お父さんは「参加するか?しないか?は ジュンが決めることだよ」といいました。ジュンは 一人でお留守番することにしました。お父さんは言いました「さみしかったら、ジイジイのとこへ 行きな!」と。でも「行かない!」ジュンは言います。一日一回、おかずをバアバアが 持ってきてくれます。が、『はじめてのおるすばん』それは 3泊4日間のお留守番でした。

土曜日の朝、息を引き取ったねえねえは 日曜日に通夜で 親しいお友達とジュンのお父さんと私だけの 小さなお葬式を 月曜日に行いました。  翌日、お寺さんに ご挨拶に行って、火曜日の朝一番に お父さんは ジュンのもとに帰りました。 

日曜日の夜 明日の学校の準備です。ジュンから「給食のエプロンのたたみ方教えて!」と電話が入りました。「どうだ!一人はさみしか?」「ゲームに 飽きたから やっぱり、さみしい!」ジュンが答えます。「そうか~、さみしいか~?火曜日には帰るから がんばれよ!」そして、お父さんが 上手に給食当番のエプロンのたたみかたを 説明するのを聞いていて、感心しました。

私は 自分の孫でありながら「見守ることしか出来ないこと」を 実感して  自分自身に「しっかり見守るよう」いいきかせることしかできませんでした

そして、「息子はとてもよくやっている」と、心の中で手を合わせました。



そして、 息子から メールが入りました。

「先ほど、小学校に行って、担任の先生、校長先生、教頭先生に 二人で挨拶に行ってきました。とりあえずケジメはつけることが出来ました。4月からの中学校に供えます。明日、会社から時間がある時に連絡します」と!

私は すぐに返信しました。

「それは、それは よかった! 電話 まってます!」




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