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”代書や‘‘初めます?(2)

 「”代書や”はじめます?(1)」を読んで「マイトリ♪さん」がコメントをくださった。その中で「ラブレターの代筆も 素敵にお書きになるんだろうなあって思っています」と書いてくださったことで思い出したことがある。

 マイトリ♪さん、のコメントの返事にも書いたのだが…。

「そうなんです。こんな私はきっと母譲りだと思います。
なぜか?っと言えば…。」その返事を詳しく書くと…。


 すぐ上の、つまり 私より7歳上の姉は四年生の共学の大学に進学した。
共学だから、ボーイフレンドは沢山いたものの「帯に短し、たすきに長し」で なかなか結婚まではいかない。 そこで、母は焦った。
何回も見合いするものの、目が肥えていたのか、それとも…?
こちらが良ければ あちらが断わる。あちらが良ければ こちらが気に入らないというので、話はなかなかまとまらない。

 これが最後というお見合い相手の文通で、姉の下書きした手紙を読んだ母は「え~、じれったい! じれったい!」と、思ったかどうか分らないが、 「もっと情熱的な手紙でないと!」と、業を煮やして即戦力を使った。

 母が姉のお見合いを進めるために、母が姉のお見合い相手に熱烈な手紙文を書いたことであった。    

いや~、考えられへん! 親が娘に代わって、ラブレターを書くかぁ?!   

 その時、姉の手紙文と母親の書いた手紙文を読み比べていた兄が 
「お母さんの手紙文のほうが よっぽど情熱的やなあ」と
ニタニタ笑っていたのを覚えている。
姉が大学を卒業して2年目の春のことだった。
しかし、その縁談が成立することはなく、姉は別の人と結婚した。

 そんな焦る母を見ていた私は「早く結婚しなければ…」と思い込んだ。
そして、女子大に行き、女子大でも理想とされていた「卒業してすぐに結婚」を見事実践した。とりわけそのように目論んだ訳ではなかったが、私は卒業したその年の秋に結婚したのだ。
それが「吉」と出たのか、「凶」と出たのか? 
そのことについては 追々書いてみたいと思っているので、乞うご期待を!

 それは別として、親孝行だったことには間違いない。
母は私にこう言ったのだ
「00ちゃん(私)は親孝行やったなあ」と。

あの当時、4人の娘を持った母親の最後の大きな役目とは
「行き遅れにならないように娘を結婚させる」ことだったようだ。


 私は無口だが筆まめだったようで、高校時代から 同じ高校に通いクラブも一緒で、毎日学校で会っていたにもかかわらず ハガキをよく書いた。 誰かのおかあさんが「00(私)ちゃんは筆まめやなあ」と言ったそうな。

 そのハガキで私が一番よく覚えているのは、友達を「株式市場の値幅状況をラジオで伝えられる如く…」 例えば

「A子ちゃん(当時はニックネーム)この前、私の宿題をまる写したので 腹が立つから50円安、
B子ちゃん △に誘ってくれたので100円高、
C子ちゃんはいつも通りなので相も変わらず」
ってな調子でD子ちゃんに送っていた。
内容は今思いついた文よりも もっと中身の濃い面白い文面だったように記憶する。

 結婚して夫が癌でお世話になった緩和ケアの病院でも、夫が亡くなった後一年間、退院されたご家族に手紙を書くボランティアをしたことがあった。
 緩和ケア病棟のある病院の退院とは 患者さんがお亡くなりなって退院になるので、ご家族への心のケアとしてのお手紙だ。
 病院では 元々担当の看護師さんが書いておられたらしいが、やはり忙しいので おおきな負担になっていたらしい。そんな時お声がかかったのだ。   なんで私にお声がかかったのか?と 不思議に思うが…。今から考えると、夫がお世話になった病院へのお礼の手紙が原因ではなかったか?と、推察する。

 この緩和ケア病棟の病院で夫は「ここは天国や!」と言って亡くなった。先生も看護師さんも「緩和ケア」の担当になるには特別な試験を受けなければならない。だから、普通の病棟の看護師さんと違うことは はっきりしていた。夫が亡くなった後も家族として、私の月一の健康管理に関与してくださってもう15,6年になる。その後娘がお世話になって、3年。身内のように関わってくださるのも、「代書」ならぬ「手紙書き」だったようだ。

 どうして1年で辞めたのか?
理由は誰にも明かしていないが、いまここで書かせてもらうと
1)退院されて出す手紙は半年、一年、二年の3回だ。これは多すぎる 
2)亡くなられた方のご趣味の記念切手が寄付され、それを使ったいた
3)それらに対する私の意見を取り上げ、改善されなかったこと
4)息子の妻が遠方に住んでいたものの「癌」を発病したこと

私の意見は
1)手紙は一年目の一回でいい。患者の家族として初めてのお手紙は感動したが、2度3度になると返って家族の神経を逆なでするように感じるのではないか? と進言したが 聞き入れられなかった。
2)記念切手には手紙の内容にふさわしいものでないのが多々あった。
記念切手なので華やかなのがあって、手紙の内容にふさわしくないのがあったので、記念切手を売って月並みの切手に交換することを提案。忙しい看護師さんに代わって私が交換して来てもいいですよ。との提案も却下された。
3)書き続けるうち、ご家族から「このような手紙はやめてほしい」と電話がかかるようになった。

やはり、「過ぎたるは及ばざるが如し」だったようだ。

手紙とは「中身の文章もさることながら、便箋や封筒そして切手に至るまでもう一つ付け加えると封筒の口を閉じた時に使う「封」や「〆」の代わりにどのような物で封印するか?で印象が変わってくることを知っておきたい。「何を伝えたいか!」を 統一してこそ「伝えたいこと」が伝わるのだ。と、私は思う。

 そんなこんなで、私は 母の血を受け継ぎ、知らず知らずのうちに
”代書や”のようなことをやっていたのだ。

 さて、ラブレターは どうだろう? 
自分の時はどうだったのか?
残念ながら…。
トンと思いだせないのは どうしてなのかしら…?

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