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エアー・スマホ(1)

 私は駅の中央改札口で 彼女を待った。
駅の時計を見ると、待ち合わせ時間にまだ15分ある。どの辺りだったら 彼女の目につきやすいのだろう?と 辺りを見回していると、脇からひょいと 白髪のおばあさんが私にくっつくようにして現れた。
怪訝に思っていると、それを察知したのか
「今、あっちのベンチに座ってたら 年いった体格のええおじいさんが突然横に座ってきて、私に『誰まってんのん?』て話しかけながら私の太ももを触らはったから、気持ち悪いよって奥さんのとこへ来たん」と言われた。
「へえ~?」キョトンとしている私、するとその人は
「私、孫を待っとりますねん。時間早よう来たんで、ちょっとベンチに座ってたら… 気持ちわる~!」と、一時ちいさく身震いして「待ち合わせですか?」と聞かれた。
「はい、私も待ち合わせですけど、はじめて会う人なんで…」と辺りを見回した。「へえ~、初めての人ですかあ?」「はい、娘の友達で…」と言ったところで、そのおばあさんが柱の陰に一人スマホを見ている若い女性がいるのを見つけて「あの人と違いますかあ?」と言った。
「そうかもしれないですねえ。ちょっと行ってきます」と小走りに近づき
「あの~、00さんですか?」と顔を覗き込むようにたずねると、スマホから目を離した女性は黒髪をかき揚げ無言で首を横に振った。
「すみません、人違いでした」と頭を下げ、白髪のおばあさんの方へ顔を向け大きく首を横に振った。おばあさんは「うんうん」うなずいて、顎で反対の方角を指す。 見ると、改札口からさほど離れていない場所で これまた スマホを真剣にみている若い女性がいる。早速そこへ移動して声をかけた。しかし、その人も違っていた。
私はおばあさんの元にかえり「違いましたわあ」と言って改札口の方を見たすると、ベージュ色のコートに淡いブルーとピンク色の薄手のマフラーを緩く首に巻き付け黒髪を小さく束ねた女性が白いマスクをずらせながら、以前から知っていたかのように真っすぐこちらに小走りに近づいて、私の目と目が合ってすぐに彼女だと分かった。

「よう、来てくれはったねえ」「いえ、いえ」と小さく首を振る彼女の手を自然と握手するように私は両手を握っていた。
振り返ると白髪のおばあさんが「よかったねえ」というように、こちらを見てマスクの中でにこにこしてくれているのが分かった。
私はおばあさんに、これまたマスクの中の笑顔で軽く手を振り挨拶し、彼女に向かって「お昼にしましょうね」と言って歩き出した。


娘と彼女は「写真」を通して知り合った。

 娘が以前、2回目の学校「写真表現大学」に行っていた時 そこで彼女と知り合ったそうだ。 娘たちが「表大」と言っていたところを卒業してからも、各々個展をやる度にお互い協力しあって居て、その後もメールのやり取りで続いていたのだという。
 娘が体調を崩している間も時々どこかへ出かけることもあったし、出かけることがキャンセルになったこともあったようだ。が、兎に角長い間変わらない友情があったようで、娘の入院生活もずっとメールで励まし支えてくれていたお友達で、娘にとっても私にとっても大切なお友達だった。


私が彼女を知ったのは[note]の中だった。

 以前、娘が[note]をやっていて、それを知った私が「私もやりたい」と言ったので、私に[note]の入り方を教えてくれていた時「ひとりお友達も入っている」と聞いてはいたが、すっかり忘れてしまっていた。
 [note]をはじめて間もなく、娘の病名が「多発性骨髄腫」とわかり「余命 1年半」と宣告されて闘病生活がはじまる。しかし、私はずっと、[note]を書き続けた。せっかく娘に教えてもらったのだから! ずっと、ずっと続けられるまで続けていこうと思った。

 私はパソコンは「怖い!」という先入観から、ワードだけにしようと決めていた。しかし、娘が猫を飼っていて その餌と猫砂をAmazonで買っていたものだから、病気が進むといづれパソコンも使えなくなるだろうと思った娘は 私にAmazonで買い物ができるように[やり方]を教えてくれた。
その時「おかあさん、飲み込みが早いなあ」と娘が褒めてくれ、娘から褒められるのは始めてのことで気恥ずかしかったが、やはりうれしかった。
その時わたしの脳裏に「私は娘にこんな褒め方をしただろうか?」という 反省の念がよぎった。

 それからの闘病生活は今思い返せば、壮絶だった。けれど、二人は淡々とこなしていった。今までのヒリヒリする痛みがどこから来るのか又突然出る高熱は何が原因なのか「謎」のまま十年近く経っていたのが、おおきな病院で「総合内科」なるものを見つけ、そこが「症状で何科にかかればいいのかを教えてもらう科」だと知って、ここしかない!と診てもらって病名がついた。「白血病」は知っていたものの「多発性骨髄腫」なる病名は初耳だった。
 その病名と余命を聞いた時、ふたりの気持ちの中で何かストン!ッと落ちるようなものがあった。「腑に落ちる」ってこういうことなのか?
それは謎が解けた!というばかりか、あまりにも余命を簡単に言ってのけられたからだったのか…? ショックはなかった。返って、覚悟が決まった。

 この病気の治療は延命だけの治療であること、その上「自家移植(新薬の点滴で癌化した自分の血液をできるだけ正常値に近づけ、その血液を使って移植をし、癌の数値を少なくする方法)」しかなく、それも「再発は避けられない」とのことだった。

 私の夫つまり娘にとって父親も大腸癌と肝臓癌のため大学病院で手術した後、民間の緩和ケア病棟のある病院で「ここは天国や」と言って亡くなった。だから、私も娘もその病院ですぐにでもお世話になりたかったけれど、「一旦治療してから!」と告げられた。

 今の医療はある一定の闘病基準(履歴)をクリアーしてからでないと、 緩和ケア病院に受け入れられないのか… 
私たちは不甲斐ない思いもあったが、結局一年間 遠方の大学病院に週一回通い、数少ない新薬の最後の新薬の副作用で心臓をやられ、循環器内科のICUに4日間、個室での入院生活20日で退院できたものの、血液内科での薬は使い果たして3か月の休薬期間にはいった。

 休薬期間中は 心臓に副作用が出た新薬だけあって、血液の癌には効き目があったようで、痛みも出なく心身共に快適な生活が送れていた。
どうかこのままの生活が続きますように!と願ってはいたものの、やはり 現実は甘くなかった。 休薬期間3か月、それを待ち伏せするかのように 「痛み」は娘を襲い始めた。

 ようやく念願の緩和ケア病棟のある病院に入院出来たが コロナがあらゆる病気と病院をひっ迫しはじめ、病院も患者も家族も悩まされ振り回された

 夫の時はボランティア活動の人も多く 毎日足裏のマッサージがあり、 音楽会も催されドッグセラピーもあった。しかし、コロナ禍では全てが中止となった。 しかし、入院出来た時点で「死」を目の前にした「患者の気持ちを痛みを」緩和ケア病棟の人たちは全員で共有し緩和してくれ、唯一天国のような闘病生活に変わった。そこで、娘は最後の誕生日を迎えることができた。9月17日53歳の誕生日だった。

 誕生日には小さいけれど、バースデイケーキが準備され、数名の看護師さんはじめ、主治医はもとより娘に関わってくださった方々が全員で書いてくださった色紙が渡され「Happy birthday to you」を歌って祝ってくださった。娘は私の最後のプレゼントの娘が大好きだった絵本「ららん・ろろん!わたしのワンピース」のようなグリーンの地に手刺繍の小さなお花が全体に飛んでいるブラウスを着て!

 娘の闘病生活を私は[note]にありのままに書いた。
ペンネームが私の心の内を素直に書かせてくれた。
私は書くことで救われた。
そして しばらくして、
私の書いた記事に毎回♡を「好き」してくれる人がいることに気が付いた。
だれだろう? 
毎回、私の記事に赤い♡を贈ってくれる人ってどんな人なんだろう? 
私はその人の記事に飛んだ。

 記事は「かもめ食堂」なる映画のヒントになる北欧へ行ったことが書かれていた。娘も「かもめ食堂」の映画が好きで、私もテレビ映画になった時点で、娘と一緒に2回ほど見たことがあったのを思い出した。
「娘もこの映画が好きで、2回ほど娘と一緒に見たのを思い出します」  これが はじめてのメールだったと思う。
それからも、何度となくその人の記事を読んでいくうちに、
「なんと娘とよく似た感性の持ち主なのか?」と驚いた。
その感想を私はメールに率直に書いた。
そして記事を通して二人のメールの交換が始まった。


 娘が2020年11月7日午前9時30分息を引き取った。
意識がもうろうとしてスマホを持てない状態になっていたにもかかわらず、娘はエアースマホを打っていた。毎日程メールを交換していた友人がいることは知っていたけれど、その人が誰なのかを私は確認していなかった。  しかし、そんな娘の姿を見て、そんなにまでして打ちたかったのは誰なのだろう? やはり、毎日のようにメールをくれていたあの友人への返信なのではないか?と、思いながら 確信のないまま、私には謎のままだった。
   
 誰に打ちたかったのか、誰にどんなことを書きたかったのか…? 
 エアースマホの謎を残したまま、娘の「死」の直後から来たあわただしい時間は津波のように私たちを飲み込み、その謎は津波がひいていくように私の記憶から消し去ってしまっていた。

               エアー・スマホ(2)に続く





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