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今、あのひとは…【1】

 アパート編

             (1) 

 ことし79歳になる私は 本当に色々なことに出会い,その都度夢中で、 なんとかこなしてきた。
 「若いということもあったんやなあ」
その当時は必死の形相でやったはずのことが 時間が経って振り返ってみると、あんな面白い経験は普通の主婦にはめったに出来ないだろう、と思うようになった。そこで、その体験談を書いてみようと思う。

           

 夫の父、私にとって義父は小さなアパートを持っていた。
木造2階建て、玄関を入るとすぐトイレと風呂があり、玄関の先にある小さな廊下の突き当りに3畳ほどの板の間のキッチンがある。ガラス戸を開けると洗濯物を干すスペースと坪庭。それを横手に見ながら6畳と押入れつきの3畳の和室が続いていた。1階に6軒、2階と合わせて12軒のアパートの手前に12台置ける駐車場があった。

 義父は長年、新聞広告を出して入居者を募り 自分で作成した契約書で入居者と契約し、家賃の集金も出かけて行っては世間話をして帰る。しんどいけれど楽しんでアパート経営をしていたようだった。
 アパートは京都にあり、自宅は郊外の電車とバスで1時間半ほどかかるが義父はその往復をこまめに通っていた。 
 私たち一家が関東から関西に転勤してきたとき 夫の両親は京都の家を売り、私たちの住む予定の家からそう遠くない場所に転居してきた。     そして、それから後 義父は必ず私を連れてアパートに行った。
 夫は一人息子でサラリーマン。そこで、嫁の私にアパートのことを教えたかったのだろう。そう言えば お寺にも義母ではなく私を連れて行くことが多かった。 だからなのか、最初アパートもお寺も私には手に負えない程のおおきくて脅威的な存在だったが、長年連れて行ってもらっているうちに 怖くなくなって色々教わることもあり、お陰で私にとってアパートもお寺も怖い存在ではないものになっていた。

 そうしたある日、義父が倒れた。
その一年程前 義母が脳梗塞で緊急入院していたので、その心労もあったのだろう「自律神経系の心筋梗塞」ということだった。義母も義父も元々京都出身なので、京都の通っていたそれぞれの病院に入院することになった。        当然一人息子の嫁である私はそれぞれの病院に顔を出し、洗濯物を受け取り届けることになる。先に義母の病院に行き、花瓶の水を変え欲しいものを聞いて「次にもってくるわな」と洗濯物を持って、詰所に「帰りますのでよろしくお願いします」と言いおいて、義父の病院に向かう。義父の状態が不安定なので、帰るときは義父をなだめるように言葉をかけて「また明日来るからね」と家に向かって辿り着くと それを待ちかねたように病院から「付き添いさんが帰られると、心電図が乱れるんです。来てもらえますかあ?」と電話が入る。何度かそんなことがあって、私は覚悟を決めた。
 義父の病院に寝泊まりすることにした私は 小学生と中学生の二人のこどもに1万円札を渡して
「これで、自分たちの食事をして!」と言い残して、京都の義父の入院している病院に着の身着のまま寝泊まりし そこから義母の病院に毎日タクシーで顔を出していた。
 看護師さんというのは本当に親切な方々で 事情を知った義母の病院では洗濯物を病院で洗ってくださった。

 義父は入院当日から絶食でシャンデリアのように何種類ものぶらさげられた点滴で7日間苦しんだ。喉が渇くのか、お腹がすくのか、義父は私に「店の間の机2段目に飴があるから持ってきて!」という。私が医師に相談すると「飴は喉詰めるからあかんなあ、そおや、氷あげたら溶けるから!」と、いうことで、氷を「おじいちゃん飴 口にいれるえ~」と口にいれると、コロコロと口の中でころがし「この飴 甘ないなあ」といった。
それ以来、飴を欲しがらなくなった。
 私は「死ぬのなら心臓で!」と思っていたが、悶絶し苦しむ義父を見て「心臓」では そう簡単に死ねないことを目の当たりにして、その願望を 却下した。
義父は入院8日目でなくなり、義母は義父の8か月後に亡くなった。
 その間アパートのこと等まったく忘れ去っていた。
葬儀も終わり、そこそこ落ち着いた頃アパートの1階の入居者さんから連絡がはいった。
「2階の人がにぎやかで 困る。大家さん、知ったはりますかあ?」 
そこで、ようやくアパートに足を向けることになった。

             (2)

 アパートには「同郷のよしみ」で義父を何かしら助けてくれている人がいた。その人は左官業で50歳も半ばだったろうか 年老いた義父がとても頼よりにしていた人だった。
 久しぶりにアパートを訪れた私に
「奥さん、大変でしたなあ。えらい、痩せはって! ああ、連絡 私も聞きました。2階の201号室の人が お義父さんが来てはらへん間に、どうも人が入れ替わってるらしいですわ。それも、難儀な人で!」と、声を落として 左の手のひらをナイフのようにして 右の頬を斜めに切って見せた。

 それからというもの、あれよ、あれよという間に他の入居者は出て行ってしまい。 201号室はその隣の部屋もいつの間にか占拠され、フィリピンの女性が数人入居し、ハーレムのようなアパートになっていた。

 私たち夫婦はどうにかしてその主人公と話しをしたかった。
だから、朝がけ夜がけでアパートを訪れ 面会しようとした。 
 ある時は夜の8時頃、私がアパートに到着した時、彼は出かけるところだった。
「わし、これから仕事があるんで…」と車に乗り込もうとする。
「これから? どこへ?」
「遠いとこ!」
「今から?」
「ふん、今から… 夜通し運転するんで しんどいわ!」
「いや~、ご苦労さん! ほな、今度いつ会うてくれはります?」
「一週間後やなあ」
「一週間後ですね!ほんまですか?」
「ほんまや!」
「そんなら、一週間後に!」
「ああ」
「夜なんで、気付けて…」
エンジンガスの匂いを残しながら、小さくなっていく赤いテールランプを見つめ、又 出直しや~!と思った。そう言うことがその後も何回もあった。
「そんな呑気な会話でことが進むと思ってんのか?」と、聞かれたら、  はっきり「いいえ、思ってえしません!」って言えるけど、なんでやろ?と自問自答しながら「そんな会話になってしまうんです」と答えるしかなかった。

またある時、今度は夫と朝がけで、朝7時にアパートに着いて201号室を訪れると、若い男性が出て来て
「今、兄さんまだ寝てはります」という。
夫が「大家が来たと伝えて下さい」というと、鶏の首のように顎を一度前に突き出して玄関に消えた。しばらくして
「兄いが『どうぞ』言うてますんで」と、玄関の入り口を手招きした。
私たちはあえておおきな声で「おはようございます」と言って入って行くと、奥から「はいってんか!」と 太い声がかかった。

夫はよその家に入るように「失礼します」と声をかけ襖を開ける。
と、そこには半裸の男女が布団の上で横になっていた。
女性はフィリピンの女性だった。
部屋は雨戸を閉め真っ暗、そんな中 天井からぶら下がっている白熱灯の オレンジ色の電球が 裸で布団に横たわる二人を浮き上がらせ、まるで映画の一シーンのような画面に出くわしたような気分だった。 
「朝 早ようから、ごめんね」と私が言うと、いきなり
「夕べ、この女を袋叩きにしてやったんや!」と 男が言う。
そのわりにしては長い黒髪を手の指でもてあそんでいる女性
私は(はは~ん、これは脅しやなあ)と思った。が、思わず出てきた言葉が
「いや~、そんなんしたら あかんやん。女の子は大事にせんとォ…」と 言っていた。そこで、夫が「私ら何回約束したらほんとうに出て行ってくれるんですか?」という。くそ!が付くほど真面目な言い方だった。 
「0月0日」ぶっきらぼうな返事が即座に返ってきた。
「今度は本当ですね。男の約束ですよ!」 いや~、案外 夫も言うやん!
「今度はほんまや!」太い声がうなるように言った。そして、
「何にもしてへんもんに向かって出ろ出ろ言うんは、いじめと違うんか!」
ドスの効いた声だったが、私は落ち着いていた。 
「私らこのアパートが古いから立ち退いてほしいと言ってるだけやの、出てくれんと壊されへんやん、わかってくれるやろ」と諭すように言うと、意外にも大人しくうなずいてくれた。 
「そんなら、男同士の約束ですよ!」と、再度夫が念を押した。 そして、おもむろに「お邪魔しました」と言って私たちは立ち上がった。その時夫の頭に室内の電気の引っ張り紐の先に括り付けてあった小さいこけしがコツンと、当たった。痛かったろうに…しかし、夫は痛い素振りも見せず、その紐をひっぱりながら「電気、消しときましょか?」と聞いていた。

  私と夫はアパートを取り壊すことにした。2年更新の契約も守られず、 ど素人の私たちを見透かしたかのように、何回も口約束は破られた。
私たちは警察に相談した。しかし、警察は「ことを起こしてないことには 介入できない」とのこと、「これは裁判所に行った方がええわ!」と教えてくれた。

              (3)

 私は藁をも掴む思いで、翌日 一人で京都の裁判所に飛び込んだ。
受付で事情をはなすと、受付の人が「それなら、民事ですね」と言い、受付の窓から首を出して「あの廊下の突き当り二つ目の部屋の前で待っててください」といわれた。今から考えるとよくまあアポもなしで行けたこと! 
 京都の古い裁判所の建物は 威厳をもって私を受け入れてくれた。
梅雨の時期によくある朝の曇り空からの鈍い光は この建物の窓から見える明かりが余計私には暗く感じた。私は何にも考えられずただベンチのような硬い椅子にすわっていた。しかし、以外にもすぐに名前は呼ばれた。
ドアをノックし、重い取っ手を回して入って行くと部屋の真ん中に大きな机があり書類が机一杯に幾段にも摘まれて広がっていた。
「どう、されました?」
その声は濃い口ひげの奥から 響いてくるような声だった。

 ピンク色のカッターシャツに緑や白そして黄色のサイケデリックな柄の 太いネクタイと口の周りの濃いヒゲそして室内なのにサングラスが!
目に飛び込んできた映画の中の人物のようなその人
机の真ん中に座っている人が弁護士さん!?  ああ、民事やから…?
でも、色気あるなあ、なんかゾクゾクするわ~!と、思って見とれていると
「どう、されましか?」と再度たずねられて、我に返った。
私は アパートで起こった一部始終を話した。 
それまで黙って聞いていたその人が言った。
「裁判、起こしますか?」聞かれて、即座に私は「はい!」と答えていた。

ほどなく裁判が開かれ、弁護士さんからの連絡で「奥さん、出廷されますか?」と聞かれ、恐ろしくて「いえいえ、弁護士さんに全てお任せしますので、お願いします」と言っていた。裁判は「勝訴」になり、いよいよ「強制執行」が行われる。
数人の裁判所の人が来て、何かを読み上げ家の中に入り「差し押さえ」の紙があらゆる場所や家財道具に張られ、家主以外だれもアパートに入れなくなった。もう、彼らは影も姿も現すことがなかった。

 それからというもの、空っぽになったアパートの整理にかかることになるのだが、この作業が又とんでもなく大変だった。 
その時手伝ってくれた人が義父の「同郷のよしみの人」だった。
 電源が落とされたアパートの一室に残された冷蔵庫が5台。よくもまあ、これだけの冷蔵庫を運んできたものだ! なんのために?彼らの行動に誰もが理解できなかった。でも、整理するのは私たちだ。夫は会社勤めがある。
仕方なく取り掛かる。鍵を開けてドアを開けるとまずゴミの腐った匂いが私たちを襲った。猛烈な匂い!冷蔵庫のドアを開ける度、匂いは強烈になる。しかし、ふたりは黙々と腐った食品をゴミ袋に詰めていった。

気がつくと時計の針は4時を過ぎている。
「奥さん、帰れますかあ?」聞かれて自分もその人も全くゴミの匂いを強烈にまとっていることに気づいた。
「こんなんで電車なんか乗れませんで、私が車で送っていってあげますわ」うひゃ~、そうなんや! 匂いって、くっつくんや!
髪の毛まで全身ゴミみたいになっていた。
そりゃあ 電車なんて乗れない!
「ごめんな、そうしてもらえる?そしたら、今日全部やってしまえるから」ということで、又腐ったゴミを袋に詰め込んでいった。

何袋になったのか?記憶がさだかでない。しかし、その人は
「奥さん、このゴミ私が捨てておきますんで…」とまで、言ってくださったんでお言葉に甘えてお願いして、家まで送ってもらった。
「ありがとう!」と言って車を降りる時「ほんまは、家にあがってシャワーでも…」と、言いたかったが、相手は男性なんで黙って帰ってもらった。

             (4)

 その後裁判所から「報告書」が手渡される案内がきた。
もう一度、京都の裁判所に出向く。初回のあの時の悲愴感がよみがえる。 威厳ある裁判所は変わりなくそこに存在していた。駆け込んだ受付の窓口には一人相談者が陣取っていたので、私は待ち合わせの時間に以前何も考えられなくなっていた私が座ったベンチのような椅子に腰を下ろした。あれからどの位経っていたのか、かいもく見当もつかず只「時の流れに身を任す」という生活を送っていたような毎日だった。

 待っている間に フッと民事の弁護士さんのことを思い出した。
ああ、そうそう、今日のヒゲの弁護士さんはどんな色のシャツなんだろう?ネクタイは? まだ部屋の中でもサングラスなのかなあ? 初めて出会った時の印象が 妙に色っぽい感情を搔き立てられたのを思い出すと、なんだか体がゾクッとして、胸が高鳴るのを覚えた。その時 古い木のドアの向こうから名前が呼ばれた。
以前のように重いドアノブを回して入っていくと、相変わらずおおきな机に幾段にも積み上げられた書類の中にあの弁護士さんが…? いや、違う?
弁護士さんが変わった? 声は同じ…? え、いや? 
そうこう思っていると「解決して、よかったですねえ」とおっしゃるその声は、あの弁護士さん!
あのヒゲは?ピンクのシャツ、サングラスは? キョトンとしている私に書類を渡しながら「その後は 順調にいってますか?」とたずねられた。私は上の空で返事をしたに違いない、だって、キツネにつままれたような気持ちでお礼を言うのがやっとだったから…。

帰りの電車の中で私は考えた。
最初会った時はマフィアとでも会った後だったのか?  
あのサングラスとあのヒゲ!
変装?
今日は普通の白いカッターシャツに地味なネクタイ、背広も地味!
しゃ~けど、あのピンクのシャツにあのネクタイ似合ってたなあ~
いやいや あのヒゲは、ツケヒゲ? 
ヒゲフェチの私にとっては ゾクゾクするような出で立ち!
まいったなあ、これは…

いちど、友達の友達に紹介してもらった弁護士さんに聞いてみようと!
「民事の弁護士さんは 変装される時 あるんですか?」と、ね。

           


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