今、私は…
☆ひなたぼっこ
せなかに ひがあたると
せなかが あつくなってくる
ガラスごしの ひなたぼっこ
ねこが ねむそうに めをほそめた
☆このいえは とりで
このいえに いれば こわくない
こわいひとかどうか
わたしが わかれば
こわいひとは はいれない
ぜったいに
はいれない
☆隣家の正装
カンカンカンと 金属棒の音がして
隣の家は 美しくなった
カンカンカンと金属棒の音がして
うすい幕が取り払われ
マジックショーのように
隣の家は 美しくなった
☆今、わたしは… (1)
今、わたしは しあわせな気分でいる
深い悲しみが あんまり深いと
ゴムを思いっきり引っ張って 手を離した時のように
びよ~ん! と しあわせな気持ちに
スッ飛ぶのかなあ
☆今、わたしは… (2)
今、わたしは
師走の白い息を吐き
褪せた緑のフェンスに
引っ掛かっている
一枚の枯れ葉を見つける
枯れ葉よ
君は 皆と一緒に地面にちり落ちた
落ち葉になりたかったかい?
それとも
このまま 一枚だけフェンスに引掛かっていることを
誇りに思っているのかい?
私は白い息を吐きながら
一枚の枯れ葉にこころを寄せながら 歩いていった
☆「やわらかなこころ」吉野秀雄・「八木重吉詩集」を読んで
ハッピー書房さんの記事から この本に至る。
この両者の心根がとても素直なことに感動する。
両者は共に大病を抱えていながら、いとも清い心の生き方を詩に表している。
大病であるが故の清きこころ。人は何も悩むことがなければ傲慢になる。
悩みある者のみ 到達できる境地なのかもしれない。
八木重吉の詩を読んで、イエス・キリストとは
キーツとバイブルを 気どらず手にもって
ひとみには 功名もなく 覇気もなく
ただ そのかなしさが 花となって
かがやいているひと
と表現されている。
私は 教会のキリストの像を想い浮かべた。
なんと、適格でうつくしい表現なんだろう!と 恐れ入った。
信仰心を持つと 人は目に見えぬものも 見えるのだろうか
「よぶがゆえに」
よぶがゆえに
みえきたるものあり
よぶことなければ きえゆくものなり
はじめに書いた詩は八木重吉詩集の影響でできた詩である。
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