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やさしさに 支えられて!


 この度のことで、有難いことに「note」を ずっと読んでくれていた友が「note」に書いた「メールで自然体に会話ができる人」を 読んでくれて  メールをくれた。


(前略)
あなたはよいご近所さんや良いお友だちに恵まれて、幸せにお過ごしになっておられる様子をnoteから 感じます。
それは背後にあった悲しみや苦しみに、あなたが ひとつづつ正面から向き合って抱きしめ受け止めてこられた結果なんでしょうね。
そのような力を貴方が持っている。そのこそが「お恵み」なんでしょうね。
【しかし、どの辺りまで「幸い」と感じられるか?が 問題になってくるのではないか?ですよね】
 これからますます老いが深まり肉体的な問題を多く抱えた時に、いえ、ただ肉体的だけでなく、人生の苦悩とも言うべき状態が目の前に突き付けられた時、どんな自分が出て来るのでしょうか?
おまえはオタオタするのか? それとも にっこり笑ってありがとうと言えるのか? 皮肉な眼差しで自分を見ている自分があります。

 私は すぐに返事を打った。




「お返事ありがとうございます。
まさにこれからが本番、頭がおかしくなっても感謝の気持ちだけは伝えたい又 伝えられるようにしたい と 思っています。
何処かの国の神父様が
「年老いて口が効けなくなっても有難いことに、手を合わすことは出来る。これは神の慈愛です」と、言われたとか?
本当に そうなんですねえ。
神が愛(慈愛)ならば それを人に伝える最後の手段として、手を合わせることで感謝の気持ちを伝えられるならば、こんないい方法はないと思いますほんの少しの動作でも充分伝わる作法と思って、自分に何かしてもらったら無意識に出来るように!と、今からお礼を言いながら手も合わすようにしています。が、本当に出来るかどうかは わかりません。
それこそ「神のみぞ知る」ですね。

 私とその友は 学生時代から 真面目にこういうことを 考えていたように思う。
同級生の中には カトリック信者も創価学会の会員も、私のような嫁ぎ先の家の仏教の宗派を継いでいる者もいる。が、「人間て何?、何のために存在しているのか?」ということ等を 真面目に考える若い頃があって
「自分なりに一生懸命答えを探して歩き続けてきたような気がしますが、 80才を超して いまだに明確な答えに出会えぬまま今回の人生の瀬戸際に立っているようです」と書いている友と同じように、私も そんな時
いろんな人たちの 話を聞いて反発もし、同感もしながら 私の中で気づいたことがあったのです。

 友も同じように「時と言うものは いたずらに流れていくだけではなくて、その人に必要なものを 求めに応じてそっと与えてくれる…気づけば、そんなふうに感じている自分があります」と、書かれていました。

それは 宇宙をお創りになった方、これを「神」と呼ぶのか又「創造主」と呼ぶのかは 自由なのですが、借りに「神」と呼ぶなら、その「神」が自分の「考え方=思想=宗教哲学」を伝授したく数人の人間が 選ばれた。
それがキリストでありアラーであり仏陀等々であったのではないか?
その人達は 国や風土や人種に合わせて「いかに伝えるべきか…?」を考えた挙句、いろんな伝え方が生まれ解釈がうまれ、それによって微妙に違ったいろんな宗教が 生まれた…? と、私は 想像したのです。
だから、いろんな宗教が生まれ「われこそは 真の宗教!」と言いながら 人間の都合の良い宗教がはびこり、宗教戦争まで起こしている。しかし、 私の知っている範囲では どの宗教も、表現こそ違えど、根源は一つでありその根源こそ「慈愛」なのではないか?と…!

 私の到達した考え方は むつかしい宗教哲学でもなく、いろんな人(特に団体に入信している人)の話を よくよく聴いてみた結果で、正しいかどうかはわからない、けれど、これは 私なりに体得した考えであって、最終結果ではない。ことを 明言しておきます。

 翌日、私は大変なことを忘れていたのに気付いた。そして、慌ててメールを打った。

「おはようございます。今日も暑くなりそうですね。
貴方の問いかけにnoteに私なりの 答えをかきましたが、とても大切なことを書き忘れていることに気づきました。
それは貴方が私を対等な友として意見を述べ合うことを許してくれている ことに、感謝を伝えることです。
一期一会の学生時代から こんなに長くお付き合い出来たことをうれしく 誇りに思います。ありがとう、心から感謝しています。
今日午後、月一の内科日です。暑いけど行ってきます。

すると、すぐに

 高温多湿のダブルパンチで ヘロヘロです。
お気をつけて いってらっしゃい

と、返信がきた。

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