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白いチャペルの鐘の音

私の姉、麻子は熱心なクリスチャンだった。なぜ、過去形なのか?    それは、昨年夏、彼女はもうイエス様に召されたから。

8月4日私は 弔電を打った。

一番行きたかったイエス様のもとへ 祝福を受けながら召されたのですね。麻子姉様の笑顔と共に イエス様の元、永遠の幸福でありますようお祈りしております。

麻子には娘がいた。幸子と言う。その名の通り幸せでありますように!との願いもむなしく、結婚したものの子供に恵まれず離婚して45才にして 癌闘病の末亡くなった。

幸子は二回の手術も甲斐なく、三回目はホスピスの入院だった。幸子はホスピス入院ぎりぎりまで仕事についていた。仕事の引継ぎもほぼ完ぺきといっていいほどだった。と「後輩が感謝していた」と麻子が控えめながら言っていたのを記憶する。

ホスピスは本人が信者でないと入れない。 麻子は「母親の私が 信者ですから、、」と懇願し、ようやく許可された。

入院に際して「300万、ありますか?」と聞かれたそうだ。      「あります」きっぱり答えた麻子はやはり幸子の母だった。

入院してから、牧師様と毎日のように通ったホスピス。そのホスピスは白い教会の近くにあった。三人で聖書を読み、教えを聴き幸子も洗礼を受けた。

病院通いの麻子が 晴れた日、雲の上にイエス様を見て、幸子の迎えが近いことを知ったと言う。不思議なこともあるのかなあと私は思った。

そして、幸子が神に召されようとした夜、幸子は病床から母に言った。  「おかあさん、抱いて!」と。

麻子は娘のベッドにあがり、娘の体を支えた。 目で見るより幸子は骨ぼねしく軽かった。幸子の小さくなった頭を 麻子は自分の肩にのせ、両手で 幸子の脇を抱え込む。幸子はなされるまま母に体を委ねた。      

その時はじめて我が子を抱いた記憶がない自分に麻子は驚いた。     母親ってそんなものなのかもしれない。と、思いつつ、幸子が最後に「おかあさん、抱いて」と言った言葉に 意味をみつけたような気がした。   そういえば、麻子は幸子の幼い時、母として「愛をもって抱きしめてあげる」ことができなかったことを想いだした。だって、麻子だって麻子の母に抱きしめてもらったことがなかったから、、。「ごめんね」言葉にならない言葉が讃美歌に変わった。

「慈しみ深き 我が主なるイエスよ~」麻子の好きな讃美歌だ。     口ずさみながら、子守歌のように ゆっくり幸子の体の上で拍子をとり  ゆりかごのようにして  同じ讃美歌を 何度も何度もくりかえす。

麻子は幸子の耳元で讃美歌を歌い続けた。               ささやくように そして 諭すように また 許しを乞うように

どれくらい経ったのか、記憶にない。「もうこのくらいにしましょう」  と言う声で 麻子は我にかえった。その時、幸子の頭が大きく揺れた。

偶然なのかもしれない。それとも、夢の中だったのかもしれない。    無我夢中だった麻子に 鐘の音が響いた。               あのホスピスのすぐ近くの白いチャペルの鐘が鳴ったのだ。

麻子は心しずかに 牧師様に幸子を委ねた。              牧師様は麻子の疲れを知らない信心の輝きをみてとった。

「いい見送りでしたよ」                       言葉にならないまなざしで、牧師様は麻子を見つめた。         

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