「幸福」という陳腐で胡散臭い題目をメタ認知能力と社会的能力の観点から説明する

こんばんは。
昨日考えていた適当な題目を残してみます。
※ゴミの掃き溜めかつ殴り書きかつ主観すぎるのでご容赦願う。

1.メタ認知能力の高い人、低い人

 メタ認知能力が高い人とは、「物事を客観的に見ることができて、現代社会を理解する上で必要な前提知識(歴史、法律、政治、経済など)を所持している人」と仮定する。
低い人は「知識がないため考える材料もなく、抽象度を上げて思考できない人」。(俺w)

2.社会的能力が高い人、低い人

 社会的能力が高い人とは、「お金持ち」と仮定する。(お金持ちになるためのスキルや才能、遺伝子を持っている)
低い人は「貧乏」。

3.「幸福」との関係性

 さて、ここで本題に移ってみる。全人類が追い求め続けては遠ざかり、どうせこの世界には存在しない幻の「幸福」について2つの観点から紐解いてみる。現代社会はゴミのようなルサンチマンや他人の蹴落とし、優越劣等コンプレックス、欺瞞、自己啓発、格差、分断、カルトなど多量すぎる情報によって何が何だか分からなくなっている。もはや俺の頭脳では何も追いつかないw
この腐りきった生きづらい、つらい、諦めたいとされている現代社会において「幸福になる」という最終目的を達成するにはどの手段が一番いいかを考えてみる。
朗報だ。貧乏(マジョリティ)でも幸せになれる方法があるのだよ。
下記のグラフを参照する。

:俺

①メタ認知能力「低」× 社会的能力「低」=不幸

 この層が一番多いのではなかろうか。実際に俺もここにいる。当然両方低い場合はどうしたって幸せになることはできない。メタ認知能力が低いことに加え、社会で活躍するための能力もない人は排除され続けるのが現代のメリトクラシー。そして居場所がなくなり、最終的に伽藍と化した会社にしがみつくか、独立起業するしかなくなる。当然人それぞれの定義があり、その人なりに成功すればよいがまあ極一部だろう。

②メタ認知能力「高」× 社会的能力「低」=幸福

 このケースは割と珍しい。しかし、このケースは幸福になりやすいのではないかと考えた。メタ認知能力が高く、社会的能力が低い場合は、現代社会を生き抜く裏道や必ず存在する穴場を見つけ出し、上手に生活できそうだ。実際、やろうと思えば、フリーターでも生活はできる。加え、競争社会やルサンチマン地獄からもいち早くドロップアウトできる人材なのだろう。金のかからない趣味や娯楽も堪能できるので、結婚や一般的な他人の評価を度外視すると仮定するならば案外幸福になれるのでは?と思った次第。

③メタ認知能力「低」× 社会的能力「高」=幸福

 このケースがもはや一番幸福だと最近思うようになった。例えば田舎で一生を暮らし、SNSで輝かしい人の生活も見ない。世界で起きてることも勉強しない。ただ、現代を生きるのに必要なコミュニケーション能力や技術がありお金持ちな人は例外なく幸福になれるだろう。井の中の蛙は本来悪いイメージがある言葉だが、今回のケースに限り、井の中の蛙状態の方が幸せになれるのではなかろうか。

④メタ認知能力「高」× 社会的能力「高」=不幸

 幸福に一番近いと予想されるこのケース。一番ゴミである。まみれている競争社会、プライド、ルサンチマン、周囲からのプレッシャー、洗脳されやすい、あまりにも不幸である。俺とは真逆の人間たちだから正直なってみないとわからないが、恐らく不幸に一番近いと思っている。一番なりたくないゾーンである。オウムの幹部は東大や早稲田出身が多く、プライドによってカルトに洗脳されていたとの話もある。高すぎるプライドは自身を破滅させる道しか残っていない。


4.では我々はどうすればよいのか

 では、最後に我々はどのようにして幸福という最終目的を達成すればよいか考えてみる。

結論、青丸に向けて生活することがよさそう。
学問の祖とされている古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「中庸(過剰でも不足でもない中間)が人間の徳」と定義している。中庸の例として、「勇敢」は「無謀」と「臆病」の中庸であるといったところだ。バランスことが正義だよーがアリストテレスの主張である。
つまり、自分が現状どのあたりにいることを把握することは必須だが、メタ認知能力が高いと思っているなら、社会的能力を上げすぎない方が幸福になれるし、メタ認知能力が低いと思っているなら、社会的能力を上げるようにできるところまで頑張ってみることが幸福になれるのではないか?と仮説を立ててみる。

ガバガバ理論。

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