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小説 冬の訪問者          スミレの恋人 第3話

一郎は、何事もなかったかのように、山形香奈子のデスクの横のドアを開けた。

そこが彼の仕事部屋であり、クライアントとの話し合いをする場所だ。

ドア近くのコートハンガーにコートをかけると、一郎は接客用のテーブルに置かれた物が目に入った。

青いスミレだった。クリスタルのガラスのコップに飾られてある。

「これは‥‥‥」一郎の顔色が変わった。

「山形さん、この花どうしたんだ?」一郎は慌てたように、ドアごしに声をかけた。

香奈子は見ていた書類を置くと、一郎に振り返った。

「スミレですか?きのう、買い物に行って、スーパーの一角にあるお花屋さんで買ったんですよ。かわいいでしょう」

それがどうかしたかという顔を香奈子はした。

「君が買ってきたのか‥‥‥」一郎は取りつくろうように、着ている上着のしわをを直すと、ばつの悪い顔でドアを閉めた。

きょうの寺沢先生、なんだか変だと香奈子は思った。

一郎はデスクの椅子に座ると、パソコンを開いた。

頭の中で、とりとめないことが湧きあがる。スミレは昔の思い出だ。もう、長いこと忘れていた過去だ。

あの娘は、さよならも言わず去って行った。彼女にはフィアンセがいたのだ。ユリは俺の気持ちに気づいていたはずだ。

フィアンセのことを隠していた。結局、俺はいいように遊ばれたのか。

あの頃は、俺もまだ青くさくて、純情だった。だから、気が付かなかったのだ。あのユリの本性を‥‥‥

あれからいろんな女と付き合ったけれど、あれほどまでに、うまく嘘をつきとおした女はいなかった。

ユリこそ究極の魔性の女だ。かわいい顔をして、けろりと嘘をつく。

一郎は手を止めた。

スミレを見ただけで、今日はなぜ、こんなにも動揺するのだろう。もう忘れた過去だ。今の自分にはなんの意味もないのだ。

彼はふと窓を見た。雪が降ってきている。そういえば、天気予報では大雪になると言っていた。

次話へ続く


作品掲載    「小説家になろう」
         華やかなる追跡者
         風の誘惑          他

        「エブリスタ」
         相続人
         ガラスの靴をさがして ビルの片隅で

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