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小説 冬の訪問者           スミレの恋人 第2話

仕事から戻って来た一郎は、弁護士事務所のドアを開けた。入口の正面には山形香奈子が座っている。その香奈子を見て、一瞬どっきとした。

香奈子のマスクが、派手なピンクの花柄模様だったからだ。

「先生、お帰りなさい」香奈子は素知らぬふりをして、立ち上がった。

「ああ、何事もなかったか?」一郎は黒いコートを脱ぎながら言った。

「それが、この間、電話でお断りした宮浦さんって方が、わざわざ事務所に来て、ぜひ先生にお願いしたいって言うんですよ」

「宮浦? 誰だ」一郎の記憶にはない。

「先生には一応お話したとは思いますが、当然断る話なので覚えていないと思います」

「電話で断ったということは、たいしたことではないんだろう」

香奈子は、ずれたマスクを直しながら言った。

「宮浦さんは、年配のご婦人なんですが、なんでも娘さんが会社の上司からセクハラを受けて、それを断ったら、いちゃもんをつけて、無理に辞めさせられたそうです。このご時世に放り出されても困るから、ななんとかしてほしいって言うんですよ」

「そんなのは、どっかのマチ弁のやる仕事だ。俺のやる仕事じゃない」

「もちろんそうです。でも‥‥‥ なんでも娘さんって、子供の頃、吃音障害があって、大人になっても、コミュニケーションがとりずらくって、孤立していたところに、付け入ろうとしたらしいんです」

よくあるような話だと一郎は思った。今のように世の中が不況にあえぐようになると、真っ先に弱い人間から淘汰されていく。

「だけど断ったのに、なんで俺の事務所まで来たんだ」普通では、そんなことはないはずだ。

「それが面白いことを言うんですよ。先生を推薦した人がいるんですって」

「推薦?誰が?」

「なんでも、寺沢先生はとってもいい人で、絶対に力になってくれるって言われたって言うんです」

「誰が、そんなことを」

一郎は社会派の弁護士じゃない。利益をもたらさない人間の仕事はしない。

「本当に変ですよね。とってもいい人なんて‥‥‥」

「なにっ」

「いえ、別に、先生は、もっと大きい仕事に力を注ぐべきですものね」香奈子はうまくかわした。

儲からないことはしないってことだものねと彼女は、胸の中ではつぶやいた。

「でも、私、話を聞いててかわいそうになってしまいました」

一郎は返事をしなかった。

「しかもその会社って、市会議員の市川さんの経営する会社なんですって」

「あの市川か」一郎もよく知っていた。

大きい建設会社を経営し、最近は介護分野にも進出している。市会議員だが、中央の政界にもパイプを持っている人物だ。福祉に力を注ぐなどと言ってはいるが、実のところ、金儲けしか興味がなく、福祉の知識もつゆほど持っていない。

一郎の一番嫌いな偽善家というやつだ。

「とにかく、断ったんだから、もう、いいよ」

「わかりました」

香奈子は、帰っていくときの宮浦の寂しそうな姿を思い出した。すでに夫は他界し、微々たる年金とささやかなパート収入しかないそうだ。体はふっくらとはしているが、後ろ姿は弱々しく小さく見えた。


次話へ続く


作品掲載  「小説家になろう」
       華やかなる追者
       風の誘惑         他

      「エブリスタ」
       相続人
       ガラスの靴をさがして  ビルの片隅で


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