生命の喜びとカネのかかる俗世・その4
その1はこちらから
さて「生きるために働く」をやりだすと直面する問題は「自分の機嫌が悪くなる」だということが、働かなくても生きられる短い期間を経て、よく分かるようになっていた。
体一つ系の原始的な喜びだけで生きていくなら、わりと無理をしなくてもいける。ただ、この資本主義の俗世で、カネかかる系の喜びもある程度味わいたいと思うと、どうしても自分に無理を強いる場面が出てきてしまうのだ。
本来なら、喜びだけで生きたい。
湧き上がる喜びからの行動が、誰かに喜びを与えて、それがお金になる。本来そういう順番であるものが、正しくピュアにその順番で行われる、その結果がっつりと経済も回っている。であれば理想的なんだけど、
有機的な存在である私が、本来の有機的なスピードでその喜びのままに動いて追いついていけるほど、東京の、都市部の暮らしはスローではない。今のところ。
どうしても「ここでやりたいことをやって暮らしていく」を優先すると自分に無理がかかる、つまり自分主体ではなく暮らすことが主体、生きるために稼ぐことが主体、そのために奴隷になる、部分が出てきてしまうのだ。
大小様々な無理ですぐ不機嫌になる自分と向き合いながら、自分の欲望のサイズも隅々まで点検し終わったし、じゃあこのサイズの人生をご機嫌なまま生きていくにはどうしたらいいだろうね?が、今の課題だ。
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