【翻訳】アメリカ、ユア・フード・イズ・ソー・ゲイ

こんにちは。今回はちょっといままでとジャンルが違いますが、料理に関する記事を翻訳してご紹介します。

今回お送りするのは John Birdsall, "America, Your Food Is So Gay," in Lucky Peach, vol. 8, "Gender," 2013, p. 20-24 の翻訳です。原文も公開されていて、著者の方のホームページなどで読むことができます(記事末尾に、本文に登場するパットの写真があります): https://www.john-birdsall.com/stories/america-your-food-is-so-gay-queer

著者のジョン・バーゾルさんはサンフランシスコ出身で、料理人として研鑽を積むかたわらフード・ライティングも手掛け、本文中でも言及のある雑誌『センチネル』や、本記事が発表された『ラッキー・ピーチ』など多くの媒体に記事を書いていました。その後バーゾルさんはキッチンを離れライティング専業となり、本記事にも出てくるジェームズ・ビアードの評伝『食べ過ぎた男 The Man Who Ate Too Much』(2020)などを手がけています。ちなみに、先月のインスタグラム投稿によると現在は『クィア・フードとは何か』という書籍を準備中とのことで、一貫して食におけるクィアという問題を取り扱っています。

この記事はアメリカ料理のイメージ形成に対してゲイの料理人や評論家の果たした役割を個人的な回想とともに描いて評価され、発表翌年の2014年にジェームズ・ビアード財団賞を受賞しました。(ちなみに、掲載紙の休刊に際して著者の方が寄せた文章によると、この記事は前号の記事を書いた直後に一週間で書かれたとか)

訳出に当たって著者の方におうかがいしたところ、公開を快諾していただけました。ありがとうございます。また、文中の角括弧[]内は訳注です。



 1970年、ぼくは10歳のシャイな少年で、サンフランシスコの南、オークの低木がたちならぶ郊外にいた。ぼくたちの家は丘の中腹にあり、急斜面から伸びる支柱の上に建っていた。窓から見えるのは小さなアロヨ[南西部の乾燥地に見られる涸れ谷]と、一軒の家。その家には二人の男性が住んでいて、ぼくはその人たちのことを親戚のおじさんのように思っていて(遺伝子を共有するおじ以上に)大好きだった。

 だが、この二人、パットとルーのことが好きなのはぼくと、兄のウォルター、母さん、そして父さんだけだった。同じ通りに住んでいた他の人たちはみんな二人を軽蔑していた。当時、カリフォルニアではいまだに男が男にフェラすることは犯罪だった。近所の人たちがこの二人を嫌ったのは、彼らが堂々たるターコイズのシーツに包まれたベッドで一緒に寝ていたからだった。ルーが主婦のように家に残っていて、仕事から帰ってきたパットに用意するためのステーキや詰物をしたポテトなんかを求めてセーフウェイ[アメリカのスーパーマーケットチェーン]をうろうろしているからだった。

 (ぼくの両親はなぜパットとルーに対する一般的な嫌悪感(これは消極的・積極的に距離を置くことや、ときには金切り声を通じて表現された)を共有していなかったのだろうか? これはのちにわかったことだが、ぼくの母はまさに「おこげ」[ゲイ男性とつるむことを好む女性]だった。そして父はいじめを憎んでいた――父はゲイに対して微妙な思いを抱いていたが、いじめを憎む気持ちのほうが上回っていた)

 パットとルーは毎晩カクテルアワーを設けていた。峡谷に建つ彼らの家は天井の梁がむき出しな農園風になっていて、ベロアのバケットチェアに座ると、オークの根元にたくさん生えている緋色や紫色のアイリスを見晴らすことができた。二人はお揃いのポプリンのつなぎをきてコーデュロイのスリッパを履き、カートという名前の、毛並みの整ったミニチュア・シュナウザーに、カクテルリングをつけた指からナッツを飛ばしてやる。ぼくの両親がアイアンゲートレストランにスカンピやサルティンボッカを食べに行くときには、そのあいだぼくたちをパットとルーのところに預けていく習慣になっていた。

 そういう夜にルーが僕たちに作ってくれるものは頭がおかしく、母なら決して作らないようなものだった。とても大人が10歳児に食わせる物ではない贅沢さだった。カセロールはモントレージャックチーズをつなぎにして、オリーブと仔牛挽肉、缶詰のマッシュルームでできていた。ルーのハンバーガーも有名だった。彼のバーガーはほんとうに贅沢で塩気が効いていて、カラメル色の玉ねぎとロックフォールチーズを砕いたものがふんだんにまぶされ、電気式ブロイラーで焼きながらグレイ・プーポン[マスタードのブランド]で分厚い下塗りをつくるのだ。いつも半分食べるだけで胸焼けしてしまったが、それも含めてすべてを愛していた。

 今にして思えば、ルーのバーガーにはぼくの食の好みの基本的な要素が見て取れる。それは、栄養バランスや家計によるつまらぬ制限など歯牙にもかけないという態度だ。ルーのバーガーは大人の快楽を最大化するよう構築されていて、記号的な豊かさが具現化したものだった。まさにジェームズ・ビアードがアメリカ人に伝えた食べ方だ(ぼくの知る限り、ルーのレシピはビアードのものそのままだった)。いま振り返ってみると、ルーのバーガーは揺るぎなく、弁解の余地なく、圧倒的にクィアに思える。

 1970年というのは、アメリカにおける食への関心が、50年代的な、世界の認めるかびの生えた高級料理(オート・キュイジーヌ)からようやく脱したところだった。われわれアメリカ人は広く世界に関心を持つようになり、いままでになく食と旅行にコストをかける意欲が高まった。そしてアメリカにおける現代の料理の構造を決める建築家となっていくのは、三人のゲイ男性――ビアード、リチャード・オルニー、そしてクレイグ・クレイボーンだった。トーマス・ケラーやダニエル・パターソンの料理にはこの三人の影響が見て取れるし、アリス・ウォータースがシェ・パニースで40年にわたって差配したメニューにも影響している。彼らの影響とは、食における快楽に対して非常に真剣に取り組むという姿勢である。快楽の追求それ自体を目的とし、それを政治的・生得的な権利として主張し、文化の賜物とみなす――このような態度は、現代のアメリカ食文化を形成したフードライターたちの遺産なのだ。

 たしかに、現代アメリカ料理という無秩序な不定形のものを、「クィア的視点」といったこれまた曖昧な観点に帰するのは恣意的かもしれない。そのクィア性が男性のものに限られるのだからなおさらだ。ぼくがこの問題に取り組み始めたのは80年代後半、『センチネル Sentinel』という、いまはもう廃刊になったサンフランシスコのゲイ向け週刊誌で食べ物について書いていた頃だった。ぼくの編集者だった故エリック・ヘルマンはいつも、「ゲイに固有の感性というものはあるだろうか? 芸術作品にそれを認めることができるだろうか?」という問題に取り組んでいた。

 ぼくがルーのブルーチーズバーガーに心酔していたころ、ハリー・ヘイというゲイ活動家がサンフランシスコでラディカル・フェアリーズという運動を組織していた。彼らは荒野で数日間にわたって行われるフェアリー・サークルというイベントを催していた。これは男性だけで行う小規模なバーニングマンのようなものだが、サイロシビン[シビレタケの一種。幻覚作用がある]を摂取してサークル・ジャーク[男性が輪になって自慰をすること]をする。ヘイは最初期のゲイのための権利協会、マタシン協会の創設者だった。1970年になると、ヘイはゲイ男性はストレートの人々とは精神構造が異なっているという結論に至った。ホモセクシャルの人々は常に社会においてシャーマンや予言者となり、冷遇され、貶められ、さもなくばかろうじて存在だけは許されるという境遇で、周縁化されて生きてきた(ヘイは2002年に没したが、反同化主義者だった彼は現在の同性婚闘争をみたら衝撃を受けることだろう)。ゲイの人々は芸術家で、創作者で、いまゲイを憎んでいる文化一般を形作ったのだという。

 ぼく自身はヘイのこのゲイ優越主義を完全に信じているわけではないが、それでもさきほどの編集者による「ゲイ的感性は存在するか?」という疑問は、レストラン業界でやっていこうとしているぼくにとって、禅の公案のように響いた(その頃のぼくはフードライターとしてはパートタイムで、主な収入源はレストランでの厨房勤務だった)。サンフランシスコという、アメリカでももっともゲイ的な街においてすら、さまざまな職において主要な役職を占めるのはゲイフォビックな男たちだった。ある厨房では、サラダセクションは女と「女の腐ったの」(ぼくのようなゲイのこと)ばっかりだ、というジョークが流行っていた。表面上はぼくもみなと一緒に笑っていたが、心の底では、おれはお前ら全員より腕がいいんだ、と思っていた。

 料理においてゲイ的感性が存在するとすれば、それはぼくが作る冷製のメニューに見いだすことができた。そこでぼくが作るものには、逃れがたい疎外から生まれた痛烈さがあった。ホゼのソテーセクションから出てくるフィッシュシチューは技術的には完璧だったかもしれないが、同時に機械的でもあった。ぼくの作るサラド・コンポゼは藪なす憧れであり、葉や花が吹き寄せられ、小さなハーブや人参はまるでなにか自然の強大な力によってそこに飛ばされてきたようだった。ぼくを突き動かしていたのは料理へと昇華された怒りだった。アウトサイダーとしてなにかを示すために、手元にある素材をもとに、その限界を超えるものを作ろうとしていた。

 ぼくはオルニーにも同じものがあると感じる。彼はアイオワのマラトンで育ったが、画家になるためにパリに向かい故国を捨てた。これは同じくゲイで有名なジェームズ・ボールドウィンがレイシズムとお上品さに嫌気がさしてアメリカを離れてから十数年後のことだ。オルニーは画家としては鳴かず飛ばずだったが、彼の芸術性は日々の生活において発揮された。彼はマルセイユの東80キロほどのソリエ=トゥカ Solliès-Toucas にあった遺棄された農場を買い、なんとかそこでの生活を再建していった。石灰岩を切り開いてワインセラーをつくり、夏には近くの丘に生えるセルポレという野生のタイムを集めて乾燥させ、酢やジャムを作った。さらに、敷地に作業に来た配管工や石工たちから聞き取りをして、ドーブやテリーヌ、マトロートなどの、細かいことが知られていなかった地元料理に関する詳細な情報を集めた。こういった料理は1960年代のフランスですでに絶滅の危機が迫っていたのだ。

 ウォルト・ホイットマンの『草の葉』が本というよりも彼の詩論が息づくひとつの生命体であるように、オルニーの『シンプル・フレンチ・フード』(1974)もまた脈打っている。ジュリア・チャイルドの『フランス料理法 Mastering the Art of French Cooking』が夫の上司が来た時に仕方なく開くマニュアル本だとすれば、『シンプル・フレンチ・フード』は生活方針のマニフェストだ。1974年には、オルニーのように料理しようと思ってもA&P[アメリカのスーパーチェーン]に乗り付けて買い物するというわけにはいかなかった。まず生活そのものを変えるところから始めねばならなかった。

 シェ・パニースに雇われた最初の正式なシェフであるジェレミア・タワーを指導したのもオルニーだった(彼らはいっとき恋愛関係にもあった)。アリス・ウォータースはオルニーのいるソリエ=トゥカを訪問し、そこから多くのものを受け継いだ。信念のないシステムから距離を置く重要性、食べ物の持つ没入感を生み出す力、そしてソースから手作りの個人の手による料理の希求といった精神は、現代のアメリカで働くすべての料理人にとって理想であり続けている。オルニーはサラダを担当する物静かでクィアな少年だったが、やがて誰もがそこを訪れたいと思うようになったのだ。

 一方、クレイボーンはブレザーにローファー姿でリュテースのテラス席にいるようなアメリカの料理界の重鎮だった。彼は1982年に、いっぷう変わった、ギムレットの香りただよう自伝『楽しい饗宴 A Feast Made for Laughter』を出版するまで公式にはカムアウトしていなかったが、それまでも20世紀なかばの職業人が送るタイプのゲイ的生活を送っていた。公的には「独身貴族」をつらぬき、みずからの趣味の良さを(セックス抜きで)誇る、食のミスター・ベルヴェデーレ[独身男性が主人公のシットコム]となったのだ。1957年にクレイボーンはニューヨーク・タイムズ紙のフード欄編集長に就任する。これは50年代にはたいして威信のあるポジションではなかった。当時のNYTのフード欄は他のアメリカの日刊紙と大差なく、退屈で、言及するのはサービス面についてばかりだった。しかしクレイボーンは食を映画やバレエなみの批評に値する存在へと引き上げ、料理批評の重要性を確立した。彼が築いた基礎のおかげで、ジョナサン・ゴールドなどのより優れた作家や批評家たちがアメリカ文化を見守っていくためのプラットフォームができた。

 こどものころ、母が持っていたクレイボーンの『ニューヨーク・タイムズの料理本 New York Times Cookbook』を熱心に読んでいたときのことを思い出す。そのなかのある写真がぼくの目を引いた。それは「典型的ブランチ」というキャプションが付いた白黒の写真で、搾りたてのオレンジジュースが氷のたくさん入った大きなグラスに入れられていた。そばには銀色のかごがあり、つぶつぶが散りばめられてきらきらしたブリオッシュが入っていた。ぼくはこんな生活がしてみたかった。日当たりの良いアパートメントで朝日を受けて目覚め、バターとオレンジの甘みが舌に広がるのを瞑想するかのように味わうのだ。クレイボーンはぼくたちに、食べる楽しみというものを重大な問題ととらえてもいいと教えてくれた。たとえほんのささいなものであっても、その楽しみは決して罪深いものではなく、文化の叡智を体現するものなのだ。パンがなんだ、ケーキを食うぞ。

 ビアードがやったのも似たようなことだが、やり方がもっとアメリカ的だった。マクドナルドのレイ・クロックがハンバーガーを矮小化し、たいして力も入れずに握りしめただけでゴルフボールサイズの脂とデンプンの塊になってしまうようなものに仕立て上げていた時代に、ビアードはわれわれにアメリカ料理は処女林のように無垢な素材から切り出されるもので、巨大さが不可欠だとわからせてくれた。

 1930年代、ビアードは男性と性交渉を持ったことを密告され、オレゴンのリード・カレッジを放校された。ビアードの料理本には欲望が昇華されたものが感じ取れる。屋外へのあこがれ、強烈なフレーバー、ありあまる脂、そして大量に使われた豪華な肉。ビアードは公的には、尽きることのない食欲をもった、ボウタイをした独身美食家として通り、アメリカ料理を(彼同様の)トリプルXLサイズへと作り直した。

 マクドナルドが大量生産する以前から、ハンバーガーというのはカウンターで食べるようなランチ向けのチープな食事だった。それをビアードは、アバクロンビーの上裸のモデルのごとく象徴的とみなされる存在にしたのだ。自分で挽いた、肉汁滴る3インチ厚のサーロインを炭火でグリルし、たっぷりバターを塗った自家製バンズに乗せる――これこそがアメリカ全土の高級レストランのメニューに載るハンバーガーだ。ビアードはハンバーガーとは昔からずっとこのようなものだったのだとアメリカ人に教え込み、欲望の追求はいつの時代においてもアメリカ的な美徳だったということにしたのだ。

 ビアードはアメリカ人に、食卓では快楽主義者になってもいいというマナーを教えた。お金をもらって、バーズアイやオマハステーキなどのブランドを宣伝するときでさえ、彼は美食家になろうとするのは恥ずかしいことではないと教えてくれる。それはキャディラックを転がしたいと思うようなものだ。『ジェームズ・ビアードのアメリカ料理 James Beard's American Cookery』(1972)にはほのかに倒錯的なところがある。それはアメリカの食の伝統についての修正主義的な主張で、アメリカ人はつねにスクラップル[豚肉の細切れととうもろこし粉などの煮こごり。ペンシルバニアの郷土料理]やボストン・ベイクド・ビーンズ、チーズバーガーなどに潜む食べる喜びを大事にしてきたとみなすようにした。ビアードは「アメリカ料理の学長」と呼ばれたが、それはあたかも、この新しく提唱された快楽中心的な料理観の背後に学術的な裏付けがあるかのようだった。ビアードは上品さと放埒さを兼ね備えた不思議な立ち位置にいた。

 1980年代、ビアードはしばしばサンフランシスコを訪れていたが、ある時当時ぼくが勤めていたレストランで食事をとったことがあった。ぼくはちょうど休みをとっていていなかったのだが、その日働いていた給仕助手のひとりは、すこし子供っぽい、いかにもアメリカ人という感じのゲイだった。その子がビアードにパン屋になりたいという話をしたら、ビアードは彼を自分が泊まっているホテルに招き、明日の朝に来てくれればパンについて話そうと言った。その給仕助手がホテルを訪れると、アメリカ料理の学長はシルクのローブを纏っており、スイートの寝室の椅子に座っていた。パン屋志望の彼がぼくに語ってくれたところによると、その子が会話の途中にふと視線をそらすと、つぎに視線を戻したとき、ビアードは相変わらずパイやレイヤーケーキについて話しているのだが、着ていたローブをはだけ、その下の裸体をさらしていたという。その子は狼狽して目をそらし、そちらを見ないようにした。再び視線を戻すと、ビアードはローブを戻して何事もなかったかのように話を続けていた。

 これこそがビアードの料理の本質だ。きっちりしたサルカのローブに覆われているが、そのローブはつねに恥じることのない快楽主義をみせつけるためにずりおちようとしている。

 この快楽重視の姿勢が一般化したことによって、80年代から90年代にかけてのアメリカのレストランに特徴的なあの贅沢さ(キハダマグロやキャビア、フォアグラ、クレーム・フレッシュにマスカルポーネが中級レストランのメニューにすら載っていた)が出現することになる。その姿勢はアメリカでスローフードが重視されるようになることも助けたと考えている。スローフードは企業の都合よりも味を重視し、食卓における快楽の追求は政治的な行為だと主張するからだ。だが、ゲイがアメリカのレストランの厨房に溢れかえり、その料理を通じてクィアな視点を表現するということは(エリザベス・フォークナーのような少数の一匹狼を除けば)実際には起きなかった。ペイストリー部門は、ぼくが働いていた頃に追いやられていた冷菜部門と同様、ゲイにとっての安全地帯になっている。クィアなフードライターたちがアメリカにおける食についての考え方を根本的に変えたとはいえ、ゲイはいまだ周縁的な存在なのだ。

 ルーが作ってくれたバーガーを最後に食べたのがいつだったかはよくわからないが、1970年よりそうあとということはないはずだ。ぼくが中学生のころに、パットが心臓麻痺で亡くなった。彼の母親と姉妹がセントルイスからやってきて、死体を引き取った。ルーは葬式に呼ばれなかった。パットの母親と姉妹たちはパットの服やカクテルリングなど、すべてのものを持って帰った。オークの下のアイリスはまばらになり、ルーは酒に溺れた。ルーは新しい彼氏を見つけた。背の低いカナダ人で、紫色のAMCグレムリンに乗っていた。そのカナダ人はぼくの母も含めてみんなに嫌われていた(母は彼を「ゲイすぎる」と考えていた)。ぼくが大学に進学して以降のルーのことはわからない。母によると彼は家を売り、海沿いのトレーラーハウスパークで生活していたというが、母もそこに行くことはなかった。

 大学を出ると、ぼくはサンフランシスコに移り彼氏を見つけた。彼がぼくに料理のことを教えてくれた。ぼくたちは一緒にオルニーの『シンプル・フレンチ・フード』を音読し、料理し、お互いの快楽を学者のように研究した。

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