嘘つきと嘘つき

前に書いたものです。いつかはハッキリしません。

「なぁ、触ってもいいかい。顔を近づけておくれよ」
 私は眼鏡を外したのち、目をつむり、言われた通りに顔を近づけた。かみさまの手はひんやりとしていて、頬を撫でたのち、顎を、人中を、下唇を、鼻筋を、眼窩を撫でた。私の顔のつくりを確かめるようだった。
「楽しいですか、これ」
「楽しくなければしちゃあだめなのかい、いいでしょう」
「でも、楽しくないのにしなければならない、ということもないでしょう」
 かみさまの手が離れ、私の手を握ったので、瞼を開いた。いかにもなんでもないふうで微笑んでいる彼の顔が、ただ夜の生き物みたいに静かにそこにあった。
「君はほら、学生の頃に髪の毛を茶色に染めたことがあっただろう。いつだかの、ほんの冬休みの間だけ、その艶っぽい髪を痛ませてさ。本当に綺麗だったよ。覚えているかい、その冬休みに、公民館で『街の灯』が上映されていてね。一緒に行ったろう。その帰りだよ、雪が積もっていてさ、日差しを浴びた君が振り返ったときにね、白ばかりの中に君がいて、消えそうだったんだよ。そのまま雪やなんかの白に溶けていってしまうみたいでね。この、愛しい造形がすべて」
 その日のことはよく覚えている。大雪の日の翌日だった。久方ぶりの驚くような寒さに慌ててキャメル色のダッフルコートを引っ張り出して、私はかみさまとの待ち合わせ時間のぎりぎりに着いた。そして『ライムライト』を観たのだ。
「よく覚えていますねぇ、そんな昔のこと」
「覚えているさ、それから君はね、いちごのドーナツと日本酒を要求したんだ。組み合わせが悪いだろう、と僕が言うとあんまり寂しそうな顔をしてさ。仕方がないから帰り道にスーパーに寄って、君のぶんでパン屋のドーナツ詰め合わせと、美味しそうなワンカップを買ったんだ。確か東北の地酒の。それから僕のぶんで牛乳を買ってね。家に帰るすがらに君はワンカップを開けて、飲み始めるんだよ。でもまだお酒に弱かったからさあ、家に着く頃には手を引かないと歩けないほどになっていた。あの頃の君はね、ほんとうにかわいかったよ。何度思い返してもくすぐったくなるくらいに」
 そう言いながらかみさまは私の手首の傷を撫でた。使い古された下敷きみたいな傷だらけででこぼこな皮膚を、変わらずに微笑みながら撫でていて、それでもその両の黒は、私を射抜くようだった。
 僕、ついにきみのことがわからなかったよ、と呟いて少し口角を上げた。ああ、かみさまに私のことがわからないのなら、私はかみさまをわからなくて当然であったのだな、と少し赦されたみたいな心持ちになった。晴れやかですらあったかもしれない。
 かみさまの手がすっかり私から離れて、煙草へ火をつけた。
「では覚えていますか、私がその茶色の髪を、貴方にはじめて披露したとき。炬燵にとっぷりつかった貴方はワンカップを片手に微笑んで、なんだ思ってたより似合っているね、と少し意地悪なふうでからかったんですよ」
 かみさまは目を細めた。
「ああ、確かにそんなこともあったね。でもとても似合っていたよ、照れくさかったのだろうね」
 私は嘘をつき、かみさまも思い出の昇華か覚えていなかったのか、嘘をついた。じっさいは、かみさまはもう片手の講義資料から少しだけ目を離してこちらをみて、なんだ思っていたあれではないなと呟き、また資料に戻っていったのだ。彼はそういう、人間だ。
「そしてあれだ、茶色に染めたの、僕が茶髪の子を可愛いと言ったからだろう。覚えているさ、嬉しかったよ。」
 私はかみさまがわからなかった。でも、かみさまが確かにそういった人間であることはとうに把握していた。
 手首に残った彼の感覚を思い起こすと、ふいに涙が出た。煙草を吸うかみさまはなんとも言わなかった。私は、空っぽだと思っていた体内から何かを絞り出すみたいに嗚咽を漏らしていた。両の目からぼろぼろとこぼれ落ちる涙は自分の体内から発せられたものなのに、その頬の筋は冷たかった。そして頭の中はいたって冷静で、明日の朝ごはんのことなどを考えていた。

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