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「銀河鉄道の夜」あらすじ解説【宮沢賢治】

「銀河鉄道の夜」は1931年(昭和6年)くらいまでに書かれた作品ですが、何度も書き直して結局完成はしていません。鉄道で銀河の旅をするイメージとしての美しさが印象的ですが、構造も内容もとても充実した、小宇宙とも呼ぶべき作品です

名作の誉れ高く、派生作品も多いのですが、しかしなにぶん戦前の作品です。文章が古く、最終的に未完成のままという事情もあいまって、普通の人には非常に読みにくい作品です。ですが理解できないままではもったいないので、段階的に掘り下げて咀嚼してゆければと思います。


あらすじ(以降ネタバレあります)

全体は三部構成です。

現実世界
夢世界(銀河鉄道)
現実世界

となっています。

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(現実世界)

ジョバンニは小学生です。お父さんは遠いところ行って行方不明、お母さんは病気で寝たきりです。小説にでも書いたように不幸です。小学生なのに家計を助けるために働いています。登校前と下校後の労働のせいで疲れがたまって、頭も十分に回りません。父同士が友人だった親友カムパネルラも、最近ではあま会話が出来ていません。その上、クラスにはザネリという嫌な奴がいてからかってきます。クラスで仲間はずれになっているのです

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すっかり嫌になったジョバンニは、お祭りの日も丘に上って一人さびしく空を見ていました。丘の下には列車が楽しそうに走っています。

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(夢世界)

そして、ふと気づくといつの間にか、列車に乗っています。銀河鉄道という列車です。向かいには親友のカムパネルラも乗っています。二人で楽しい星空の旅をします。いろんな人や、いろんな風景に出会える充実した時間でした。鳥取りのおじさん、燈台守、タイタニックの死者らしき三人組(青年、かおる、ひろし)、なんだか自分がひとまわり成長できたような気がしました。

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しかしカムパネルラが「あそこにおっかさんが居る」と言い出します。そこを見てもなんにもありません。腕を組んだ二本の電信柱が立っているだけです。振り返ってカムパネルラのほうをもう一度みると、彼は消えていました。ジョバンニは泣きます。

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(現実世界)

目が覚めました。すべては夢でした。起き上がったジョバンニは町に行きます。町はなんだか騒動になっています。カムパネルラが水に落ちたというのです。水に落ちたザネリを助けようとして自分も水に入り、救助には成功したのだが、今度はカムパネルラが溺れて行方不明だと。

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水辺にはカムパネルラのお父さんが居ます。お父さんは時計を取り出し、もう時間がたったから捜査を打ち切ろうと言います。そしてジョバンニに言います。「君のお父さんから手紙があった、じきに帰ってくるだろう。明日放課後、(息子の葬式に)うちにあそびに来てほしい」と。ジョバンニは万感迫り、胸が詰まって物が言えず、自宅に駆け出します。

章立て表

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簡単な章立て表です。
Aパートは現実、Bパートは夢、Cパートはふたたび現実です。

作者宮沢賢治は九章まで書き入れています。九章「ジョバンニの切符」以降は長い文章ですがタイトルが記入されていません。そもままでは説明も分析もしづらいので、このように書いてみました。漢数字は作者が記入した章番号、英数字は私の加えた章番号です。

対応表

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この作品は、現実と夢が対になっています。未完成作品ですから完全ではありませんが、できるだけ対にしようと書かれています。

さすがに順序まではコントロールしきれていませんが、まずまずきれいに対応させています。

対になっていることを賢治は、「光と影」の描写で暗示しています。
最初にジョバンニが街灯の光による、自分と自分の影の対応に反応します。

(四、ケンタウル祭の夜より)
坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。)


そして銀河鉄道の旅でも、2度似たようなシーンが出てきます。

(七、北十字とプリオシン海岸より)
さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人の影は、ちょうど四方に窓のある室の中の、二本の柱の影のように、また二つの車輪の輻のように幾本も幾本も四方へ出るのでした。

(八、鳥を捕る人より)
カムパネルラは、車室の天井を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲虫がとまってその影が大きく天井にうつっていたのです

という風に、3回「光と影」の描写をして、「現実と夢が対応しているんだよ」と読者にそれとなく伝えているのです。

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上記対応表を、ストーリー考える上で重要なポイントのみ抜き出しました。順序も夢のBパートにそろえて、AとCは変えています。こうするとジョバンニの成長のストーリーが見えてきます。

これを見ると、銀河鉄道でのジョバンニの精神の成長がひととおり理解できます。

(Set1)

1 活版所での労働=鳥取りの労働
現実世界では、ジョバンニの家計を助けるために労働しています。
夢の世界では世俗的な人、鳥取りに出会います。彼は身の丈にあった労働を一生懸命やっています。

2 大人の態度=鳥取りへの態度
現実世界の職場の活版所では、周りの大人から冷たく笑われます。
夢の世界では、ジョバンニもカンパンベルラも鳥取りを少々馬鹿にしています。

3 報酬の砂糖=報酬の鳥菓子
現実世界では、ジョバンニは活版所の労働の報酬として銀貨を受け取り、それでパンと砂糖を買います。砂糖はお母さんの牛乳に入れてあげるためです。孝行息子です。
夢の世界では、鳥取りが労働の代償として得た鳥菓子をもらいます。甘くておいしいです。親切です。

4 小さな活字拾い=鉄道チケット
現実世界では、目をこすりながら小さな活字を拾い続けます。その代償としてお金を得ます。
夢の世界では、それは鉄道のチケットになっています。チケットには小さな十字架がたくさん印刷されています。人のため(病気の母のため)の労働の尊さでしょう、鳥取りが驚くほどの貴重なチケットのようです。

・・・鳥取りは身の丈に合った労働しかしていません。ジョバンニは身の丈以上の労働をしています。その功徳で、高いランクのチケットを持っているのです。

このセットでは、労働の必要性、他者のための労働の尊さを学びます。

(Set2)

5 姉のトマト=りんご
現実世界では、嫁に行った姉が作ってくれたトマトを食べます。
夢の世界では、燈台守がくれたすばらしいリンゴを大事にポケットにしまいます。
このセットでは、他者からの恵みのありがたみを学習します。

(Set3)

6 ザネリによる疎外=かおるを疎外
現実世界では、嫌な奴の同級生ザネリに、「ラッコの上着が来るよ」、つまり「お父さんがお土産を持って帰ってくるといっていたが、帰ってこないじゃないか」と嫌味を言われて、不快になります。
夢の世界では、同乗のかおる(ひろしの姉)の発言に不愉快になります。

7 ザネリと集団による疎外=カンパとかおるによる疎外
現実世界では、こんどはザネリが同級生をひきつれて、「ラッコの上着が来るよ」と囃し立てます。まさにいじめです。
夢の世界では、ジョバンニを放っておいてカムパネルラとかおるが楽しそうに話をします。まさに疎外です。

8 子供の片足跳ね=インディアンのステップ
現実世界では、子供が片足で跳ねます。ジョバンニはいじめを受けていたので、彼らが目に留まりません。
夢の世界では、インデアンが不経済なステップ、つまり無駄なステップで走って鳥を取ります。ジョバンニは少し楽しい気持ちになります。

・・・(以下解釈訂正しました)

ここで「鳥」が重要になります。この作品で「鳥」は言葉の意味です(説明は後述します)。ジョバンニはザネリにいやな言葉を投げかけられて、自分の言葉を失います。インディアンが鳥を獲得するのを見て、ジョバンニも自分の言葉を取り戻します。

(Set4)

9  (ジョバンニ乗車)=発破で跳ね上げられる魚
現実世界では、ジャバンニは、眼下の鉄道を見て、その列車の中でみなが楽しくしていることを想像し、つらくさびしい自分の身の上を嘆いていると、いつのまにやら銀河鉄道の中に跳ね上げられています。
夢の世界では、発破で跳ね上げられる魚を見て、その中に自分自身の姿を見ます。


10 (ザネリ水没、救助)=さそりの話
現実世界では、(のちに伝聞の形で聞きくのですが)ザネリが烏瓜(からすうり)のあかりを水に流そうとして、船が揺れ、水に落ちます。
夢の世界では、水に落ちたさそりの話を聞きます。いたちに追いかけられて、井戸に落ちたさそりが後悔します。「今まで虫を食べて生きてきた。あのままイタチに食べられてあげれば、イタチは一日生き延びられた。水に落ちてはなんにもならない。食べられてあげればよかった」と。その心を嘉した神様が、さそりを空に上げさそり座になり、心臓がアンタレスになったという話です。

・・・このセットでの学習内容は多く、全編のまとめになります。

生物は捕食し、捕食されて生きています。だれかが幸福になれば、だれかが不幸になります。だから自分の不幸は、だれかを幸福にすることなのです。だから不幸を不幸と思うべきではないのです。自己犠牲の尊さにより、さそりは天空に引き上げられ、ジョバンニは銀河鉄道の旅を体験できているのです。

(Set5)

11 (カムパネルラ水没)=母のところへゆくカンパ
現実世界では、水没したザネリを助けようとして、カムパネルラが溺れます。
夢の世界では、カムパネルラは列車の外の野原に母の姿を見て、そこへ行こうとして、列車から消えてしまいます。

12 帰宅するジョバンニ=腕を組んだ二本の電信柱
現実世界では、最後のシーンはジョバンニが家へ帰ろうとするシーンです。カムパネルラは死にました。彼との銀河鉄道の旅の思い出を抱えて、彼は走り出します。
夢の世界では、最後のシーンは窓の外に見える、腕を組んだ二本の電信柱です。電信柱を見て、振り返るともうカムパネルラは居ませんでした。

・・・カムパネルラは死にましたが、居なくなっていません。ジョバンニとカムパネルラは、親友であり続けます。二人はこれからも、腕を組んで歩み続けるのです。

まどかマギカのような話ですね。というより「銀河鉄道の夜」はそれくらい、後世に影響を与え続けている重要な作品なのです。
アニメには「友達物語」異様に多いですが、基本「銀河鉄道」の影響と考えて間違いありません。じゃぱりバスに乗ってるかばんとサーバルも近いですね。

以上まとめます。
銀河鉄道の体験で、ジョバンニは労働の尊さ、好意による恵みの尊さ、自分の言葉の獲得、そして自己犠牲の尊さを学びます。学ぶ対象は列車に乗ってくる人々、および親友カムパネルラです。体験の後ジョバンニは、自分の不幸な境遇を嘆くのではなく、前向きに歩んでゆける精神を身につけることが出来ました。

キリスト教

「銀河鉄道の夜」は明らかにキリスト教を意識して書かれています。「自己犠牲」「北十時」「南十字」「賛美歌」「尼さん」「白い服を着た神々しい人」などなどキリスト教要素が大変沢山出てきます。キリスト教は実はかなり難しい宗教で、少し内部に立ち入るとわけがわからなくなります。もっとも難解なのは「三位一体教義」です。

三位一体

キリスト教には聖書より大事なものがありまして、それが「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」です。略称ニケア信条とも言いますが、そこにはクリスチャンは4種類のものを信じなくてはならない、それは「父なる神」「キリスト」「精霊」「教会」であると書かれています。

最後の教会は人間の組織だから別として、「父なる神」と「キリスト」と「精霊」が、別なものであるが、一体のものとして信仰しなければならないのです。別なものだが一体のもの、わけがわかりません。

しかしわけがわからないといって拒否は出来ません。

仏教も神道もルーズな宗教ですから、我々にはこのきつい拘束がなくてわかりづらいのですが、キリスト教にとってこの信条は絶対の規範で、これに外れると異端と認定されて村ごと全滅させられるか、キリスト教世界を追い出されてインドや中央アジアに移住するか、あげにくに中国まで到達して細々とコミニュティーを営んで戦乱の歴史の波に中にいつしか埋没して消滅する、くらいしか選択がありません。

つまりなにがなんでもこの信条を得心する必要があるのです。

ニケア信条

ニケア信条の理屈はこうです。

人間は有限な存在ですから、認識能力は有限です。ところで神はなにしろ宇宙を作ったのですから、全知全能にして無限の存在です。有限の存在が無限の存在を包み込むように理解できると考えるのは、理屈に合いません。

だから人間は神を断片的にしか認識できないはずです。その断片のひとつが「父なる神」であり、又「キリスト」であり「精霊」である、ということです。部分部分でしか神は認識できないが、おそらくそれは一体のものなのであろうと信仰する、これがキリスト教の根底にある理論です。

だから人によっては「キリスト教は一神教ではない、三神教である」という人もいるくらいです。難しいですね。

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そして三位のうち、日本人にとって特にイメージできないのが精霊です。これはようするに、「人に予言をさせるインスピレーション」とでも言うべきものです。インスピレーション、つまり精霊に降りてきてもらった人は、日本で言う神がかりになって、さまざまな予言を口走ります。

強引に説明するならば、おそらく初期設定では

人間の脳が「父なる神」、
視覚が「イエスキリスト(目で見える存在ですから)、
聴覚が「精霊」という意味だったのだろうと思います。

神は考え(脳)、視て(視覚)、予言を聞き(聴覚)認識するが、神の本質はわれわれは認識できない。できないが三種の方法で近づくことはできる、という意味だったのでしょう。

ギリシャ正教では今でもこんな教えなのですが、カトリックではその後解釈を変えまして、結果喧嘩が起こって教会は東西に分裂し、以降現代まで修復できていません。その時カトリックが書き加えた部分は、「精霊はキリストからも発する」という文言でして、視覚から聴覚が発するわけがありませんから、つまり本来の哲学的なニュアンスを喪失して「父と子と精霊」が単なる「大中小」の関係になってしまったのです。そして賢治が採択したのは、カトリック系の解釈です。

大中小

三位一体教義は、物語の冒頭から説明されています。学校の先生が銀河について三種類の表現をしています。

「星の集まり」(大)
「川」(中)
「乳の流れ」(小)

そして先生はいずれも間違いとは言っていません。物事はいろんな見方があるんだ、くらいのあやふや系の説明をしています
夢の世界で先生の説明に対応するのは、「七、北十字とプリオシン海岸」での発掘者の言葉です

牛の化石をなぜ発掘するのか聞かれ、発掘者は

「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい」

と言います。

わかったかいと言われてもさっぱりわけのわからない表現ですが、三位一体を暗示していると仮定すると、むしろ必然的な暗示方法ですね。銀河は星の集まりです。しかし同時に、銀河は水の流れでもあるし、かつ牛にも関係がある、という意味です。
このように、冒頭の「星か、川か、ミルクか」という三種類の説明を三位一体教義と理解すると、文中に頻発する「鳥」の意味がわかるようになります。

鳥と言葉


こちらの三位一体の絵ですが、おじいさんが父なる神、若いのがキリスト、そして精霊は、「鳩」なのです。

キリスト教文化では、精霊、つまり聴覚、つまり言葉は「鳩」、鳥の絵で表現されるのです。

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「銀河鉄道の夜」で鳥取りが取っているのも、鳥ですから要するに言葉です。甘い言葉です。「これは鳥ではなくてお菓子だ」、つまり甘すぎて真実の言葉ではないと、カムパネルラから批判されます。批判された鳥取りはあせって外に鳥取りにゆきます。実際生物は捕食被捕食の関係で生きているわけで、鳥取りさんの「身の丈にあった労働」という人生観は、全体を見ない甘すぎる考え方ですね。

又信号主が旗を振って鳥をコントロールするのを見ます。沢山飛んでいた渡り鳥が、合図をするとぴたっと止まります。鳥すなわち言葉です。ジョバンニの言葉もぴたっと止まり、不機嫌になります。でもインディアンが鳥を射落として手にすると、それを見ていたジョバンニも言葉を回復します。

原罪

「原罪」というのもキリスト教のやっかいな概念です。少々マゾヒスティックな考え方なので理解しにくいです

原罪は、アダムとイブが神のいいつけに背いて禁断の知恵の実を食べ、知恵と性に目覚めたことから発生した。親の因果が子に報い、人類はみんな罪を背負うことになった、という考え方です。不自然な理屈ですね。

先祖の罪が相続されるなら、先祖の善根は相続されないのでしょうか。あるいは罪の相続が均分相続なら、現代では人口増加によってものすごく薄められていているから、もはや罪がないも同然なのではないでしょうか。疑問はいろいろ沸いてきますが、文句を言っている暇はないので話を先に進ませます。

その原罪から人類を解放してくれるひとが、イエス=キリストです。彼は無実の罪を背負い死刑になることで、人類の原罪をチャラにしてくれる存在なのです。

だからイエスを信じるものは、自分の罪がチャラであることを信じることになり、救われる、あるいは救われた気分になれるのです。負債チャラ、一種の徳政令ですね。だから「福音」は英語で「Good News」と言います。

作品の中で「原罪」が表現されているのは、まずはりんごの話です。燈台守が眠ってるひろしの膝の上にりんごを置きます。ひろしは目覚めて、「今お母さんの夢を見ていた。棚や本のあるところに居た。りんごを取ってこようとしたら目が覚めた」と言います。

なぞめいた発言ですが、ここで本とはつまり、知恵のことです。ひろしはリンゴを食べますので、つまり禁断の知恵の実を食べたということです。おそらくひろしは賢くなっているはずです。しかしより「原罪」を意識するのは、次に出てくるさそりの話です。

自己犠牲

前述のように、原罪から人類を解放するのが、イエスの自己犠牲です。「銀河鉄道の夜」は自己犠牲に溢れています。

タイタニックの水死者三人組も、自己犠牲によって死んだ人です。カムパネルラも自己を犠牲にします。その自己犠牲の象徴的存在が、さそりです。

さそりは別に自分を犠牲にはしていませんが、水に落ちて「ああ、自分を犠牲にすればよかった」と後悔します。自己犠牲を志すので、文中ではいい虫とも言われています。そしてジョバンニが夢から目覚めたときも、空にさそりの心臓であるアンタレスが輝いているのが目に入ります。

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さそりは元来虫を食べて生きています。「原罪」を背負っているのです。そのさそりが「原罪」に気づき、自分の命を差し出せばよかったと気づく、ここがこの作品最大の主張です。

鳥取りさんの「自分の身の丈にあった労働」という人生観とはまったく違う考えですね。労働が尊いのはSet1で、食べ物が必要なのはSet2で学びました。捕食活動は仲間はずれ、疎外と変わらない戦闘的な行為です。Set3の言葉でそれを克服して、Set4の自己犠牲にいたるのです。

福音

以上見てきたように、全編が賢治なりに理解したキリスト教の説明と言っても過言ではありません。

実は最後のシーンもキリスト教です。カムパネルラの父がジョバンニに言います。「あなたの父から手紙が来た、明日当たりジョバンニ宅にも届くだろう」と。

予言のようです。そうこれはまさしく「Good News」、福音です。父なる神というか、神なる父(そういえばジョバンニの父は標本を学校に寄贈したという話もあります。天地創造を連想しますね)が帰ってきて、彼の国がやってくるのです。ジョバンニは活版所で働く自己犠牲によって、銀河鉄道の特等チケットを入手し、同時によい手紙を受け取る権利を得たのです。

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この最後のシーンのみ、原文でお楽しみください。(読点加え、漢字一部修正しています)

「銀河鉄道の夜」最終段

下流の方は川幅一杯銀河が大きく写って、まるで水のない、そのままの空のように見えました。

ジョバンニは、そのカムパネルラはもう、あの銀河の外れにしか居ないというような気がして仕方なかったのです。
けれども皆はまだ、どこかの波の間から、「僕ずいぶん泳いだぞ」と言いながらカムパネルラが出て来るか、あるいはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立っていて、誰かの来るのを待っているか、というような気がして仕方ないらしいのでした。

けれどもにわかにカムパネルラのお父さんがきっぱり言いました。
「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」

ジョバンニは思わず駆け寄って博士の前に立って、僕はカムパネルラの行った方を知っています、僕はカムパネルラと一緒に歩いていたのですと、言おうとしましたがもう喉が詰まって、何とも言えませんでした。

すると博士はジョバンニが挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩は有難う」と丁寧に言いました。ジョバンニは何も言えずにただお辞儀をしました。

「あなたのお父さんはもう帰っていますか」博士は堅く時計を握ったまま、またた聞きました。
「いいえ」ジョバンニはかすかに頭を振りました。
「どうしたのかなあ。ぼくには一昨日大へん元気な便りがあったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな。ジョバンニさん。明日放課後皆さんとうちへ遊びに来てくださいね」
そう言いながら博士はまた川下の銀河の一杯に映った方へ、じっと眼を送りました。

ジョバンニはもう色々なことで胸が一杯でなんにも云えずに、博士の前を離れて早くお母さんに牛乳を持って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もう一目散に河原を街の方へ走りました。
(「銀河鉄道の夜」終わり)

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いかがでしょうか。この物語は、学校での銀河の説明で始まります。銀河は星の集まりである、でも水の流れとも言って良く、ミルクといってもよいと、先生は説明します。

そしてこの最後の場面で、川の流れに、銀河が映り、ジョバンニはミルクを持って走り出します。

冒頭に教室で銀河の説明として述べられた三位一体教義が、物語の最後に現実の風景として再現されます。そして福音が告げられます。美しい構成です。

三位一体構成

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実は賢治はさまざまな構成要素を、三位一体で並べようとしました。
この場合の三位一体は、ギリシャ正教の「脳と視覚と聴覚」ではなく、カトリック風の「大中小」です。それを「抽象概念と現物と模型」と解釈して、おのおの三回登場させています。クリックしてご覧下さい。

たとえば「鉄道」です。

ジョバンニはカンパネルラ宅での鉄道模型遊びについて言及します(模型)

その後天気輪の柱でジョバンニは遠くの列車を見ます(現物)

銀河ステーションでジョバンニは銀河鉄道に乗り込みます(抽象)

これら以外にも対句表現的なものが相当あります。未完成作品なのでどこまで探求すればよいかわからないのが正直なところです。
たとえば

さそり、ザネリ、ザウエル
いやなやつのザネリは、さそりの兄弟です。両者とも水没します。ザネリは救助されますが、さそりも天空に持ち上げられます。ザネリは「昼間のザネリが、新らしい衿の尖ったシャツを着て」と書かれています。尖っているのはさそりのはさみに見立てていると思います。カムパネルラ宅の犬、ザウエルも兄弟だろうと思われます。「しっぽが箒のようだよ」と説明されています。ところで作中不完全に参照される「双子の星」という話では、ほうき星が水に落ちるのです。つまりさそりやザネルに近い存在と言えると思われます。ここらへん未完成なのが恨めしいですね。


ゆるい服を着ている人は管理者です。
活版所の給与をくれる人、牛乳屋で牛を管理している人(太いズボン)、旗振り(鳥を管理)。
対照的にきつい服を着ているのは、ジョバンニです。管理されている、自由にならない人です。でもおっつけおとうさんがラッコの上着を持ってきてくれますから、管理される立場から開放されるのでしょう。

ちなみにラッコは海で泳げる生物ですから、ラッコの上着を着用すると「水没死」しないはずですね。タイタニックやカムパネルラの状況に陥っても問題なしになります。強力なアイテムです。「父なる神」じゃなきゃ調達できないというのもうなづけます。

そしてラッコはイタチ科ですので、さそりの天敵です。ザネリ=さそりですから、ラッコの上着獲得の際には、ザネリは簡単に跳ね返せますね。というかザネリを食べちゃいます。だからザネリは「らっこの上着がくる」ことを嫌っているのかもしれません。

というふうに、この作品は「独立事象」が極端に少なくなっています。あらゆる箇所が、ほかの箇所のどこかに関係がある。だから密度が高い。作品が小さな生命のようです。
この作品の、このような内部の意味関連は、ほかにもまだまだありそうですので、ぜひみなさんで探求していただければと思います。

これほど縦横無尽に作品内部に糸を張り巡らしていると、物語としてのランクは上がりますが、代償として完成することは難しくなります。一箇所動かすと、関連するほかの箇所全部を書き直さなければならなくなるから、手間が膨大になるのです。だから4回も書き直したのに、結局完成しませんでした。

でも身の丈にあった仕事をする鳥取りよりも、無茶でも自己犠牲を引き受ける者のほうが尊いのです。だからこの作品は、今日まで名作として読み続けられています。

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