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眼にて云ふ【宮沢賢治】

小林秀雄を人生ではじめて真面目に読んでいる。無論批判的にだが。しかし良いところも十分ある。志賀やって三島も少し読んだから、抵抗感がなくなっているようである。

小林批判の最大のものは恐らく、坂口安吾の「教祖の文学」である。

「私は然し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や実朝の歌や徒然草が何物なのか。三流品だ」とまで言う。そして一流品の例を上げる。宮沢賢治の「眼にて云う」という詩である。私自身は西行も実朝も一流だと思っているし、そもそも実は賢治が好きではない。しかし確かにこちらのほうが上である。坂口は少しバージョンの違うものを記載しているが、今日正規バージョンと認められているものを転記する。漢字くわえ、現代仮名遣いに直した。

  眼にて云(言)ふ
だめでしょう
止まりませんな
がぶがぶ湧いているですからな
夕べから眠らず血も出つづけなもんですから
そこらは青く深々として
どうも間もなく死にそうです


けれどもなんといい風でしょう
もう清明が近いので
あんなに青空から盛り上がって湧くように
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽(どんが・新芽のこと)と毛のやうな花に
秋草のような波をたて
焼痕のある藺草(いぐさ)のむしろも青いです


あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでているにかかわらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかば体を離れたのですかな
ただどうも血のために
それを言えないがひどいです

あなたの方からみたら随分さんさんたる景色でしょうが
わたくしから見えるのは
やっぱり綺麗な青空と
透き通った風ばかりです。(終)

肺結核で喋れないので「眼にて云ふ」というタイトルになっている。「随分さんさんたる景色」は「随分惨憺たる景色」の間違いでしょうか。私が勝手に仮名遣い変えるのは純粋主義者から怒られそうだが、「銀河鉄道」やった時の経験から、賢治作品はもう大胆に仮名遣い変えて、漢字を加えて読みやすくして鑑賞するべき時期だと思っている。そうでなければ共有財産としての価値がない。この詩も、教科書に載っていないのが不思議な出来だ。これと、西行実朝どっちが上かと議論になる国民の、なんと豊かなことか。お釈迦様がこういう死に方をされたそうだが、熱心な仏教徒だった賢治も、納得の行く良い最期だったのではないか。安吾の「教祖の文学」は敗戦の翌々年、1947年の作品だが、「斜陽」の書かれた年でもある。目端の効く人間は当時から賢治を理解できていたようだ。安吾が賢治を理解していたのならば、太宰も確実に理解できていただろう。「銀河鉄道」が「斜陽」に影響を与えているという仮説の補強になりそうである。

小林秀雄は宮沢賢治を読んでいたのだろうか。三島由紀夫はどうだろうか。コミック、アニメ系の人々は賢治を大事にして今日の繁栄を築いた。坂口安吾、太宰治は熱心な文学ファンでなくても読む作家だが、そのことと彼らの賢治への親和性はおそらく関係がある。


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