物語構成読み解き物語・3
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「カラマーゾフの兄弟」から数年して、宮崎駿の「風立ちぬ」を見た。素晴らしくて驚いた。Yahooの映画感想コメントをみて一層驚いた。かなり多くの人が、作品のよさを感じている。適切に反応している。「風立ちぬ」は私の感覚では超一流文豪作品レベルである。それが多くの人に鑑賞されている。どうも日本も捨てたもんじゃないと思った。こういうのを共有できると、安心感が凄く出る。
あまりの感動に解析してみた。絵コンテ買ってきて、その後発売されたDVD何度も見て少し解析出来た。でも今にして思えば不十分である。
この作品は、「女性と飛行機を重ねて描く」ことが最大の特徴である。なぜ菜穂子は血を吐くか。国産エンジンがボロで油をはくからである。当時の日本の技術力は、いい機体を作るまでが精一杯で、いちばん大事なエンジンはその程度だった。
二郎が「150匁軽くできる」と言うと、菜穂子は「多すぎますわ。二人分だったらその半分でいいわ」と言う。ここで菜穂子は飛行機に完全に一体化している。
堀辰雄とマンとダンテが下敷きになっているようである。堀辰雄の「風立ちぬ」を何度も読んだ。何度読んでもつまらなかった。スローペースで読まないと味がわからない作品なのだが、スローに読むのがそもそも苦手である。今思えば速度調整をしている作品としては画期的なものだが、速度調整してもらっても快適速度ではないので、きついひとのほうが多いのではないか。当時は章立て表の作り方もよくわかっていなかったから、ひたすら何度も読み返していた。そんな時間を使うなら表作ったほうが早かった。無駄だった。ただ堀の「風立ちぬ」における風景は、宮崎「風立ちぬ」の飛行機と同じであることはわかった。主人公は女性を媒介して対象に向かい合う。
ダンテも読んだが理解不能だった。どこが良いのかわからなかった。二度と読むか、と腹を立てた。最近週休二日さんが読み解きされたが、
私は10年やってもこの路線は見えないだろう。文系だし。
マンはトニオ以外読んだことがなかった。仕方がないから「魔の山」読んだ。難しかった。よくわからないから面倒だが二度目を読んだ。今度はわかった。確かに凄い。凄いということは分かったが心がヘタった。これらをきっちりやらないと宮崎の「風立ちぬ」のこれ以上の解析は無理である。そんなことやる知力と根気は持ち合わさない。
タルコフスキー「鏡」もやったが、これまた不十分である。Blogに残っているが、まだきっちりできていない。意味不明作品の典型だから、闇雲に章立て表作って解析して、した当時はよく出来たと思ったが、今にして思えば操作不十分だった。表のこねくり回しは、文章や概念のこねくり回しより手間がかかるようで実は楽である。手は使うが頭は使わない。「鏡」はもっと色々こねくり回さなければならなかった。その手業が足りなかった。歯がゆいが名作は逃げない。生きてるうちになんとかなるだろう。
もっとも再生しては記入、を何度も繰り返して、章立て表作成根性みたいなのは身についた。昭和根性路線である。
実は章立て表とか登場人物一覧表とかは、頭を使わない工夫である。フォンノイマンくらい頭がよければ、そんは表は必要ない。しかしフォンノイマンくらい頭がよい人間は、そもそも文学の読み解きなどはやらない。よって作品解析には有効な手段なのであるが、あんまり言うとなんとなくやる気がなくなるので、小声で言っておく。
「風立ちぬ」発表の際に、宮崎駿は「鏡」とエリセの「ミツバチのささやき」に言及していた。実際「風立ちぬ」の地震波は、
タルコフスキー「鏡」の風のシーンに酷似している。
(5:10から風のシーンです)
「風立ちぬ」の内容思い出していただきたい。関東大震災が、本土空襲の予兆として描かれている。つまり宮崎は「鏡」のこの風のシーンが、ドイツのロシア侵攻を表現していると正しく理解できているのである。正直恐怖を覚えるレベルの理解力である。
その宮崎駿も、私の章立て表のごとく、基本は昭和根性路線である。カリオストロの銭形を見よ。こと経済問題に関しては、宮崎はカリオストロから一歩も進歩しなかった。デフレの継続した日本経済にたいして、宮崎ははっきり責任があると思う。
こまったことにこの絶望的なマクロ経済音痴のおじさんが、物語の理解においても映画作りにおいても、人類史上で語るべきレベルの天才なのである。宮崎に対して尊敬と憎悪がないまぜになった複雑な感情が湧き起こるが、このような感情こそがまさに宮崎が手塚に抱いた感情であると考えると、これもまた私が宮崎の影響下にあるという明快な証明なのかもしれない。巨大な存在ではある。
私は映画館じたいさほどゆかず、同じ映画を映画館で何回も見ることはほとんどない。例外は「もののけ姫」に3回、「風立ちぬ」に3回行ったことだけである。
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