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「城の崎にて」解説【志賀直哉】

1917年(大正6年)の発表です。日本の短編小説の代表です。日本は短歌の国ですから、もとより長編より短編が得意です。この作品は精密で短く、ある意味日本人の国民性の自画像とも言えます。

内容は非常に凝っています。思弁的に結論を導き出しています。その手順の理解はおそろしく難解です。しかし結論は日本人には皆、風景描写と合わせて直感的に理解できるものです。

あらすじ

電車事故で脊椎カリエスの恐れが有った作者、湯治に城の崎に逗留します。後遺症なのか頭が回りませんが、動物を死を見て、頭が回るようになりました。脊椎カリエスにならずにすみました。(終)

最低限のあらすじを書くとこのようになります。

章立て表

解説は色々存在しておりますが、私には不満足です。章立て表を作らなければなかなか十分には理解できないものです。

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だいたいこうなります。青の部分が対になっています。
これは
1、脊椎カリエスになりそうだったがならずに済んだ
2、頭が回らなかったが回るようになった
物語なのです。良い事ばかりの成功物語です。ではなぜうまく行ったか。それが青に挟まれた中間部分に書かれています。

中間部分

中間部分は3パートに分割できます。それぞれは、城の崎で目撃した動物の生死と、自分の思考とのセットになっています。

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B1:蜂の死骸に静けさを感じる。地下で静かに眠る女性の小説を書きたくなる。
B2:死にかけて足掻く鼠を見る。自分も事故の時には頭をフル回転させたことを思い出す。
B3:ここが結論です。
一本だけ動く木の枝を見た。風もないのに動いている。不思議に思って近くにゆくと、風が吹いてきた。その枝が動かなくなった。
石を投げたら偶然イモリを殺してしまった。自分は偶然に生きた。生と死はそれほどに差がない。

B1は「静」の世界、死の世界に居ます
B2は「動」の世界、生きようとあがく世界に居ます
B3で「静」と「動」の相対性、非絶対性が示されます。

B3の詳細解説

B3の二つの話、木の枝の話とイモリ殺しの話が作品全体のキモです。わかりにくいので少し細かく見ます。

木の枝:細い木の枝が一本だけ揺れています。風が無いのに揺れているのは不思議です。でも実は風はあります。弱すぎて感じられないだけです。
強く風が吹いてきます。風だと作者にも認識できる強さです。先ほど動いていた細い枝は、おそらく風に押し付けられたのでしょう、動かなくなります。

「何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った」とあります。
ここが最もわかりにくい場所ですので言い換えます。

「事故の時、半分意識がない状態で自分は頭を働かせて人に病院の手配を頼んでいた。つまり普段自分が確実なものと思っている意識とは、弱い風でヒラヒラ動く小さい枝だ。強い風が吹くと停止する、事故で半分停止したように。だがしかし頭全体、あるいは生命全体は木の全体だ。小さな意識上で動いているとか動いていないという判断は、実は本質的ではない」

イモリ:川の石の上にイモリが居ます。じっとしています。当てるつもりはなく、驚かして水に入れてやろうと思って石を投げます。運悪くイモリにあたり、死にます。とんだことをしたと思います。

これも書き換えます
「強い風が吹くと弱い枝の動きが止まるように、意識も生命も簡単に停止する。同じ衝突事故で自分とイモリの運命が別れたのはただの偶然である。生命はすべからく死すべきものであり、今生きていることが偶然なのである。生きていることに盤石の自信を持ち、それが必ず永続すると信じることは間違いである」

作者は木の枝で意識のあてにならないさまを認識し、イモリで生のあてにならないさまを認識します。作者は生が盤石のものと思う意識から生死をわける事故をショックに感じ、それで頭がハングアップしていたのですが、その意識もあてにならず生死も偶然であると認識でき、それで回復に向かうのです。

この木の枝とイモリの段は、作者があいまいにしか書いていないので普通に読む分には意味不明です。意味を取るにはB1,B2からの理論の流れで類推してゆくしか手段がありません。ですからできるだけ早い段階で章立て表を作成するべきなのです。現状ほとんどの解説は意味が取れていないまま説明しています。

「止まることと動くことを合わせて考えてある」ことが「死と生を合わせて考える」ことにつながります。

弁証法

中間部分はおそらく、ヘーゲルの弁証法を意識して組み立てられています。
弁証法とは、あるものが(正)→別の状態になり(反)→最終的に矛盾する両者を統合した状態(合)になること、
つまりものごとの生成発展のルールというかパターンを抽出したものです。
「弁証法とは、正→反→合」と覚えておけばだいたい大丈夫です。

イエスが生きている(正)→イエスが死ぬ(反)→復活する(合)というのが元ネタなのでしょうが、それを切り口に発展法則というか、認識深化法則をドイツの哲学者ヘーゲルが理論として組み立てました。西洋哲学の中ではかなり有名な考え方ですので、大正6年に志賀直哉が把握していても全く不思議ではありません。

作者は最初、ハチの死骸に親しむ死の状態、静まりかえった状態に居ます(正)。やがて必死でもがく鼠を見て、事故直後の自分なりのもがきを思い出します(反)。
最後にイモリを見て生死の偶然性に気づき、それらを俯瞰する視点を身に着けます(合)。
それにより止まっていた頭が回転を始め、それにより(生命として活性化しますから)脊椎カリエスにならずにすみます。ですので小説としてはかなり尖った方法使っています。哲学論理を埋め込むとは普通は考えつきません。

トルストイ「イワン・イリイチの死」

この作品の下敷きというか原案として、トルストイの「イワン・イリイチの死」の存在が指摘されています。すでに解析済ですが、その指摘は正しいと思います。

「イワン」はトルストイの短編中最高傑作とされています。俗物イワンが死病にかかり苦しむ中で、自分の俗物ぶりを悟り、回心し、死を克服します。結局死ぬのですが。

トルストイは志賀のように弁証法は使いません。超人的に膨大な量の対句の充実で全編を埋め尽くします。全体としては強力な説得力を持ちます。「死はない」「死は存在しない」という結論を読者は押し付けられますが、説得力が強いので納得してしまいます。豪腕です。しかし無茶ではあります。

同じような体験をしても、志賀には最終的に死が存在します。現に志賀はイモリを殺しました。ただ「生と死にそれほどに差はない」と認識することによって事故のショックを乗り越え、頭の回転を取り戻し、脊椎カリエスにならずにすみました。
私にはそもそもトルストイ風の「死はない」という結論が詭弁に思えます。生と死の意識における距離が、人間にとって永遠の問題ですが、トルストイは「死」を意識から排除することで、その距離を克服します。志賀は生を死の近くに引き寄せます。かつまた意識はあてにならないものとして軽視します。すると生と死の距離が問題にならなくなります。その解法を、自分の体験と弁証法論理で組み上げる。世界的文豪の短編の最高傑作と内容的には互角以上の勝負になっています。恐るべき優秀さですし、文豪に正面勝負を挑む度胸も素晴らしいですね。

世界の中の日本

さほど優秀ではない、地味な作品はわんさかあります。
そして非常に優秀な作品は、通常華々しい天才の輝きを持ちます。
しかしこの作品は非常に優秀であり、かつ地味です。分類に苦しみます。優秀な割に地味過ぎるのです。だから気宇壮大な勝負をしていると気づかれません。

志賀直哉はこの短編でドイツの哲学者ヘーゲルとロシアの文豪トルストイ、世界文化史上に残る巨人二人を相手に快刀乱舞の大立ち回りをしているのです。日本海海戦レベルの頑張りです。その大立ち回りの舞台はひなびた温泉宿、大立ち回りの内容はハチとネズミとイモリの観察です。物凄いアンバランスです。そして問題はこの作品が日本の短編小説の代表作であることです。つまり私達の自画像がこれなのです。

コロナ禍で日本の姿、各国国民の姿はあらわになっています。日本は優秀です。感染を上手にコントロールしています。勤勉な専門家、国民的な議論、着実な実行、素晴らしいですね。さのみ強権的にもならずに、さらりと有効な対策を展開して、日本らしさを十分に発揮しています。

一方でブラジルもブラジルらしさを十分に発揮しています。もはや世界のニュースを引っ張る存在です。私はそうなりたいとは思いませんが、日本人がブラジル人のようになろうとしても絶対に不可能だと思います。もしもブラジル人が「城の崎にて」を書いたらどうなるでしょう。分量は200倍くらいになると思います。ハチのかわりに全裸の美女の死体が、ネズミのかわりに鬼のような顔で苦しむマフィアのボスが、イモリの代わりに凄惨な大統領虐殺が描写されると思います。名作になるかどうかまではわかりませんが。

ともかくも「城の崎にて」が日本人の姿です。優秀さに自信を持ちましょう。派手さを求めるのはやめましょう。ブラジル人にはなれません。我々は志賀ほどではないにしても、どうせ地味なのです。だって「城の崎にて」が日本文学の代表作なのですから。なにか元気が出ない感じがする結論ですが、「城の崎にて」の読後感もまったく同じ感触です。


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