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「仮面の告白」あらすじ解説【三島由紀夫】

太宰治「人間失格」の2年後の作品です。批判的に継承しています。いわく、「天皇は薄志弱行のダメ男ではない、水生のおとこおんなである」

あらすじVer.1

主人公は誕生時の記憶があります。タライの水にゆらめく光を記憶しています。その主人公が成長して色々体験して、最終的にテーブルにこぼれた水のギラギラとした反射をふたたび見ます。(あらすじVer.1終)

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実は誕生の時刻は夜の9時でした。だから光の記憶があるのはおかしい、勘違いだと周りの人からは言われます。しかしここが本作最大の工夫です。主人公は天皇です。天皇の正体は太陽神アマテラスですから、光は主人公本人が発しているのです。自分で自分の発する光を見ているのです。

そしてアマテラスのアマは、天という字をあてますが、天がアマ、天から振降ってくるものがアメ、降った水が貯まる海がアマ、海で働く女性がアマ、つまりはアマとは水の循環による生命の生成作用のことを指します。アマテラスを暗示するのに水と光の描写をするのは、適切ですね。

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下敷きの「人間失格」についてはこちらご参照ください。天皇物語です。

本作も同じく天皇物語ですが、「人間失格」が敗戦して人間宣言をした天皇をダメ男として描写しながら擁護するのに対して、「仮面の告白」は天皇の本質をより探求する内容になっています。ラストシーンは、冒頭と同じく、水に光が反射している描写です。

「空っぽの椅子が照りつく日差しのなかに置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲み物が、ギラギラと凄まじい反射をあげた」

冒頭は水と光、ラストも水と光ですから、本作は水と光の物語です。

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あらすじVer.2

主人公は誕生時の記憶があります。タライの水にゆらめく光を記憶しています。幼年時代からなぜか男性の死、それも残虐な死を好む変態性を持っています。女装趣味もあります。変わった子です。
学生になった主人公は、男性の不良、近江に恋をしますが、近江は素行不良でやがて退学します。

大学生になった主人公は、園子という女性と恋愛をします。しかし男性好きの彼にとっては、やはり無理な挑戦でした。園子の家は結婚を希望してきますが、断りの手紙を書きます。それがほぼ終戦と同じタイミングでした。

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しかしその後も外交官と結婚した園子と逢瀬を繰り返します。なにか精神的にきずながあるのです。人妻園子と逢瀬しながらも主人公はやはり、若い男性の半裸に釘付けになります。それが業なのです。どうしても男性好きなのですね。最終的にテーブルにこぼれた水のギラギラとした反射をふたたび見ます。(あらすじVer.2終)

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主人公の天皇は、外見は男性ですが中身はアマテラス、女です。ですので本当に好きになるのは男性です。もっとも神ですから生贄は必要です。「聖セバスチャン」の絵を見ながらオナニーしたりします。太陽神ですので、光と影が色濃く出ます。

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恋した同級生の男性近江(おうみ)が雪に自分の名前を書くシーンがあります。近江はOMIと書きます。つまり本当はおうみではないのです。オミです、すなわち臣です。天皇の家臣ですから好きに決まっています。

しかし家臣と別れ別れになると、またぞろ生贄が必要になってきます。光と影です。水泳の得意な同級生を、テーブルに縛り付けて心臓にフォークを突き刺す妄想を始めます。もっともグロ系妄想ばっかりではありません。八雲という同級生の腰回りに釘付けになったります。八雲と額田という名前が中間地点で出現しますが、ここがヤマト朝廷の始まりです。下敷きの「人間失格」と違って、本作は途中の歴史をすっとばして、すぐに明治維新になります。草間園子という女性のピアノを聞きます。知り合ってだんだん恋人関係になります。ピアノは無論西洋化を意味します。

「私の心の中にこのピアノの音はそれから五年後の今日までつづいたのである。(中略)ピアノの音は私を支配し、もし宿命という言葉から厭味な持味が省かれうるとすれば、この音は正しく私にとって宿命的なものとなった」

しかし主人公は外面は男でも、中身がアマテラス、女なのです。十分親しくはなりますが、キスをした瞬間に、おのれの敗北を悟ります。快感がないのです。やっぱり女を愛するのは無理なのです。先方の家からは結婚の決断を迫られますが、まだ学生だからと言って断ります。

近江と園子

近江への恋と、園子との恋愛もどきは対になっています。

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本作はさほど長編でもないのに登場人物大量に居ますが、丁寧に描写してもらえているのは近江と園子だけです。近江の雪文字は園子の手紙、近江と遊動円木に乗ることは、園子と鉄道に乗ることと対応しています。近江は「女性経験がある」と噂される生徒ですが、園子は主人公に「女性経験があるか」と聞きます。不能なので無理なのですが。

男好きの主人公がどうして女の園子と親しくなったのでしょう。園子も水生だからです。電車で同席した時に、園子は「水妖記」を読んでいます。「水妖」とはウンディーネです。水の精霊です。

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アーサー・ラッカムが挿絵を描いていますが、他の仕事、たとえば「ニーベルングの指環」などより出来が良い気がします。

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ウンディーネがフランス語になると「オンディーヌ」になります。モーリス・ラヴェルが曲を書いています。ウンディーネのイメージとはちょっと違う気もしますが、参照のためにご鑑賞ください。

ウンディーネと同じく、主人公も水から出てきました。つまり園子と主人公は同族なのです。だから親しくなれた。主人公の分身と言ってもよいです。草間という名字ですから、草莽の民を表しています。

終戦後、つまり恋人関係が一旦終わった後、主人公は再び園子のピアノの音を聞きます。

「私は自分の耳を疑った。ピアノの音が聞こえたのである。それはもう稚なげな音ではなく、豊かで、奔逸するような響きをもち、充実し、輝かしかった」

戦後日本は西洋化したのです。西洋文化に馴染んでしまったのです。園子とデートすると、クリスチャンになるかどうか考えていると言い出します。天皇の宗教的役割は大幅減少です。と言って園子はデート中に水をこぼしたりしてやはり本性は水生なのですが、主人公はそんな園子と一緒にいながら、たまたま居合わせた4人組の若者に目が向きます。精神は精神、肉欲は肉欲です。若者のうち二人は娘。漁師風です。二人は男性、うち一人はアロハシャツ、うち一人はさらしの腹巻きを巻こうとしていますから、上半身裸です。彼の脇毛を見て、かつて近江の脇毛を見たときと同じく、主人公は欲情します。気がつくと園子との別れの時間でした。でも主人公は園子より男性で頭が一杯です。先程男性が居た場所に眼を戻します。

「空っぽの椅子が照りつく日差しのなかに置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲み物が、ギラギラと凄まじい反射をあげた」

ラストの意味

冒頭の水と光が、ラストで回帰します。冒頭は誕生シーンです。つまり、天皇と日本は時間をループさせて新たに再生すべき、という主張です。もう少し踏み込んで解釈すれば、昭和天皇への退位の勧めです。

下敷きの「人間失格」は、天皇を擁護しています。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

本作は例えば「大庭」という銀行家を登場させたりして(「人間失格」の主人公は大庭葉蔵)、下敷きは十分尊重しているのですが、天皇に対するアタリがはるかにきつい。戦後売春宿で童貞を捨てようとした主人公は、結局不能で実行できず、自身に嫌悪感をいだきます。

「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しいいきものだ」

まさに人間失格なのですが、失格が宣告されるだけで「神様みたいないい子でした」的なフォローのフレーズは出ずじまいです。人間ではない、ただそれだけです。きついですね。天皇批判がより端的に表現されているのは、「犠牲の進歩」です。以下全て主人公の妄想なのですが、

第二章で同級生を縛って、フォークで心臓突き刺します。血をすするためです。しかしその場をセッティングしたのは老人たち、主人公は老人の要求に従って失神させた同級生を生贄にします。同級生はガチガチに縛り付けられて全く身動き取れません。

第三章で、若者を六角中に縛り付けてナイフで脅した挙句刺します。若者は怯えて震えています。

ラスト第四章で、上半身裸の若者が、与太者と喧嘩して、腹を刺されて帰ってくる妄想をいだきます。妄想に夢中で隣に居る園子がどうでもよくなるのですが、犠牲達が徐々に自分で動けるようになっているのが、一連の妄想のポイントです。最初の犠牲は身動きできません。失神した上に縛られていますから。次は怯えて動くことはできます。最後は自分の意志で戦いに行き、敗れて死にます。民が自律性を持つようになるのです。その分、主人公の役割は小さくなります。2番目が最も主体的に主人公が動いていますね。それは戦時中、園子と真面目に付き合っていた時の妄想です。そこが主人公の、天皇のピークでした。終戦後、天皇の時代は一旦終わり犠牲たちは主体的に行動を始めています。冒頭への回帰、仕切り直し、代替わりの時が近づいています。

水の国

後年の「英霊の聲」ではより天皇に同情的になりますが、

本作「仮面の告白」は解析してなかなかヘヴィーなものがあります。太宰への愛憎と天皇への愛憎がないまぜになって増幅している感じですね。だいたい学習院系は天皇に愛憎のアンビバレントになる傾向があります。三島は学習院高等科ですが、学習院大学経済学部卒業生のアニメ作品もそういうニュアンスありますね。

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三島由紀夫も宮崎駿も、それぞれ太宰、手塚にドロドロにアンビバレントなのですが、そのアンビバレントの根源にはなにか学習院(元来は公家学校です)が、つまり天皇へのアンビバレントがあるという気がします。逆に言えば日本はともかくも天皇の国であり、天皇の近辺から文化が流れ出すのでしょう。そもそも本作の主人公、すなわち天皇自身が男性に欲情したり、男性を生贄にしたがったり、率先してアンビバレントなのです。天皇のアンビバレントが周囲に流出するという構造ですね。

三島と同い年の梅原猛がのちに、「海女と天皇」という本を書きます。1991年の作品、「仮面の告白」の約40年後です。趣旨はだいたい同じです。天皇と水の関係です。

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梅原が遅かったというより、三島が早すぎたのでしょう。昭和天皇が退位するべきだったかどうかはさておいて、天皇の本質を素早く見抜いた点で三島の慧眼は讃えられるべきです。そういえば、今上天皇も水運の研究されていましたし、先帝(三島の9歳年下)は海洋生物の研究者でしたね。実は時々ウンディーネを目撃されていたのだ、という話が出てきても私は別に驚きません。

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本当は我が国は土人の国ですらないのではないか、半分妖怪の国ではないか。私としてはそちらのほうが正しく、楽しい見方でして、三島の意見に賛同できるのですが、意識の高い向きには不快で改善が必要と思われるかも知れません。

主旨の説明は以上です。ほか詳細部分の解説ありますので次回に続きます。



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