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「藪の中」読解 【芥川龍之介】【映画「羅生門」の原作】

「羅生門」が1915年、「鼻」が1916年、そして「藪の中」は1922年の小説です。死の5年前です。「河童」「歯車」および死が1927年、12年間の短い作家生活でした。

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生年で見ますと、芥川は石原莞爾、チャップリン、ヒットラーの3つ年下です(この三人が同い年ってのは驚きですね)。岸信介、宮沢賢治の4つ年上です。

あらすじ

藪の中で死体が発見されます。

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事件について4名の証言があります。

発見者木こり、
旅の僧、
放免(岡っ引き相当の役人)、
及び死体の武士の妻の母。

これらは整合しています。

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ところが当事者の証言が3つあり、

盗賊
殺された武士の妻
殺された武士本人(霊媒に呼び出され発言)

3つの証言がそれぞれことなります。事件の真相は藪の中です。(あらすじ終)

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読解の下敷き

「藪の中」の読解にゆく前に、以下二つのページお目通しください。

この作品は無制限に解釈が可能です。しかしこれらの読解を認めるという条件ならば、解釈はだいたい一つに収束します。

「歯車」解説【芥川龍之介】
http://dangodango.hatenadiary.jp/entry/2019/07/23/164524

「河童」考察/芥川龍之介はなぜ自殺したのか?
https://note.com/shao1mai4/n/n59e2921a76e9

「藪の中」読解に資する二つの情報確認できます。

1、「歯車」:非常に構築的に作られていながら、内容はオカルト
2、「河童」:妖怪譚に見えながら社会思想を探求

西洋社会では社会思想にはキリスト教を克服する要素があったのに対し、芥川は東洋的妖怪世界の住民のままで近代西洋社会思想を使いこなそうとしています。せめてどっちかに偏れば、もう少し長生きできたでしょうに。

章立て

7つの証言がありますから、7章構成です。

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分析すると

1、木樵は武士の死体の発見
2、旅法師は武士と妻の道行きの目撃
3、放免は盗賊の発見
4、妻の母は武士と妻と盗賊を順繰りに言及

ここまで
A-B-C-(A-B-C)
になっています。

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その後、盗賊、武士の妻、武士の順で語りが進みますから、全体構成は

A-B-C-(A-B-C)-C-B-A
です。

構築的です。

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より細かく見ると5、盗賊の証言は、武士の妻をレイプするまでと、レイプした後に二分割されます。

6、武士の妻の証言、7、武士の証言は、いずれもレイプした後から話が始まります。レイプするまでの経過は省略されています。レイプ後の話のみ、三者で矛盾するのです。

A1-B1-C1-(A2-B2-C2)-C3.0-C3.1-B3-A3

とするとC3.1からの3節の内容が矛盾する箇所ということになります。

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矛盾

矛盾するC3.1以降のレイプ後の振る舞いについて一覧表にしました。時系列もバラバラですので、見づらくなっています。

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確実に存在したのは灰色部分の
1、レイプ事件
2、妻が夫の武士の死(ないしそうなる可能性あるイベント)を望んだこと
3、妻の逃亡
だけです。他のイベントは証言が別れます。最大の証言の相違はオレンジの部分、盗賊、妻、武士、三人が三人とも、「武士を殺したのは自分だ」としていることです。一応殺人事件の犯人探しの物語なのですが、関係者が全員自分が犯人と証言しているのが、この作品の奇抜なところです。

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紛失物があります。武士の太刀と、妻の小刀です。いずれもあいまいな表現しかされていません。武士の馬、弓矢、箙は逮捕現場で発見されていますし、盗賊の太刀も本人が持っていました。盗賊の縄と妻の櫛は殺害現場で発見です。

だから行方知れずは武士の太刀と、妻の小刀だけです。

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中心部分

盗賊のレイプが終わるまで、証言C3.0がこの作品の中心部分です。
8節に分かれています。

1:あの男を殺したのは私。女の行方は知らない。
2:昨日夫婦をチラリと見た。男を殺しても女は奪おうと決心した
3:どうせ女を奪うならば男は殺される。私達は太刀で殺す。
   あなたがたは権力で、カネで、言葉で殺す、どっちが悪い。
4:殺さずとも女を奪えれば不足はない、山の中に連れ込む工夫をした。
5:古塚の鏡と太刀がある。安値で売ると言うと男は心を動かした。
6:藪の中に男を誘う、女は待つ。
7:杉の下で組み伏せる。縄は持っていた。口に竹の落ち葉を頬張らせた。
8:男が急病と女を騙す。縛られている男を見ると女が小刀振り回す。でもものにできた。


この部分の、

3:「私達は太刀で殺す。あなたがたは権力で、カネで、言葉で殺す、どっちが悪い。」に作者の社会思想好みをあてはめます。

5:「古塚の鏡と太刀がある。安値で売ると言うと男は心を動かした」に作者の妖怪好みを当てはめます。

その上で三人とも「武士を殺したのは自分だ(つまり自分が殺人事件の犯人だ)」と証言することを勘案し、太刀と小刀の紛失を勘案して主犯を考えます。

結論

主犯は古塚です。鏡と剣を中に蓄えています。古塚、すなわち古墳、すなわち豪族、あるいは天皇家の象徴、権力者です。富を持つものです。権力で、カネで、言葉で殺す存在です。

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というと現に取調べしている検非違使と同じと思われるかもしれませんが、違います。

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検非違使は馬、弓矢、箙、および盗賊の太刀を既に確保しているのです。ならば太刀、小刀も回収してよかったはずです。しかし実際には木樵に太刀があったかどうか問いただしています。回収主体が明らかに別なのです。

古塚、ないしその霊の属性は二つ、全て庶民のせいにして自分は責任を取らないこと、人々から富を集めることです。ですから三人とも自分が殺人犯と言い、刃物が二本紛失しています。縄も櫛も安手なので回収されません。

「その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた」これが武士の最後の言葉です。小刀を抜かなくても武士が死ぬのは確実な状況でした。つまり「見えない手」は、殺人に来たのではなく物品回収のみに来たのです。その「見えない手」が武士の太刀も回収したはずです。

古塚の霊力の影響で盗賊は武士の妻に惹かれました。さらに武士を誘い出すために、古塚の太刀や鏡を口にしました。盗賊の突然の恋心も謎なら、このフラフラ口車に乗せられる武士の欲心も謎です。こちらも背後には古塚の霊力があります。

そしておこったことは、武士の死と、私が殺したと自白する三人と、刃物二本の紛失です。

資本主義

「そんな塚は盗賊の嘘話で出ただけだ、描写されていない」

確かにそうです。塚も財宝も存在していないのかもしれません。でも盗賊もどこかに富が蓄えられてると感じていましたし、武士も富の集積を信じていたからついてゆきました。先程霊力と言いましたが、現代社会におけるカネのちから、集積された富がさらに自動的に富をひきよせてゆく様は、刀を自動収集する古塚とかわりません。その富の流れに惹きつけられて行動した人は、失敗すると「私が悪いのです」と言わされることになります。

この作品はおそらく、資本主義批判として作られています。資本およびそれの霊力で動かされてしまう人々を描いています。しかしあいにく作者はオカルト系で説明してしまう体質なので、これほどわかりにくい作品になったのだろうと思われます。

「見えない手」

作品の性質上、絶対的な回答というわけにはいきません。自信がありません。しかしオカルトな、構造的な、かつ社会思想的な視点を加えるとこういう読み解きになります。「時代物、に見せかけた推理物、にみせかけた妖怪物、にみせかけた社会思想物」というのが今現在の私の判断です。

構成的には第四節の妻の母(A2-B2-C2)を中心にすると「全て娘を取り戻したい母の霊力」という読みも不可能ではありません。現に娘は「夫を殺せ」と言っています。しかしそれですと盗賊の「権力で、カネで、言葉で殺す」が浮きますし、娘は容疑者になるので結局取り戻せず、さしたる霊力ではないということになります。「見えない手」も不自然になりますね。

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その「見えない手」ですが、アダム・スミスの国富論の「見えざる手(invisible hand)」が当然連想されます。当時翻訳は既に出ています。当時の翻訳でどんな言葉で表現していたのかは私は調べていません。芥川が参照した可能性はかなり高いと思います。神の見えざる手のかわりに、塚の霊の見えない手。

ただ、そうだとしても言葉の用法としてはこれは最悪の部類です。スミスは「見えざる手」を「市場における分配」で使っているようですが、芥川は「見えない手」を「市場における富の集中」で使っています。逆の意味です。あえて逆にしたのかもしれませんが、これは書いた芥川が悪いと思います。これでは意味が取れない。解釈は今日でも議論が続いていますが、キーワードをどこかで聞いて半端に理解した作家に、無用に混乱させられている気がしなくもありません。


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