見出し画像

「河童」考察/芥川龍之介はなぜ自殺したのか?

「河童」は、芥川龍之介が1927年発表した小説です。同年、芥川は自殺しました。この作品に因み芥川の命日7月24日は「河童忌」と呼ばれています。このまとめでは「河童」を深く読み込むことで芥川の自殺の動機を考察します。

芥川龍之介「河童」は文学史に残る名作です。
太宰治「人間失格」、三島由紀夫「豊穣の海」、中島敦「わが西遊記」、アニメ「さらざんまい」など様々な後世の作品にも影響を与えています。

本noteでは「河童」がどのような物語であるか?を見た後、河童たちの思想を追うことで物語を読み込み、芥川の自殺理由の考察まで行います。

本文、あらすじ

本文は青空文庫から読めます。

あらすじはwikipediaにあります。

があまりいいあらすじには見えません。

本文でも文庫にして100ページくらいなのですぐに読めます。
できれば本文を読むことをオススメします。

以下ネタバレ含みます。

画像1

ガリバー旅行記

画像2

画像3

芥川龍之介自身がガリバー旅行記を参考にしたと言及している通り、見事に対応関係があります。
あれだけ長い本を約100ページにググッとまとめる力量は流石です。
特に日本で一致する点がおしゃれですね。

この小説の第一階層としてはガリバー旅行記と同じく、架空の生物の住む国への冒険談を元に人間社会の風刺を行った作品だと言えると思います。

作中作

ガリバー旅行記との違いで気になる点が、この作品が作中作の構造をとっていることです。
作品の冒頭と結末で語り部が狂人であることが示されています。
なぜこの描写が必要なのでしょうか?

結論から言いますと、作中作を通して第二十三号がなぜ狂ったかを暗示することがこの小説の第二階層だからです。
この小説は第二十三号の狂いを通して近代知識人の苦悩を描いた作品なのです。

画像4

作中作である河童の物語は第二十三号の妄想です。
そのため必然的に、河童の物語は第二十三号の思想や経験が反映されたものになっています。

根拠として河童たちと第二十三号には上記の表の通り共通点があります。
バッグ、ラップ、クラバック、トック、ペップはそれぞれ発狂、神経衰弱になっている点で第二十三号と共通点があります。

また、第二十三号はゲエルと同様事業を起こしていたことが十七章で語られています。

チャック、マッグとの直接的な共通点はありませんが、硝子製品を愛用していることからゲエルを介して間接的な共通点があると言えます。

また逆に、河童たちの思想や行動から第二十三号がどのような経験をしてきたかや、なぜ狂ったかを考察することができます。

例えば上記の表からは第二十三号が失敗した事業は硝子会社だったのではないかということが推察できます。

生活教

第二十三号がなぜ狂ったかを考察するために、河童たちが何故狂ったかを考察します。

そのためにまずは河童たちの思想(=第二十三号の哲学)を詳しく見ていきます。

河童たちの思想の根本となっている宗教は「食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ」を第一義とする生活教です。

どんな思想かイマイチ分かりませんね。

より突っ込んで理解するために、聖徒として挙げられているストリンドベリ、ニーチェ、トルストイ、国木田独歩、ワーグナー、ゴーギャンの共通点を手がかりにしたいと思います。

ニヒリズム

彼らが生きた1800年代後半〜1900年代前半はニヒリズムが蔓延した時代でした。

ニヒリズムとは一言で言うと「絶対的価値観の喪失」です。

グローバル化による他文化との遭遇、科学の進歩に伴う合理主義の一般化などに伴い、今まで伝統とされてきた価値観(西洋で言うとキリスト教、日本で言うと江戸時代の価値観)が通用しなくなってきた現象を指します。

超人思想

そのようなニヒリズムに対してニーチェが生み出したのが超人思想です。

ツアラトゥストラ第一部三より引用します。

*****
わたしはあなたがたに超人思想を教えよう。人間は克服されなければならない或物なのだ。

(中略)

超人は大地の意義なのだ。あなたがたの意志は声を発して、こう言うべきだ。「超人こそ大地の意義であれ!」と。
わが兄弟達よ、わたしはあなたがたに切願する。大地に忠実であれ、そして地上を超えた希望などを説く者に信用を置くな、と。かれらはみずからそれと知ろうと知るまいが、毒を盛る者たちなのだ。
かれらは生命の軽蔑者だ。大地のほうで飽き飽きしている死にそこないの、みずからも毒に当たっている者たちなのだ。さっさとこの世を去ってくれればいい!
かつては神を冒涜することが、最大の冒涜であった。しかし、神は死んだ。究めることのできない者を設定し、そのえたいの知れぬ臓腑を、大地の意義以上に高く崇めることだ。

*****

「神は死んだ。」名言が出ましたね。

かなり雑にですがまとめると、

従来の宗教(価値観)を信じることは今やできなくなった。
自分なりの新しい価値観を生み出しそれに従って生きなければならない。
そして、その新しい価値観は自分の肉体的な感覚を起点に理性で創り上げたものでなければならない。

という思想になるかと思います。

生活教のイメージが湧いてきた気がします。

生活教とはつまり、「従来の伝統的価値観や道徳ではなく、肉体的な感覚や実生活(=欲望)を起点にし合理を追求した価値観。」であると言えそうです。

そのため河童達は胎児自身が産まれたいかを決め(四)、健全な河童は不健全な河童と結婚することが奨励され(四)、解雇した河童はストライキなどを起こされないよう食用にし(八)、犯罪の名を言って聞かせるだけで死にます(十二)

その他の聖徒

その他の聖徒とされているストリンドベリ、トルストイ、国木田独歩、ワーグナー、ゴーギャンもアウトプットは様々ですが、それぞれ「絶対的価値観の喪失」に際して、実生活の肉体的な感覚を起点に合理を追求し、自分なりの新しい価値観を生み出した人々です。

画像5

ちなみに聖徒たちのモチーフがそれぞれ物語中に登場しています。

河童たちの物語は第二十三号の思想や経験が反映されているためです。

河童たちはなぜ狂ったか

では河童たちは何故狂ったかを考察していきます。

といってもこれは十一章の「阿呆の言葉」で端的に表現されています。
「矜誇、愛慾、疑惑ーあらゆる罪は三千年来、この三者から発している。」
「もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。」

結論から言うと、生活教=「欲望を起点にし、合理を追求する価値観」そのものによって彼らは狂いました。

画像6

バッグは二十三号が河童の世界にきた時点で精神病を患っていたのでなぜ狂ったかの考察は難しいですが、他の人たちはそれぞれ示唆されています。

一つずつ詳しく解説していきます。

クラバック、ペップの場合 ー 矜誇

クラバックは超人であるというプライドがあるからこそ、ロックの凄さが分かり、神経衰弱に陥ります。

ペップは職を失った後、発狂しました。(十七)
ペップは八章で「職工屠殺法」を肯定していました。それが合理的なためです。
しかし、いざ自分が職を失うと発狂します。

これらのエピソードは、合理を追求してできた「超人思想」に基づくプライドが「自分が超人の立場である時はプレッシャーとして」「自分が超人の立場から外れた場合は、自分の思想自体が自分を価値なしとみなすことで」自らを苦しめるということを示しています。

つまり、ニヒリズムに対抗した「超人思想」そのものの脆弱性が示されています。

ラップの場合 ー 愛慾

ラップは雌に追いかけられる中で嘴を腐らせ、憂鬱になっていました。
このエピソードはどういうことを暗示しているのでしょうか?

十四章にて「我々の神は雌の河童を作り、雌の脳髄を取り雄の河童を造りました。」とあります。
つまり
雌=肉体(欲望)、雄=脳(理性)
という図式が示唆されます。

つまり九章でゲエル夫人がゲエルを支配していると言っていることは
「欲望を起点に、合理で追求した価値観」である生活教の教義と同じことを意味しています。

その雌=欲望=愛慾によって嘴を腐らせたり、隣国のカワウソと戦争が始まったというエピソードは欲望を起点におくことの危険性を示したエピソードです。

つまり、ニヒリズムに対抗し、信仰などではなく欲望を起点に価値観を創出することの危険性を示しています。

トックの場合 ー 疑惑

トックが自殺した理由は十章に示唆されています。

十章にてトックは
「自動車の窓の中から緑いろの猿が一匹首を出したように見えたのだよ。」
(中略)
「僕は無政府主義者ではないよ。」
と発言しています。

これは当時の治安維持法に怯える社会主義者を意識して書かれています。

トックの発言がどういう意味なのかもう少し詳しく考えます。

この小説の中では二種類の社会主義が対比されています。
超人思想由来の社会主義 と 無政府主義的社会主義 です。

「百人の凡人のために甘んじて一人の天才を犠牲にすることも顧みないはずだ。」(五)
と発言しているようにトックは超人思想に基づいた社会主義者を自称しています。また、無政府主義者であることを否定しています。

自分の社会主義は超人思想に基づいた正当なものであり、無政府主義者のような無法者ではないとトックは言いたいのです。

しかし、治安維持の警察に怯える姿や五章の玉子焼=「普通の生活」のメタファーを羨んでいる描写からも自分の価値観に自信が持てなくなっていることが示唆されています。

以上のことから自殺した理由は「自分の超人思想に疑惑をもってしまい、耐えられなくなったから」だと考えられます。

これらのエピソードはニヒリズムに対抗して理性で価値観を固めても、常に自分の理性自身が自分の思想を批判し、揺らぎ苦しめるということを示しています。

生活教の自己破壊性

画像7

以上のように、河童たちはニヒリズムに対抗するために生まれた生活教=「欲望を起点にし、合理を追求する価値観」そのものによって狂いました。

「もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。」(十一)

理性に基づいた価値観は、自分の理性から絶えず批判されます。理性に基づくというアプローチをとった時点で価値観が自己破壊性を持つのです。

そのため理性(合理)では対処できなかった第二十三号は河童の国という「不合理」な妄想に落ちることになったのです。

また、超人思想を持っていた第二十三号は硝子会社を経営、しかし事業が失敗。自分が超人ではないことに気づき発狂という裏ストーリーを読むこともできそうです。

超人思想の敗北宣言

マッグ「とにかく我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね。」(十三)
長老「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。トックさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかったのです。」(十四)

狂わないためにはそもそも絶対的価値を喪失せず、信仰するしかないという超人思想の敗北宣言がなされています。

芥川龍之介はなぜ自殺したのか?

私自身作品と作者を結びつけることはあまり好きではありません。

しかし、この「河童」は作者自身のエピソードとも密接に関わること
(河童は自分のコンプレックスである鼻が特徴的な生き物なことなど)

非常に速筆されたものであること
(おそらくガリバー旅行記というプロットに、日頃考えていることを自然に持ち込んだら完成したため=自分を投影しているため)

などから第二十三号の狂いが作者自身の中にもあったものだと考えて良いと思います。

まとめます。
開国に伴い西洋文化が流入してきた日本では、江戸時代までの「絶対的価値観の喪失」が起こりました。
大学で英文学を選考し西洋文化に強い芥川龍之介はニーチェら聖徒たちと同様、理性に基づいて新しい価値観の創出を試みました。
しかし、「河童」で示しているように理性に基づくアプローチではどうやっても破綻が生じるように感じ、苦しみました。
これが芥川龍之介が自殺した理由であると考察できます。
自殺理由「ぼんやりした不安」の苦しさが少しは摑める気がします。

芥川-太宰-三島

「河童」は日本人の海外文化流入によるニヒリズム(=アイデンティテイクライシス)を描き出した傑作として以降の文学にも大きな影響を与えています。

特筆すべきが芥川龍之介「河童」-太宰治「人間失格」-三島由紀夫「豊穣の海」の関係です。

「河童」は「人間失格」の親作品になっています。

根拠を示します。
どちらも作者によく似た人物が主人公になっています。
どちらの主人公も狂人として扱われており、本人の妄想/手記を通して彼らの人生が語られる構成になっています。
どちらの作品も完成後作者は自殺します。
太宰治は芥川大好きで有名です。具体例として初作品集のタイトル「晩年」は芥川の初作品集「老年」のもじりです。最後の作品も芥川を意識したのは大いにありえます。(そして太宰治はやりそうです笑)

「河童」ではガリバー旅行記をプロットに用いた代わりに、「人間失格」では日本史がプロットに用いられています。

詳しくは上記リンクにまとめられています。私がまとめたものではありませんが、非常に影響を受けたものです。ぜひお読みください。

そして「人間失格」は「豊穣の海」の親作品になっています。
つまり「河童」の孫作品に当たります。
詳細はリンクをぜひお読みください。

芥川-太宰-三島、三人とも文字通り命を削って日本文化と海外文化の融合を試みました。
読み込めば読み込むほど彼らの偉大さに気づかされます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?