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「8½(はっかにぶんのいち)」あらすじ解説【フェリーニ】

イタリア映画です。イタリア人といえばスチャラカキャラが相場ですし、本作は特にスチャラカな意味不明映画として有名です。しかし細かく解析してみると、明快な意味と厳密な構成を持った作品でした。
逆に言えば、明快な意味と厳密な構成を持っていながら、実際観るとスチャラカな意味不明映画なのです。ついてゆけません。


あらすじVer.1

映画監督グイドは映画の製作に行き詰まり、人々の冷たい視線に耐えきれずに、ロケット人間になって空中に飛び立つ夢を見ます。

その後色々あって、映画製作は中止します。

中止となると気が楽になります。登場人物たちはロケット発射台の階段から降りてきます。

みんなの幸福な踊りのシーンで映画は終わります。

(あらすじVer.1終)

映画の章立て表作成しますと、こんなに長大なものになります。時間はやや適当です。

前後対称の構造になっています。長大すぎるので思い切って最初と最後のみで考えると、

このあらすじになります。最初は上に飛び立とうとしているのですが、最後にはみなが上から降りて来て仲良く踊ります。上がろうとして果たせず、降りて幸福になる物語です。

製作中の映画

ここで気になるのはどんな映画を製作中だったのか、ということです。作中何か所かある映画への言及、および別撮りで用意してある映像(サラギーナのシーン)から想像してみます。

「泉の娘とノアの箱舟(仮題)」

全てに絶望している主人公は、泉で娘に出会います。彼女のすばらしさに生きる希望を与えられます。

時は現代、世界情勢は混迷を極め、とうとう核戦争が勃発します。

勃発の時、主人公はお風呂で偶然枢機卿と隣り合わせていました。
枢機卿は彼に、自分の幸福を追求するのではなく、与えられた使命を果たすように伝えます。

彼は子供時代を思い出します。カトリックの学校で教育を受けていましたが、海岸に住んでいる娼婦のサラギーナと一緒にルンバを踊り、

そのことで大層先生に怒られました。

その後海岸にサラギーナに会いにゆきます。彼女は椅子に座って歌を歌っていました。

主人公に気づくと、笑ってチャオと言ってくれました。

核戦争後の主人公には、泉の娘が子供の頃の自分と重なって見えます。

泉の娘が子供の頃の自分ならば、つまり今の自分はサラギーナなのだ。サラギーナとしてなすべきとこをなそう。

彼は宇宙ロケットを作り、泉の娘を含む多くの人々を載せます。現代の箱舟です。放射能に汚染された地球を脱出して、どこか別の天体でやり直すのです。

ロケット打ち上げの日、管制塔には主人公の姿がありました。地上に残って打ち上げを成功させることを選んだのです。宇宙に消えゆくロケットに向かって、主人公は微笑みながらチャオと言います。
(「泉の娘とノアの箱舟(仮題)」終)

うん、いい話です。しみじみします。断片的情報から再構成した、すべて私の妄想なのですが、満足のゆく出来です。もしも草葉の陰のフェリーニが、勝手な妄想で語るなと文句を言ってきても、妄想映像を垂れ流したあんたに言う資格はないと言い返せるので大丈夫です。とか言って、妄想映像が今日の危機に直結していることは恐いですね。予言的映画かもしれません。予言にならないことを祈っていますが。
ただし、読者様がこの設定に縛られる必要はありません。断片情報の要素さえ満たせればおのおの独自の製作中映画を想定されても大丈夫です。後述します。しかし本稿ではこの内容の映画を製作中、と仮定して解説を進めます。

あらすじVer.2

映画監督グイドは映画の製作に行き詰まり、人々の冷たい視線に耐えきれずに、ロケット人間になって空中に飛び立ちますが、女優クラウディアのマネージャーと付き人に足にロープを結び付けられ、引っ張られて海に落下します。

目が覚めます。夢でした。滞在中のホテルに居ました。温泉ホテルです。温泉では主人公の第二の自我である、アドバイザーである作家が脚本をけなします。

製作中の映画の脚本には、温泉で枢機卿を会話するシーンがありました。実際に温泉には枢機卿が来ていましたので、インタビュー申し込みます。少し会話できます。
まず温泉の外では拝謁するとアホウドリの話をします。古代ギリシャの英雄の葬礼をアホウドリが見送ったそうです。

製作中の映画は宇宙ロケットを発射します。アホウドリはロケットです。ではだれが死ぬのか。ロケットに乗らなかった人類全体です。特に主人公です。核戦争の後ですので。
ここでの枢機卿は、くしくも製作中の映画の内容を表現しているのです。しかし主人公はあまり反応せず、話し中に見かけた体格の良い洗濯女の姿に、少年時代のサラギーナの姿を連想します。こちらは説明済みなので省略。

その後作家が「あなたは混乱している。この脚本ではカトリックを非難しようとして加担していることになる」と主人公に言います。

その後、お風呂の中でお話を聞きます。枢機卿は少し高い位置に居ます。幸せになる必要はない。あなたの役目はそれではない。救いは教会の中にしかない。それで終わりです。愛想がありません。

映画製作が嫌で、核兵器への恐怖も嫌で、地球を離脱したいと思っていた主人公の監督ですが、どうもそれは違うな、と感じます。映画の原案おかしいのじゃないか。

ラストでは主人公は結局映画を作れず、セットも撤収することになります。アドバイザーである作家が「これでよかったのだ」と言っていると、芸人が来ます。準備ができた、と。

映画製作はなくなったのに準備OKとは奇怪ですが、主人公はヒロインのクラウディアと人々が共に歩いているイメージを幻視します。

突然内面から力が湧き出てきます。車を降りてメガホンを取ります。人々は実際に再集合します。楽隊が行進して、幕を下ろすと、ロケット発射台から人々が下りてきます。音楽とあいまってここの効果は圧倒的です。

主人公は冒頭で空を飛んでいました。無理やり引きずり降ろされました。枢機卿の話は空飛ぶ鳥の話、風呂のシーンでは枢機卿は少し高いところに位置しています。でも主人公の世界はそこではありません。映画製作がどんなに大変でも、いくら核戦争が恐くても、いくらこの世が苦しくても、それでも発射台から降りて来て、この地上でみんなで愛し合って歩いてゆくべきなのです。
(あらすじVer.2終)

最後の階段降りは、映画の文脈ですから、無論戦艦ポチョムキンのシーンを下敷きにしています。

「ゴッドファーザー」では権力の座から転げ落ちたのですが、本作では自覚的に神の近くから地上に降りて来て、みんなでやってゆこうとしています。

幻想と露出

章立て表のもう少し詳しいバージョンで、赤の部分を考えてみます。作品前半で主人公の元に愛人が訪ねて来ます。

ホテルで愛人をバスローブ姿にして廊下を歩かせます。露出プレイというやつです。その後死んだ父母の幻想を見ます。死んでも父母です。やはり自分を愛してくれているようです。

それと対称になるのが後半です。妻も来るのですが、愛人の姿を見られてしまいます。当然妻は怒ります。緊迫するムードの中で、主人公は妻と愛人が仲良くする妄想を抱きます。ありえないことなのですが、現実逃避をするのです。妄想は広がってゆき、やがてハーレムに大量の女性を抱えて、かつ女性同士は仲良く幸せに暮らしている幻想に至ります。

CAの女性は

と言いますし、黒人女性も居ます。国際的です。

仲良しハーレム幻想とは、つまりあり得ない仲良し国際情勢のことです。未来永劫実現するわけありません。その後(対称構成ですので順序が前半と逆になりまして)、露出シーンになります。カメラテストをするのですが、そこに出てくる女性はあきらかに妻の言いそうなセリフを言います。つまり妻との険悪な関係を映画の中で露出しようとしています。その映像を妻が見ています。当然怒ります。イタリア女性です。怒ると恐いです。

戦争一歩手前です。核戦争直前なのです。

幻想と露出のセットでは、真実を明らかにすることの無意味さが語られています。ハーレム妄想では妻は上機嫌だったのに、現実のカメラテストでは妻は怒りを炸裂させていますから。

愛がないから

カメラテストで妻に激怒された後、主人公の救いの女神である女優クラウディアが映写室に到着します。

彼女はクラウディア・カルディナーレという女優ですが、映画の中の名前もクラウディアです。他のイタリア系監督と同じく、本作も虚実皮膜の間の作品です。

主人公はクラウディアを連れ出して車に乗せます。車中で、本作の主役の男の話をします。でもクラウディアは共感しません。車を降りて泉で話し合います。一連の二人の会話が、本作の最重要箇所になりますので引用します。

(車に乗って。運転はクラウディア)
クラウディア:どこへ?
主人公:この先
(車発進)
主人公:すごく美しい。中学生みたいにドキドキする。
(クラウディア微笑んで助手席の主人公を見る)
主人公:信じないね?尊敬の念が湧いてくる。クラウディア、恋は?誰を愛しているの?
クラウディア:貴方よ
(間)
主人公:遅れずに来てくれた。その笑いは赦しなのか、からかっているのか。
クラウディア:今度の映画の話を聞かせてほしいわ。
(間)
主人公:全てを捨てて人生をやり直せる?一つのことを選んでそれに専念し、生きる根拠にする。専念することで永遠のものにする。できるかい?
たとえば僕が「クラウディア・・・」
(クラウディア微笑まず助手席の主人公を見る)
クラウディア:この先はどこなの?貴方はやり直せる?

主人公:近くに泉があるようだ。そこを曲がろう。
(間)
主人公:この男(製作中の映画の主人公)にはできない。彼は全てを欲しがり、何も捨てられない。正しい道を求めながら死にかけている。
クラウディア:映画の結末?
主人公:いや始まりだ。彼は「泉の娘」に出会う。治療の水をくれる娘。美しい娘だ。若くて古風、子供で大人、正しくて明るい、この娘こそ彼の救い、白い服を着て長い髪、君と同じだ、

(泉に到着、停車)
主人公:ライトを消して
(白衣のクラウディアの幻想。燭台をテーブルに置く。)

クラウディア:それから?
(車の外に出た主人公を目で追う。主人公車外で上着を着る。クラウディアも下車して)
クラウディア:他所へ行きましょう。怖いわ、現実じゃないみたい。
主人公:僕はここが大好きだ。
クラウディア:今の話は、ほとんど分からなかったわ。話の男は人を愛さないというけど、同情できない。悪いのは彼よ。人に期待しすぎ。
主人公:そんなこと分かっている。君も退屈な女だな。
クラウディア:それなら、何も言えないわね。

帽子で老人に変装しておかしな人。分からないわ、新しい人生を与えてくれる娘を彼は拒むの?
主人公:もう信じないからだ。
クラウディア:愛を知らないから。
主人公:女は男を変えられない。
クラウディア:愛がないから。
主人公:もう嘘の物語を語りたくないんだ。
クラウディア:愛がないから。

主人公:はるばる来させて悪かった。謝るよ。
クラウディア:貴方って詐欺師ね。私の役はないのね。
主人公:そのとおりだ。君の役はない。映画もない。どこにも何もない。ここで全て終わってもいい。

(引用終わり)

日本語字幕ではクラウディアは
「愛を知らないから」
「愛がないから」
「愛がないから」
と言っていますが、喋ってるイタリア語を聞くと三回とも同じ発音をしています。イタリア語字幕がないのではっきりとは言えませんが、ネットで英語字幕を入手してみると、三回とも
「Because he doesn't know how to love」
と言ってます。とにかく三回同じフレーズを繰り返す、これが本作の結論です。

主人公はクラウディアとの会話に映画成立の最後の可能性を賭けたのですが、クラウディアの三回の繰り返しで完全に断念します。だから即座に
「はるばる来させて悪かった。謝るよ」と言います。クラウディアはお役御免になったことを敏感に察します。主人公は、映画そのものが成立しなくなったことを告知します。ここは超難解なシーンでして、解釈の分岐も多いのですが、以下想像してみます。

製作中の映画の主人公は、人生にどん詰まって身動き取れなくなっています。自分を救ってくれるであろう「泉の娘」に出会います。生きる希望は与えられますが、彼女に近づくことはできません。最終的にノアの箱舟に彼女を乗せるのですが、彼自身は乗りません。プラトニック・ラブです。

という構想を監督グイドは語るのですが、クラウディアは共感できません。それは愛じゃないだろう。いっしょに過ごすのが愛だろう。完全な調和も(ハーレム幻想)、完全な真実(真実露出)も達成できないにしても、それでも人々と一緒に歩むのが正しい道だろうと。
監督グイドもその主張が正しいことを認めて、製作中の映画の製作を断念するのです。

「愛がないから」のシーンに続いて、記者会見では主人公は(もう映画の中止が決定しているので)逃げ回って(象徴的な意味で)自殺します。

最後に自動車の中で第二の自我である作家にこれでよかったと言われ、主人公は幻影を見ます。前述のクラウディアが歩くシーン、つづいて人々が歩くシーンです。人々は、「おかえり」と迎えられます。

そして幕が上がり、彼らは発射台から、地上に降りてきます。

ウクライナとロシア、ハマスとイスラエル、どっちが正義かの議論は、もうどうでもいいでしょう。この時代を一緒に過ごしましょう。一緒に歩きましょう。そのことが一番価値があることなのです。

作品内容を言語化する作業は以上で終わりです。普通にみただけでは意味不明なのですが、それでも映画史上に残る名作として愛されているのは、意味不明ながらもどこか価値あるメッセージと感じられるからだと思います。ウクライナの反撃にこだわっていても、イスラエルの戦闘を継続させても、両方とも核戦争のリスクが非常に高まります。でもウクライナは頑張るべきだと、イスラエルも戦うべきだと、多くの人が主張しています。日本人が、です。そういう方は命も惜しまぬ正義の人なのでしょう。しかし正義や真実よりも、核戦争を防ぐ事のほうが、価値がある気が、私はしています。この映画を見過ぎたせいかもしれませんが。

カメラワーク

カメラワークは凄いです。カメラの移動や構図それ自体が凄いというより、俳優の動きとカメラの動きの組み合わせが素晴らしいです。

こんな感じで人物が視界に入ってきたり、出て行ったりを常に繰り返します。カメラの動きは横移動は少なく、回転が多い印象で割とシンプルなのですが、人物の動きと組み合わせることによって、複雑で見ごたえのある絵作りに成功しています。スポーティーな溝口、実写でやる宮崎駿というと分かりやすいでしょうか。

このやり方ですと俳優への負荷が非常に大きいはずですが、そこはイタリア人、上手にこなしています。他の人の動きや、カメラの動きを頭に入れて動かなければなりませんから、難易度が高いです。全編バレエをしている感じですね。以下シーンなどは実はうまくいっていません。

グイドの死んだ両親が二人で歩く。画面向かって左から入って来るグイドに声をかけられて振り返る。最後の絵が欲しい絵です。しかし両親の歩くスピードが速すぎて、グイドが画面に入り込むタイミングが遅すぎて、このままでは二人が画面の外にはみ出しかねませんでしたので、両親の歩みを途中で減速させています。そのせいで歩み方がかなり不自然になっています。母役は少々じれたのでしょう、声をかけられた時の振り返り速度が速すぎます。
これは作品の小さな傷ですが、逆に言えば、リハーサルをさほどせずにこのシーン撮影しているということです。すごい連中ですね。映画の名優になるほどカメラの位置、動き、それによって達成される最終的な絵を想定しながら動けるのですが、当時のイタリアにはその動きをこなせる人間が大量に居たということです。なんちゅう文化力だ。カメラワークだけでも複数回の鑑賞に耐えます。

後世への影響が大きかった本作ですが、最大の後継作品はおそらくソクーロフの「エルミタージュ幻想」です。

詳細は書きませんが、内容的にも技術的にも、見事に理解、発展させています。本作がお好きでしたら、ぜひ一度ご覧ください。

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製作中映画の脚本を想定するための資料

作品内に色々ちりばめられている、作中映画に関する情報をまとめて提示しますので、読者様はおのおの目途をつけれるかと思います。
ロケット発射台のセットが作られています。そこは確実です。現場に妻と行った時、宇宙船の模型も映されます。

サラギーナのシーンも、映された直後に作家との会話になり、作家が「この人物の意味は」ということから、脚本に存在していることは確実です。おそらく全編で唯一脚本を忠実に映像化したシーンではないでしょうか。非常に長いですが全部載せます。

前述のクラウディアとの泉での会話も、ほぼ脚本の趣旨通りと考えてよいでしょう。重複をさけて省略します。
プロデューサーや妻といっしょにカメラテストを見ます。俳優選びのためです。サラギーナ役も、枢機卿役も出てきます。これも脚本に準じたテストのはずです。

愛人は現実と同じコスチュームで、

妻は現実と同じくメガネをかけさせられます。

まさしく露出プレイなのですが、注目すべきは、妻は慢性的にメガネをかけていますから、映画が妻を真似ただけですが、愛人のコスチュームは時系列的に、実際の愛人にカメラテストを真似させていることです。つまり現実のほうが映画より虚構なのです。という脚本をフェリーニは書いたのですから、フェリーニは当時の社会の現実を、「泉の娘とノアの箱舟(仮題)」よりも虚構だと考えていた、ということになります。入り組んだ間接的メタフィクションです。虚構の中の虚構がただの虚構よりもリアルだと。だったら虚構の中の虚構もただの虚構も、現実よりもリアルのはずです。

話戻して、アドヴァイザーである作家は4回発言しますが、前述のように意味のあるのはうち3回です。まず冒頭、

2回目、

3回目

他教会関係者との会話

制作部門の発言

以上まとめて筋書き考えますと、それが製作中映画の内容になります。読者様のご想像にお任せいたします。
実はロケット発射というのは****という意味が、泉の娘には****という意味がありまして、****が****で****だ、という解釈も成り立ちそうですが、公序良俗に配慮して考察から外しております。そちらの解釈も読者諸賢にお任せしたいとおもいます。考えすぎると魂がイタリア化するリスクがありますが。


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