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海辺のカフカ 解説【村上春樹】

村上春樹作、「海辺のカフカ」は、2002年の小説です。決して気取った小説ではありません。西洋文明に必死に立ち向かいながら、関西的ユーモアもわすれない、すぐれた作品です。

消化と吸収

村上春樹は一言で言えば「読める作家」です。同世代の村上龍が「書ける作家」、つまり昏睡状態になってもこのひとは文章書けるのではないか、と思えるくらい文才に恵まれているのにくらべて、村上春樹は古今東西の物語を、読み込み、読みこなし、消化し、作品の中で自由に使うことができます。並の文学者とは、胃袋の強さが全く違うのです。

さまざまな参照:以降含ネタバレ

本作はある意味「ネコ」の物語です。つまり「吾輩は猫である」を参照しています。漱石の「虞美人草」や「坑夫」は名前が出てきます。雨月物語の幽霊噺も出てきます。逆に言えば、これは単独の物語ではありません。物語の物語、村上春樹が書いたというより、過去の物語たちがよってたかって書いた物語です。人類の物語世界の管理人、それが村上春樹です。そうは見えませんが、地味に碩学です。

最も重要な参照、「カラマーゾフの兄弟」

多くの参照の中に、ウェイトの軽重はおのずから存在します。もっとも重要な参照は、ドストエフスキー作「カラマーゾフの兄弟」です。

カラマーゾフの兄弟は、おそらく文学の最高傑作です。村上春樹自身も「ドストエフスキーを前にすると、自分が作家であることがむなしくなる」と言っています。これは自信のなさを表現した言葉ではありません。むなしくなる、と言えるくらい春樹は自信を持っているのです。大多数の作家はおそらく、ドストエフスキーを読みながら、むなしいと思いながら、それを口に出せないでいます。「カラマーゾフの兄弟」を下敷きに小説を作るというのは、よほどの自信がなければ出来ません。日本が世界文学を十分消化していることの、証拠でもあります。

カラマーゾフの主題

カラマーゾフの兄弟は、2つの物語を上手にドッキングした作品です。
一つはギリシャ悲劇「オイディプス」
今一つは新約聖書「カナの婚礼」
古代ギリシャの文化と、ユダヤーキリスト教文化は、元来全く別のものです。それをドストエフスキーは、見事にドッキングしました。

「オイディプス」は元来ギリシャ神話です。知らずして父を殺し、母と性交して、後にそれに気付いて絶望する話です。
「カナの婚礼」はカラマーゾフの兄弟のちょうど中心部分に出てくる話しです。婚礼の席でのイエスの奇跡です。イエスの臨席する婚礼では、ぶどう酒が無限に湧き出てきます。つまり生命が無限に湧き出ずるのです。

「オイディプス」は、「海辺のカフカ」にそのまま使われています。カフカ君は間接的にですが父を殺し、母と思われる佐伯さんと性交します。
しかし日本はキリスト教国ではないので、「カナの婚礼」は使っていません。かわりに使っているのが、空海伝説です。

弘法大師空海

空海の本名は佐伯眞魚(さえきまお)です。カフカ君は佐伯さんの息子なのだから、当然カフカ君も佐伯です。空海は香川県出身ですが、佐伯さんも香川県に住んでいます。空海の名前は眞魚です。魚が陸に上がった瞬間に「海辺のカフカ君」になります。

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作品の主題

この作品の主題は「時間」です。全ての発端になった戦時中の小学生集団失神事件の契機は、担任の先生の、白昼夢と性交と生理にあります。
担任の先生は、夫を戦争に取られていました。寂しかった先生は、前日夫との性交を夢見ます。起床後もその感覚は続き、子供たちとキノコ狩りをするときにも性交の感触を持ち続けます。そして山の中で突然生理になります。突然の生理を処置した血染めの手ぬぐいを、何故か小学生の中田君が、見つけ、先生に持ってきます。先生は恥ずかしさのあまり錯乱し、中田君を激しく打ちます。そして中田君は失神し、それが集団失神事件の始めになります。

夫を思うあまり、夫との性交を夢に見る、それは過去に時間を戻す行為です。思い返せば、オイディプスの「父を殺し、母と性交」というのも、自分が過去の父のポジションに時空を超えて滑り込む作業です。そしてカフカ君の母の佐伯さん自身、過去の美しい青春ののち、自分の生き方を見つけられないままです。

兵隊の町

カフカ君は、それら時間を戻したいという欲望を整理するために、山の中に踏み入って行きます。かつて山の中で修行をくり返した空海のように。そして第二次世界大戦中に失踪した兵隊二人に連れられ、不思議な町に行きます。つまり過去旅行をします。しかし最終的にそこから脱出します。つまり、過去に戻ろうとする気持ちを捨てきりました。

中田さんと星野君

カフカ君の冒険と同時並行的に、中田さんと星野くんの冒険が進行します。星野君がカーネルサンダースから貰い受ける石は、丸いかたちをしています。最終的に中田さんの口から白い細長いものが出てきて、石のところに行こうとします。これはなにを意味するのでしょうか?

石は、つまり石臼です。

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そして(少なくとも香川県においては)口から出てくる白くて長いものは、うどんに決まっています。

讃岐の国に於ける時間の表現、および時間遡行の表現

うどんは、小麦機を石臼で挽いて粉にし、打って茹でてうどんになり、人の口に入ります。しかし、戦時中の小学生集団失神事件以降、時間を戻そうという願望が人間社会に入り込んでいます。時間遡行願望は、うどんを口から出し、石臼の方に移動させます。石臼の中に入り込んで、元の小麦に戻ろうとするのです。

旧讃岐の国においては、これはおそらくもっとも端的な時間遡行の表現となります。オイデップスと同レベルの悲劇的な、罪深い行為が、今うどんのかたちをとってヌルヌルと行われようとしているのです。

さぬきうどんの実力、それとの格闘

星野君は、時間遡行に敢然と立ち向かってゆきます。具体的には口から出てくるうどんに立ち向かってゆきます。勇敢です。うどんをハンマーで殴ります。しかし相手は天下に名だたる讃岐うどんです。ハンマーを跳ね返します。すこし凹んでも、すぐに回復します。ものすごいコシです。このコシこそが讃岐うどんの実力なのです。

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しかし星野君も燃える男です。元自衛隊員の経歴は伊達ではありません。なんとかうどんを分断します。これは歯でうどんを噛み切る動作を表現しています。まさに咀嚼です。ビニール袋に入れて、焼きにゆきます。時間の遡行は根絶されたのです。この壮大な物語のクライマックスは、このうどんとの格闘シーンです。

村上春樹は京都出身ですので、要するに関西風のオチのつくりかたなのです。文体が小洒落たかんじなので、そう見えないだけです。「海辺のカフカ」読み終えた方は、「あの頃に戻りたい」という、後ろ向きな、退嬰的な、消極的な考え方を捨てて、未来に向かおうという、前向きな気持になっていると思います。いかほどの困難があっても、乗り越えてゆく気持ちを、持てるようになります、恐らく。

そして、世界に広がる村上春樹文学と讃岐うどん

今日春樹文学は世界に広がり、そしてついでにうどんも世界中の読者の潜在意識に刷り込まれます。素晴らしいことです。訪日客がずるずるとうどんをすするとしたら、その原因の5%くらいはこの小説にあるのではないでしょうか。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は、楽しげにお菓子を食べに往くシーンで終わります。崇高で抽象的な主題をこねくりまわした挙句、最後は世俗的な喜びで、次の時間へ歩みを進めてゆきます。「海辺のカフカ」がそれを完全に消化した作品、ということがご理解いただけたかと思います。

この作品以降、村上春樹は「日本回帰」に向かいます。つぎの作品「アフターダーク」は川端の「眠る女」から影響を受けています。1Q84はオウム事件を扱ったもの、田崎つくるは三島の「鏡子の部屋」のオマージュです。(騎士団長は読んでいません。すみません)

その意味ではアメリカに占領されてはじまった戦後社会のおおきなターニングポイントのような作品です。ちなみに、香川県には「讃岐うどんは空海が唐から請来したのが発祥である」という伝説があります。ほんとかどうか、今とはなっては永遠の謎ですけど。


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