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「Xへの手紙」解説【小林秀雄】

段落わけ

小難しい文章です。何書いてあるかさっぱりわかりません。章立て表で攻略するしかありません。段落ごとにメモ作って、一覧表にしてみました。

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一見全体が3パートに別れているかのように見えます。
しかし第三部が大きすぎる。第三部を話題で分割すると3つになります。全体では五部構成なのです。

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奇数章が実際の人間とのやりとりの話、
偶数章がやや抽象的な話です。
ですから全体としては鏡像構造とも言えますし、

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ロンド的とも言えます。

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2章は内面の話です。
「自分の中の鏡」「頭の中に同居するカメラ狂」など、自意識による苦しみが書かれています。

3章は女の話です。本作最大の工夫になります。

「女は男の唐突な欲望を理解しない。あるいは理解したくない(もっともこれは同じことだが)。で例えば「どうしたの、一体」などど半分本気でとぼけてみせる。当然この時の女の表情がまず第一に男の気に食わないから、男は女のとぼけ方を理解しない、あるいは理解したくない。ムッとするとかテレるとか、いずれ何かしら不器用な行為を強いられる。女はどうせどうにでもなってやる積りでいるんだからこの男の不器用が我慢がならない。この事情が少々複雑になると、女は泣き出す。これはまことに正確な実践で、女は涙で一切を解決してしまう。と女に欲望が目覚める。男は女の涙に引っかかっていよいよ不器用になるだけでなんにも解決しない。彼の欲望は消える。男は女をなんという子供だと思う、自分こそ子供になっているのも知らずに。女は自分を子供のように思う、成熟した女になっているのも知らずに」

これは濡れ場なんですね。若い頃はこんなサーヴィス精神があったのですね。公序良俗に配慮して解説は省略しますので、読者様は適当にセリフと情景描写を補ってお楽しみ下さい。
ここで小林は「人間同士のやりとりは、互いの勝手な欲望に基づくもので、正義だの真理だのとは関係がない」と言いたいのです。紋切り型のマルクス主義とかはダメだと。

4章は政治と個人の関係です。社会の思想を振り回しても、個人から遠ざかるだけだ。今の政治思想家(マルクス主義者)は遠くから人間を写すだけで、身近な細部を写そうとしないカメラだ。実は何も認識出来ていないだろう。

無自覚仏教徒

小林秀雄はミクロ万歳、マクロ無視路線です。徹底して仏教的です。仏教では内面を掘り下げると宇宙の真理に到達します。極小が極大にゆきつける道だとします。その小林本人におそらく仏教の知識がない。仏教文化の中で仏教に染まって考えていながら、それが仏教と知らない。そういう人間が西洋思想を輸入すると、わけのわからん文章になります。

そもそも仏教には変化しない個人や、永続する魂はありません。個我を基礎に組み立てられた西洋思想とは最初から真反対です。一神教は神と契約しますから、契約主体の個人がなければなにも始まりません。しかし仏教では魂はない。つまり個我もない。究極的な契約なんぞできないのです。簡便な契約、約束はしょっちゅうしていますが、ヘヴィーな契約は難しい。

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「Xへの手紙」2章では、自分が自分自身のみでは成立しない事を書きます。心の中の鏡やカメラに苦しめられる話題です。自意識地獄です。2章と対になる4章では、自身や身近な物事を見つめることの出来ない目で社会を見ようとする愚かさを書きます。自意識地獄さえ知らない連中はなにも見えていないだろう。そして間に挟まれた3章では、男性と女性との一対一の間でさえコミニュケーションには苦闘が伴なうことが書かれます。一対一でさえそれほどに大変である。遠くから俯瞰して何がわかるか。ここの説明で濡れ場を持ち出すのは、なかなか上手いですね。説得力があります。

男女間のやり取りでも人間は成熟します。つまり人間は変わりうる。仏教では世界の全てが因縁で成立している以上、人間も変わるのが当たり前なのです。夏目漱石も似たような考え方です。性格なんか変わるもんだと思っています。漱石は禅をやりますから、それが仏教と分かっています。一方で小林は西洋思想の知識は漱石より数段有りますが、それが仏教だと気づいてない。おそらく昭和初期には、わかりやすい仏教入門がなかったのでしょう。だから自覚しないままです。つまり小林自身が、心の中のカメラの特徴よく知らなかったのです。彼が批判するマルクス主義者と五十歩百歩なのですが。

ともかく小林本人が仏教との自覚がないままひたすら西洋思想に噛み付く。西洋的歴史観に噛み付く。明治以降の早急すぎる近代化が生んだひずみが、小林秀雄の悪文だと思います。

「本当の思想史というものを人が編み出す事が出来たとしたら、恐らくそれは同じ様な格好をした数珠玉をつないだ様に見えるだろうと」

一見意味不明の説ですが、これは刹那滅論を思想史に当てはめた言葉です。

http://www.obpen.com/essay/20170903_01.html

仏教の基礎知識なしでこんなことを言えるのは凄いのですが、今日から見れば無駄な遠回りにも思えます。なにより分かりにくい。

エゴと品格

「無常という事」にも似たような記述がありますが、インタビューで「歴史とは自己を見つめることだ」と小林は言っています。

自分の因縁を明らかにするのが歴史だと。そして歴史を俯瞰する見方を否定します。なぜなら俯瞰する時人間はその俯瞰対象の中に居ませんから。俯瞰は対象の外からしかできませんから。そうではなくて、歴史の中に入らなければならない。そこで自分が成長できる。この見方は、仏教的文脈ではそれなりの正当性はあります。

俯瞰、マクロには内省はありません。自己そのままで外界を観察します。西洋的なエゴを保持する考え方です。エゴ丸出しで自分の主張を押してゆく人を見ると、日本人としては確かにうんざりしますね。内省がないなと感じます。見ていて恥ずかしくなる。対して内省している人は品格が出ます。無自覚仏教徒の小林も、品格はあります。雰囲気は大変よろしい。しかしでは具体的に社会をどうするという知見は、小林の中からは、言い換えれば仏教の中からは発生しない。そういう知見はエゴを確定した上で、粗雑でもよいので社会を俯瞰する視点、マクロが必要になります。俯瞰なんて鳥にでも出来ることですから、俯瞰したからと言って成熟、成長はありませんし、精神の安定もありません。品格はつかないのです。しかしわかりにくい文章でも表を作ればわかりやすくなる。だから俯瞰は大事です。私のような章立て表アプローチは、微妙な細部は圧殺してしまいますので、作者小林にとっては耐え難い無神経だと思いますが、それが嫌ならわかりやすい文章書くべきです。

こころの琴線

昭和初期に難解なのに小林秀雄が支持を得たのは、西洋文化の荒波の中で違和感を覚えた日本人が、よく理解できないまでも直感的に、小林の文章になにか自分に近いものを感じたからです。作者と読者両者とも、仏教という根源をスルーしたまま仏教で共感しあっていた。日本ではそういう現象が普通に発生するようで、

回る回るよ時代は回る、ですから円環時間ですね。旅人が輪廻転生してまた旅をする。

インドラの網の如き因果の縦糸、横糸の中で人間は生きていると。

中島みゆきと彼女のファンも、小林と読者同様、それが仏教と思わないまま共感しあっている。なにかこの考え方が正しいと感じる。こころの琴線に触れるのです。



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