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今写真に求められていること。

AIの発達によってにわかに写真の存在意義を問われている昨今。
人によっては「簡単に綺麗な映像を写し出せるのはさみしい」だったり「AIは写真とは違う」という意見だったりと、AIに対して否定的な意見が多い印象である。
統計をとったわけではないから正確な世間の評価は分かっていないが、少なくとも私がSNSで目につく情報としてはそんなところであると感じている。

私の意見としては、一言で言えば「致し方ない」という言葉に尽きる。
恐らく物を写す手段として主流だった絵画から、写真技術が発達していった時全く同じ感覚を当時の人々が感じていたことは容易に想像できる。

ただ、ここまでスチル撮影技術が発達したにも関わらず画家がいなくならず、絵画に対して人が感動するということは絵と写真に明確な役割の違いがあると言えると考える。

では写真とAIの明確な違いとはなんだろうか。

私は「撮影者と被写体間のコミュニケーション」が存在していることにあると思う。

例えばポートレートや七五三等の人物撮影においては撮影希望者、または被写体希望者が存在し、両者の合意があることで撮影が成り立つ。
撮影者が構図や撮影に思いを乗せるのと同様に、被写体側も(程度の違いはあれど)こんなふうな写真が欲しいという願いがあり、それが写真となって映し出される。
撮影中にも文字通り言語を使ったコミュニケーションが発生するが、上記のような言語外の思考、嗜好のコミュニケーションが実は発生しているのだと思う。
そして、写真を被写体に渡す時、できあがりを被写体が見ることでもう一度写真を通じて撮影者と被写体の間でお互いの希望や意図していたことを擦り合わせる時間が生まれる。
このように、対人物の場合二回コミュニケーションが発生していると言える。

AIの時代で大事なのはこの二回目のコミュニケーションだと考えていて、そこには両者の撮影中の記憶や感情が丸々残っており、写真が過去のものになればなるほど見返した時に時間の経過と共に薄まった記憶と鮮明に蘇る記憶のギャップが生まれ、写真に付加価値が生まれる。

つまりその写真に対して主観的な思いがのってくるほどに写真閲覧者にとって写真の必要性は強まるといえるのではないか。

人物だけでなく風景、野鳥、スポーツ等どれも同じように考えられる。
撮影された被写体を写真を通して見たときにどれだけ閲覧者の記憶や経験、感性を刺激できるかが重要になってくる。

AIとは膨大なデータベースからユーザーが言語化したことを表現するため、いわば非常に精巧なつぎはぎ映像と考えている。

パッと見た時には違いが分からなくても、映し出された被写体への理解が深ければ深いほどちょっとした違和感に気づくのではないか。

現にSNSでかなり人に近いAIで作られた画像のアカウントが出回っているが、人間である私たちは微妙な違和感を感じ取って「この画像は自分たちと同じ人間ではないのではないか」と判断している。

話を戻すと、ただ綺麗な写真を撮って喜ばれる時代は終わりを迎えつつあるので、今後カメラマンが求められることは「熱量」と「表現したいことの言語化」であると思う。

熱量は言わずもがな、なぜそれをそういうふうに撮ったか、言う機会あるなしに関わらず言語化できるかどうかは写真の説得力に違いが生まれてくるのではないか。
絵画と同じで、美術館を回るときに絵を描いた時代背景や作者の心情を説明したテキストや音声を聞くことで絵への理解度は格段に違ってくる。

正直むちゃくちゃ難しいこと書いている自覚があるし、自分ができているかどうかなんてそんな烏滸がましいこと言うつもりはないが、ちょっと写真のあり方を考えたため、備忘録がてら書いてみた。

とにもかくにも、写真が好きなんで写真が廃れないように少しでも力になりたいので、これからも精進していきます。

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