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映画「怪物」について語らせて

久しぶりの投稿なのに写真カメラ関係なくて誠に恐縮ではございますが、上映終了ギリギリに見た「怪物」という映画があまりにも自分に刺さりすぎたので、整理と感情の備忘録がてらお気持ち表明させてほしい。

※あえてレビュー記事とか全く見ずに自分の考えたことをつらつら書くので忘れている部分やうろ覚えな部分、表記にミスがあります。温かい目で見守ってね。

※ここから先はネタバレ注意です。絶対にあらすじすら知らない頭の中まっさらな状態で見た方が100%楽しめると思うので、サブスクやDVDで見る予定の方はここでブラウザバックをお願いいたします。※






…では映画を鑑賞済みの方のみ残ったと思うので、本題に入っていく。
念の為おさらいの意味も込めてあらすじをまとめておく。

ある街のビルで放火が発生。放火時、ビルに入っているガールズバーに主人公麦野湊が通う小学校の男性教諭である堀先生がいたと噂にあがる。湊は身体的外傷を負っていたり、堀から「豚の脳みそが入っている」と言われたと母親に泣きながら助けを求める。母親は小学校へ抗議するも小学校側は聞く耳を持たない。最終的にほりはメディアに取り挙げられ小学校を辞めさられる。そんななかある大嵐の日の朝に、湊が母親の元からいなくなり、ほりが湊の家の前で湊の名前を呼ぶ声を母親が聞く…。

上記あらすじを主軸に、湊の母親視点、堀視点、湊視点と多面的に物語が深掘りされていくことで最初の視点では気づけなかった事実や心理描写が描かれていく。

どこが刺さったのかと聞かれると思っていることぐわーっと書いてしまいそうなので、4つに要点絞って鑑賞後考えたことをまとめていきたい。

  • 「怪物」というタイトルから導かれやすい序盤〜中盤のミスリード

  • 物語全体に漂う不穏さからカタルシスへ繋がる伏線

  • ラストシーンの意味

  • タイトル「怪物」の意味


「怪物」というタイトルから導かれやすい序盤〜中盤のミスリード

前情報がなく、火事で始まり全体的に薄暗い展開からじんわりとしたホラー要素を感じたのはきっと私だけでないだろう。

カメラワークが時折意味深に役者の表情を写したまま静止したりと、「何かきそう」と意図的に鑑賞者に思わせる演出を感じ取れ、拳を握ってほんの少し瞼を下ろしながら見ていた。

しかし基本的に何も起こらず、やってくるのは時間が変わり次の場面。次こそは…と思いながら呼吸を止めてみるがやっぱり何も起こらない。殴るなら早く殴ってくれと願いながらすんでで何もしてこない、ある種の「フリ」がそこにはあった。
安直すぎて書こうか迷ったが、停止したカメラワーク後に誰かの自⚪︎シーンが出てくるのはないかとヒヤヒヤした愚か者は私です。

怪物というタイトル、湊が発した「豚の脳が詰まっている」、湊の急な断髪、走行中の車に乗る助手席から急にドアを開けて転がる湊。怪物とは湊、もしくは湊にまとわりつく何かのことを指しているのではと、勘ぐる要素は十二分にあったように思える。

湊の通う小学校側の対応も、一言で言えば胸糞であった。役者という立場を飛び越えて母親役である安藤サクラさんに同情の気持ちすら出てきてしまった。
堀先生役の永山瑛太さんには「何考えたら怒られながら飴食えんの」と的外れなツッコミが浮かんでしまった。

余談だが、母親が堀先生を校内で追いかけるシーンで「こんな先生が学校にるのがどうかしている」的なセリフを「こんな学校が先生に…こんな先生が学校に〜」と言っていて当人の動揺が如実に表れていてびっくりした。
人間頭に血が昇ると支離滅裂になるもんな〜。

とまあ、最初の母親視点は終始不穏で頭にはてなが浮かびっぱなしであった。
最後まで見れば様々なシーンで認識の違いや事実が分かって、湊の奇行も学校の態度も理由が分かってくるが、鑑賞者にその背景をあえて想像させないような仕掛けがカメラワークとタイトルに施されていたような気がしてならない。
そして私は見事にひっかかり終始びくつきながら鑑賞していた。のだと思う。


物語全体に漂う不穏さからカタルシスへ繋がる伏線

物語の中で、最初の視点で見聞きした演出と、別の視点で見聞きした演出で印象の異なる表現がなされていたと感じた。

例えば、湊が校長先生と吹くトロンボーンの音。

最初は(間違っていたらごめんなさい)湊が校舎のベランダから飛び降りたのではないかと母親が気を揉むシーンで流れた気がして、非常に不気味に感じた。
母親が「やめてやめてやめて」と呟きながら窓に近づくとこでのトロンボーン重低音はさすがに怖いよ。
確かほり先生が屋上から飛び降りしようとしているところでも流れていたはずで、トロンボーンが鳴り響きながら堀先生が視線を左に向けている横顔を映すシーンで終わっていた。

最初はそういう演出かと思ったが、あとあと実際に鳴っていたということに気づいたのは校長と湊の会話シーンである。

湊は星川のことを好きな自分を受け入られず苦悩するが、これまで悪役を貫いていた校長の言葉によって救われたのではないかと感じた。
「誰かしか手に入らないものは幸せじゃないの。誰でも手に入るものが幸せなの。」
しょーもないと繰り返す校長の言葉に当初の印象は残っていたが、校長の言葉とトロンボーンは湊にとって星川に会いにいく気持ちを強めたのは間違っていないと思う。

同じアイテム、時系列なのに視点によって意味合いがひっくり返ったことに気づいてとても感動した。し、個人的に複数の視点が1つの着地点に交わる物語構成が大好物なのです。伊坂幸太郎さんとかよくやるやつ。

ここで主人公の背中を押す役割になったことでより湊に感情移入させるきっかけになったと思うし、少なくとも私はどんどん怪物という映画にのめり込んでいった。


ラストシーンの意味

大嵐のなか苦悶の末星川の家に向かった湊は、星川と2人の秘密基地である錆びたバスに着く。
先ほど書いたカタルシスに通じるものもあるが、バスから外に通じる穴?があり、そこを出ると嵐は収まり空は快晴であった。
星川が言った「生まれ変わったみたいだ」というセリフを聞いて、涙が出た。

星川は父親に豚の脳が詰まっていると言われ虐待を受け、湊も父親のような男性性の強い人間になれないことに絶望していた。

これまでの話から2人の苦悩に感情移入していたこともあり、嘘みたいに晴れやかな場面と2人がじゃれあいながら駆けるシーンがとても美しく、本当に2人だけの世界に生まれ変わったんだなと錯覚した。

これは妄想なので読み飛ばしてもらいたいのだが、バスから晴れやかな原っぱへ続く道は産道の隠喩のように感じた。
そう受け取ると生まれ変わったみたいという星川のセリフもすっと受け止められる。
2人にとって思い悩む現実から、人間ではない別の何かを通って2人だけの世界にもう一度生まれ落ちる、その過程がバス→原っぱの道だったのではと考えた。

話は戻るが、自分の涙の理由はこれまでの2人の苦難が最後で解消(されたように見えるほどの美しい光景)ことにより2人の感情に寄り添っていた辛苦の感情が昇華されたと、言語化するならこんなところなのだろう。
これはカタルシス以外の何物でもない。

これをラストに持ってきて、あえて2人がその後どうなったかを描かないのは個人的に大正解すぎた。
いやそれはそれでどうなったかはものすごい気になるが、最後に盛大なカタルシスを感じた以上それ以上は蛇足であり、作品内で説明する必要な感じていない。
(本音を言えばもう少し2人を見ていたかったが、何事も満腹一歩手前が一番満足度高いのは知っている。)

同性愛というにはあまりにも初々しくて純粋な2人が最後に屈託なく走るシーンを見るためにそれまでのシーンが機能していたと言っても過言ではなくないですか?私だけですかね?


タイトル「怪物」の意味

最後に「怪物」が作内で誰を、何を指しているのか考えてみたが、何も指していないのではないかと私の中で結論づけた。

マッチョイズムに溢れた星川父の異常な考えの押し付けや、孫を轢き殺した(多分)校長や、豚の脳が入っていると思う星川、湊等怪物に連想しうる要素はあるが、そういうもの全てひっくるめてこのタイトルが存在しているのだと思った。
具体的な比喩というよりは物語全体にじっとりと流れる不気味さや怖さと、湊と星川の苦悩を生み出す何かの総称として怪物と置いているのではないでしょうか。

考察っぽくなっちゃいましたが、個人的にはホラーと思わせるミスリードにまんまとハマったんでそれだけでいい意味でタイトル詐欺にあったと思ってます。


やばい、こんな長くなるつもりじゃなかったのですが、忘れないようにと思って思ったこと書いたら作文みたいになってしまった。

仮にここまで読んでくださった方いたらもう一度涙が出そうなくらい嬉しいです。
ぜひ共感やここ違ってる、ここはこう思った等ご意見あればコメントいただけると嬉しいです。

今日小説をAmazonで注文したので、届いたら読んでみてまた考えてみたいと思います。

それではおやすみなさい。

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