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部活動の思い出

夏休みに入ると吹奏楽コンクールの地区大会が各地で開催されますね。
私もフルートとの出会いは中学校の吹奏楽部でした。
中学入学時、入る部活を何も考えてない私に、隣の席に座っていたクラスメイトが「一緒に音楽室いかない?」と誘われたのがきっかけです。
後で知ったのですが、そのクラスメイトの兄が吹奏楽部でホルンを吹いていました。お兄ちゃんに部員集めお願いされてたんかな?

楽器の種類も知らないまま見学に行き、最初に会った先輩がフルートパートでした。「見学?じゃあフルート吹いて」という感じ。
のちに合奏見学でサックスを見て「えぇ~あっちが良かった~チェッカーズみたいでかっこいい」(当時チェッカーズ全盛期)と思ったけれど時すでに遅し。ナオユキになりたい同級生ですでに枠が埋まっておりました。

中学2年に上がるころに当時通っていた学校が新設校へ分校することになり、私を含め十数名の部員がそちらへ転校?することになりました。
同級生との別れは寂しかったですが、新しい校舎で新しい楽器が渡されとてもうれしかった記憶があります。
ちょうどそのころ沖縄で国体が開催されるということで、どの学校にも「式典音楽」担当の吹奏楽部には楽器購入の予算が組まれていたのがラッキーだったかもしれません。
もう一つラッキーだったのは新設校の音楽ライブラリー(当時はレコード!CDはなかった)を音楽室のステレオを使って好き勝手聞くことができました。当時一度も生演奏を聴いたことがないオーケストラをレコードで色々聞きました。ムソルグスキー作曲「展覧会の絵」ドビュッシー作曲「交響詩 海」をなんの前情報もなくジャケットのカッコよさで取り出しては大音量でぼーっと聞いて「かっこいいなぁ」と思ってました。
小学校の時、天文クラブ(確かハレー彗星を見に行った)にいた私にとってホルストの「組曲 惑星」のジャケットは一番のお気に入りで「木星」を何度も聞いていた気がします。

新設校での吹奏楽部では先輩方は数名を残して辞めてしまい、我々新人ばかりでした。フルートパートで一人になった私には手取り足取り指導してくれる人もいなく、教則本と音楽の先生(声楽専攻)にご指導いただき、ほぼ独学で吹いておりました。
先輩がいないことをいい事に、好きな曲を勝手に好きなだけ練習できたので、合奏の曲よりフルートの名曲「アルルの女よりメヌエット」を一生懸命練習していた記憶があります。レコードもビゼーの作品集を聞いて「いつかあんな感じで吹いてみたい」と頑張っていました。

吹奏楽部としては少人数の弱小部活だったので、コンクールの結果はさほど良くなく中学最後のコンクールで初めて小編成の部で金賞取れたのがうれしかったです。生徒より顧問の先生が一番喜んでいましたけどね(笑)

その後、実家から通える県立高校に進学しそこでも吹奏楽部に入りました。
高校の部活は各中学校からちゃんと楽器が吹ける同級生や先輩が大勢いたので、自分の実力がぺーぺーだったのをまず思い知ることから始まりました。
まず5拍子ってなに??とかハーモニーの作り方とは何ぞや?と知らないことばかり。とにかく合奏が怖かったです。今でも最初の合奏で吹いたA.リード作曲「アルメニアンダンスパート1」は、オープニングを聞くだけでちむどんどんします(笑)

当時一つ上の先輩にとてもフルートが上手な先輩がいて、その先輩の指導のおかげで練習を頑張ることができました。見本となる演奏が目の前にあれば練習にもやる気が出ます。3年生に上がるころにはフルートアンサンブルでアンサンブルコンクールに参加し金賞取れるくらいには上達できました。

そのころにはフルート吹くのが楽しくてしょうがなく、部活漬けの毎日。あっという間に2年生の夏休みも終わり、そろそろ進学どうしよう?というときに吹奏楽部の同級生に音大受験の準備をしてる子がいると小耳にはさみました。
その友人に話を聞いてみて初めて学校の勉強だけでは音大は受験ができないということを知りました。「専攻の個人レッスン」「ソルフェージュ」「副科ピアノ」を受験のためレッスン始めなくてはいけません。親に頼み込んでそれらのレッスンを開始し、友人と一緒に音大目指してレッスン通いが始まりました。
当時、美術学部しかなかった沖縄県立芸術大学に音楽学部が新設されることになり、親からは県内の大学ならどこでもいい(但し国公立にかぎる、予算的に)と言われていたので沖縄県芸を受験が決定しました(笑)

こうしてみてみると「私にはフルートしかないの!」と強い意志で選んだ楽器ではないのに何十年も続けてこれたのは学生時代の先輩やお世話になった恩師たちとの出会いが大きかったです。
出会いときっかけ。それが10代の部活動から始まっていたんだなとしみじみ思います。

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