サンタ

『音符』が足りない

私はさめざめでメジャーデビューをする前に作詞家としてメジャーデビューをした。あまり知られていないこと。

作詞家になったきっかけは19歳の頃にやっていたバンドのデモテープをメンバーの知り合いの音楽業界人に聴かせたところ「作詞家」としてスカウトされた。
当時は「作詞家」なんて興味がなかったし、何故バンドではなく作詞家としてなんだろう?という不満な気持ちになったのを覚えてる。

実際、スカウトしてくれた人は作家事務所の女性社長で私の詞を気に入ってくれて声をかけてくれたのだった。

その時は自分自身、作詞家やってあげてもいいよ。という上からな感じだったと思う。
私は作詞家を舐めていたのだ。今思えばシンガーソングライターなんかより何億倍も作詞家とは大変な職業だ。舐めていたのも束の間、私はすぐにそのプライドをズタズタにされることになる。

作詞とは基本コンペ式で書くことが多い。
人気アーティストになればなるほどコンペ。
一つのアーティストに対してたくさんの作家がチャレンジする。
メロディー、オケ、テーマも決まっていて
その中で一週間とかでひどい時は1日とかの締め切りで作品を書く。
作品が落ちると返信ももらえない。どうして落ちたかなんて理由すら教えてもらえない。書いてはコンペに落ちる繰り返し。

コンペではアイドルもK-POPもシンガーも色々と書いた。

初めてのコンペ楽曲はCrystal Kayの「A Song For You」になった曲だった。
運よく私は最終選考まで残ることに。
個人的にも自信のある作品だったので、絶対に自分の作品が選ばれると自信があったのだ。
丁度、コンペの最終結果が分かる日は、姉の結婚式の日。
披露宴に出席しながらも、作家事務所からの合否がいつ来るのかをドキドキしながら待っていた。
電話がかかってきたので、披露宴の合間を見て電話を出ると
「最終選考で落ちた。」という結果だった。
初めてのコンペでそんなに上手くいくわけがないのに、私は絶対に自分が採用されると思っていたので木っ端微塵に心は砕け、落ち込んだ。

そこからあらゆるコンペに参加し出したが、最終選考にさえ残らずに
毎日のよう誰かの歌詞を書く日々が続いた。

歌詞を書くためには、歌い手の作品をリサーチしてどんな歌詞を言葉に入れることが多いんだろうとか、どんなタイトルが選ばれやすいだろうとか、良い作品作ることよりも勝つ作品を書くようになった。それは決して悪いことではないのに、コンペに勝つために歌詞を書くたびに自分の個性が削られて行き、つまらなくなっていく。

コンペで依頼された曲はもうメロディーの乗せ方も音符も決まっている。
ミュージシャンでもある自分としては、もう1音足せばこの言葉が入るのにとか
無理矢理でも言葉を乗せて歌えるんじゃないかと1音も2音も言葉を足しては怒られたこともあった。

コンペのメロディー1音1音に対して、こちらが勝手に変えてはいけない。
制限された音符の数でどれだけプロデューサーを満足する言葉の羅列を組むなのだ。
シンガーソングライターとしていつも自由に書いてる私にとっては、コンペの歌詞はストレスに変わり始めていた。
それでも音楽シーンで自分の名をあげたい気持ちが強かった。
作詞家を初めてCDデビューしたのは5年後の2004年、ソニーからデビューした牧伊織さんの「月のかけら」というシングル曲のカップリング「宿命」の歌詞だった。

「宿命」はコンペではなかった。
作家を育てたいというプロデューサーの案で、一つの曲を丁寧に自分だけが書かせてもらった。そのおかげもあり、私の作詞家デビュー曲としては満足のいく作品となった。その後はコンペで牧伊織さんの「そばに」の歌詞を書かせてもらった。
コンペに勝てた時は本当に嬉しさがこみ上げてきた。

その当時は作家名で憧れを抱いていたので「笛田彩葉」で活動していた。
宿命
https://www.joysound.com/web/search/song/504744
そばに
http://www.kasi-time.com/item-35890.html

その後は、九州電力グループBBIQのテレビCMで使われる楽曲、亜希さんの「永遠の光り」を書かせていただいた。こちらはコンペではなく、プロデューサーさんと時間をかけて何度も何度も書き直してできた作品。
CMの為に作られる歌詞の作業は本当に繊細なもので、勉強にもなったし苦労もした。
個人的な想いとしては、その当時亡くなった叔父のことを想って書いた。


家庭環境が複雑だった父親の家系はみんな異母兄弟しかいなくて、母は同じで父が違う兄(私の叔父)をうちの父はとても慕っていた。
それもあり、父方で唯一仲が良かったのが叔父だった。
優しくて真面目で、でもどこか不器用な叔父。
人生で初めて最後を看取ったのも叔父だった。
叔父が亡くなった時、初めて父が私の前で声をあげて泣いた。
父親が泣く姿なんて見たことのなかった私は衝撃を覚えた。
そんな亡くなった叔父のことをこっそりと書かせてもらった。

九州の人はこのCMが知ってる人は多いらしい。

永遠の光り
https://www.youtube.com/watch?v=T4z9A0Y1tuk
歌詞
http://j-lyric.net/artist/a052b5c/l01d56e.html


そして私は作詞家として最後に書いた作品がMAXさんの「きらきらり」
こちらもコンペではなく書かせてもらった。
そう、私はコンペでは全然勝てなくて、結局自分の作風を気に入ってもらえるプロデューサーのもとでしか作品を出せなくなっていた。
MAXさんが沖縄時代の頃を想って書いた言葉を、作品として作らせてもらった。
沖縄ということもあり作曲はBEGINの島袋さんで、心から和むような作品となった。

作家人生を10年ほど送って、たくさんの作品を書いてみたが
リリースされたのは4曲だけ。
作詞家も作曲家も本当に労力を使う職業だ。
そして私は作詞家として頑張ることを辞めてしまったのだ。

でも作詞家をしたおかげで私は色々なものを吸収した。
作家事務所の社長から言われ、読んでなかった本を読むようになり
様々な映画を見るようになり、良い曲の詞を見つけたら歌詞を印刷してスクラップブックに貼って分析をした。
今でもその癖は残り、人の歌詞を見ては分析をしてしまう癖がある。

そして何よりも、テーマに縛られることで自分が本当に書きたい言葉や音楽を見つけることができた。

最近、二十代のミュージシャンとかファンの子が、挫折するのを恐れてどんな将来に進めば良いのか悩んでる話を聞くと、どんどん挫折してほしいと思ってしまう。
失敗も挫折も絶対に財産になる。あなたの生きる糧になる。
逆に失敗も挫折もしないまま30代になって初めてそういった場面で出くわした時、立ち上がる方法が分からなかったり、プライドが邪魔をして思い通りにいかなくなる。

遠回りなんてたくさんしたら良い。
無駄ものだと思ってることから何か面白いものを吸収する力を作れば良い。
もっと傷つけ、失敗しろ、挫折しろ、経験することでそばにいる人がそうなったときに同じ気持ちで優しくなれるよ。

誰かの手を差し伸べることができるよ。


今日はそんな真面目はお話で締めるとします。

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