見出し画像

『裁判にかけられたソクラテスの反論』〜いちばん読みやすい「ソクラテスの弁明」(後編)

裁判員による一回目の投票

 アテナイの裁判は、裁判員によって2回投票が行われるしくみだ。1回目は「有罪か、無罪か」を決める投票。この投票によって有罪が確定したら、訴えた側、訴えられたそれぞれがふさわしい刑罰を求刑し、2回目の投票で刑罰が決定するというものだ。
 ここまでのソクラテスの演説のあとに1回目の投票が行われ、結果は「有罪」。だが、「有罪」の票と「無罪」の票の差はわずかだった。
 2回目の投票のために、まずはメレトスが刑罰を提案する。メレトスの求刑は「死刑」だ。次に、ソクラテスが刑罰を提案することになった。

ソクラテスによる「ソクラテスへの罰」の提案

 アテナイのみなさん、わたしはわたしに下された「有罪」の判決に、怒ったり嘆いたりはしていません。むしろ、無罪に投票してくれた方がこんなに多かったことに驚いています。あと30票ほど多ければ、わたしは無罪になっていたのです。こんなにわずかな差になるとは思ってもいませんでした。

 さて、先ほどメレトスはわたしに「死刑」を求刑しました。わたしも、わたしにふさわしい罰を提案するように求められています。さて、どうしたらいいでしょう。生涯をかけて、お金儲けにも権力にも興味を示さず、ただ誰かのためになるようにとあなたがた一人一人のところにおとずれて、「自分の利害のことばかり考えず、自分自身がよりよくなることを考えるように。国家の利害ばかり考えず、国家そのものを気にかけるように」と説いて回ったわたしに、ふさわしい報いとはなんでしょうか。思うにそれは、豪華なごちそうでもてなされることなんじゃないかと思います。オリンピックの優勝者がそうされるように。オリンピックの優勝者はみなさんを幸福であるかのように感じさせて」くれますが、わたしは実際にみなさんを幸福にさせるのですから。しかも、オリンピックの優勝者は裕福ですからご馳走などいらないでしょうが、貧乏なわたしは切実に欲しているのです。というわけで、わたしが提案するソクラテスへの刑罰は「豪華なごちそうをふるまう」ということにします。

 こんなことを言うと、「またソクラテスのヤツは強がっているな」と思われるでしょうが、そうではありません。わたしは一度も他人を不当に扱ったことはないと考えていますので、自分を不当に扱うこともしません。だから、やってもいないことに対して、何かしらの罰を提案することなんてできないのです。
 投獄や、罰金や、国外追放を申し出ればいいと、みなさんは考えますか? 先ほども言ったように、わたしは死を恐れていません。死がよいものか悪いものか、わたしは知らないからです。それなのに、確かに悪いとわかっている刑罰を提案することなどできません。
「ソクラテスよ、頼むから見知らぬ都市に追放になって、黙って平穏に生きていってくれ」と言う人もいるでしょう。でもそれはできないことなのです。みなさんを説得するのは難しいことですが、わたしはこう主張します。
「人間にとって最大の善いことは、徳について、またその他のことについて、自分自身と他の人々が議論をしながら、じっくりと吟味することなのです。そして、吟味しない人生は生きるに値しないものなのです」

 ……どうしてもちゃんとした罰を提案しろと言われましたので、しかたありません、では「罰金」を提案しましょう。わたしはそもそもお金をたいしてもっていないし、お金をなくしたところでわたしにとってはなんの害もありませんから。

裁判員による二回目の投票

 二回目の投票は、「死刑」票が「罰金」票を大きく上回り、死刑が確定する。

ソクラテスの最後の演説

 アテナイの人々よ、みなさんは他の国の人々から「賢者ソクラテスを殺した者」と非難されることになるでしょう。アテナイを非難したい人々は、わたしのことを賢者などとは思っていなくてもそう言うでしょうね。わざわざそんなリスクを冒さなくても、もう少し待っていれば、わたしは老いで死んだというのに。
 今、わたしはみなさん全員ではなく、わたしを死刑にせよと投票した人たちだけに話しています。わたしが有罪になったのは、無罪を勝ち取るための言葉が足りなかったからではありません。わたしには、みなさんに無罪にしてくれと懇願する気持ちが欠けていたのです。なぜならそれは、わたしにとっては価値がないことですから。だから、わたしはわたしの語ったことを後悔していません。友よ、忘れないでください。難しいのは、死を避けることではなく、不正を避けることです。わたしは間もなく死刑になり世を去りますが、告発した者たちも、自らの不正の罰を受けてこれからの人生を生きることになるでしょう。

 そして、わたしを有罪にした人たちよ。あなたたちにひとつ、予言を残しましょう。わたしを死刑にしたあとすぐに、わたしに課したよりもはるかに思い罰があなたたちを待ち受けているでしょう。あなたたちは、わたしを殺すことによってこれからの人生で、自分の生き方を吟味されなくて済むと思ってこうしたのでしょうが、実際は反対です。あなたたちを尋問し、非難する人たちはずっと多くなるのです。今まではわたしが抑えていたんですよ。彼らはわたしよりずっと若いので、もっと手厳しいでしょうね。そのたびに相手を殺せば済むと考えているなら、それはまったくのまちがいです。解放されるためのいちばんの方法は、他人を傷つけることではなく、自分自身がよりよい者になることなのです。

 わたしを無罪にしようと投票してくれた人たち。わたしが死刑になるまでの間、ここでわたしと存分に対話をしましょう。わたしは今、死を災難だとは思っていません。むしろ死は善いことなのです。
 死はまったく意識のない「無」であるか、あるいは魂がこの世からあの世に移住するようなもの、このどちらかとされています。もしまったく意識のない状態、つまりいっさいの夢を見ない眠りのようなものだとすると、それはまったく魅力的です。人生の中で、夢さえ見ない深い眠りについているときよりもしあわせだったことなんて、そういくつもなかったでしょう。また、もし死者たちが住む「あの世」への旅のようなものだとするなら、さらにわくわくするものです。わたしはこの世の不当な判決から逃れて、神による正しい判決を受けられますし、死んでしまった伝説の英雄たちと対話できるかもしれないのですから。それにわたしはきっと、あの世でも今と同じように、何が本当で何が間違っているか、誰に知恵があるのか、誰が知恵があるふりをしているのかを探し続けるでしょう。あの世では、そうやって質問したからといって死刑にされることはないですからね。
 というわけでみなさん、善き人には、死は悪いものではないのです。だからわたしは、わたしを有罪にした人たちにも告発者たちにも怒ってはいません。とはいえ彼らは死が善いものと考えてわたしを死刑にするわけではなく、わたしに害をなそうとして死刑にするのですから、そのことについては非難するべきでしょうけど。彼らにお願いしておきます。もしわたしの息子が大人になり、徳よりも富や名誉を気にかけ、本当はたいした人間ではないのにたいした人間のふりをするようなら、どうか、わたしがあなたたちにしたように、それを非難し戒めてください。それこそがあなたたちがわたしにできる、正しい仕返しです。

 さて、もう出かける時間です。それぞれの道を行きましょう。わたしは死ぬために、みなさんは生きるために。どちらがよりよい道なのかは、神のみぞ知るのです。

文章を読んでなにかを感じていただけたら、100円くらい「投げ銭」感覚でサポートしていただけると、すごくうれしいです。