競争するのが苦手

幼い頃から、「誰かと競うこと」がとても苦手だ。
勝ち負けが決まるようなゲームや、スポーツにはまったく惹かれない。まして、大勢の前で否応なしに競わされる運動会のかけっことか、とんでもない。

原因のようなものには、心当たりがある。僕は双子で、同じ年の弟がいるからだ。
双子というのは田舎(生まれ育ったところは横浜市だけど、少なくとも中学校までは周囲の町と交流の少ない、閉ざされた田舎だった)の小中学生にとっては物珍しい対象で、こどもたちは(ときに大人たちも)悪気なく二人を比べたがった。「どっちが〇〇得意なの?」という質問を直接投げかけられることも日常茶飯事だった。
生まれつきずっと比べ続けられれば、そりゃあうんざりもする。そして僕は「運動神経が鈍い方」「社交的でない方(今の言葉で言えば、陽キャではない方)」だった。
うまれもっての得意不得意は、そうかんたんに覆せるものじゃない。一念発起してめちゃくちゃ練習したりすれば別かもしれないが、そんな気力もなく、僕は「勝てないことはやらない」ことを選んだ。

そんなわけで、僕には「負けると悔しいから勝てるように努力する」という心のあり方には、まったく縁がない。
むしろ競争させられると、途端にやる気をなくして「ああいいよ、僕の負けで」と思ってしまう。
とはいえ僕にも得意なものはあって、例えば学校の勉強はむしろクラスで上位だったのだけど、それも「みんなに勝ちたいから努力する」のではなくて、シンプルに「知らないことを知るのが楽しい」「新しいことがわかるようになる勉強は好き」という理由からだった。
それに、今はどうか知らないが、当時の小中学生にとっては「クラスでいちばん勉強ができる」人は必ずしも人気者ではなくて(大人からは褒められるけど)、負けた人に逆恨みされるのが煩わしいくらいだった。

僕がそういうふうに思うようになった経緯は以上なのだけど、この「競争や勝ち負けに興味がない」という価値観は、今でも僕のいろんな考えの元になっている。僕はこういう考えを気に入っているし、むしろこの考えは僕自身の思考の基礎として役に立っているとも思う。
考えてみれば、勝ち負け・競争なんて単なる「相対評価」にすぎない。そして僕は常々、「相対評価って無意味なのでは?」と発言している。だって、たとえ対戦相手に勝ったとしてもその理由は「僕が優れていたから」なのか「対戦相手が失敗したから」なのかわからないんだから(相対評価でいちばん有効な戦略は、自分を高めることじゃなくて、周囲の足を引っ張って平均を下げることだ)。

そう思ってみると、世の中には「競争させよう」という意図がそこかしこにあふれている。大人になってもそれは変わることがない。
会社のポスト争いとか、「え? わたしの年収低すぎない?」なんかに代表される劣等感を煽る広告とか、「婚活市場」「スペック」などという言葉とか。
立場や肩書から自由なはずの匿名SNSでだって、何かと「競って」マウントをとろうとする人たちは跡を絶たない。

競うことがポジティブに働いて、意欲や努力に結びつく人も、おそらくはいるのだろう。
それに、競ったり比べたくなる気持ちは、僕だってわかる。なにか基準がないと不安なのだ。こんなことを書いておきながら、僕だって「誰かと比べて安心したい」という欲求と無縁とは言えない。むしろ、こんなふうに「僕は競いたくない!」と主張するのは、競争への欲求(人と比べて勝ちたいという気持ち)の裏返しなのかもしれない。

でもやっぱり、僕は競争には惹かれないし、競争を強制されると途端に冷めてしまう。
僕は「競争するのが苦手」だ。

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文月 煉
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