窓から見える駅

 2階の窓から見える、少し寂れた駅のホーム。
 それがオレの世界のすべてだった。
 オレは自分の部屋から一歩も出ることはなかったし、オレの同居人は無口なヤツで、たまにオレの方を見て何か言いたげにまばたきして見せたり、小さくため息をつく他にはオレと交流したりはしなかったから、オレはいつも窓から駅のホームを眺めて過ごした。
 窓から見える駅は、ビルの立ち並ぶ都会からはいくらか離れた、いわゆる東京のベッドタウンと言われるような住宅地の中にある比較的新しい駅で、飾り気のないコンクリートの駅舎と、やけに明るい駅の案内灯が少し不釣合いな、どこにでもある普通の駅だった。
 駅には、都心やオフィス街にあるそれのような賑わいはなく、比較的利用客の多い朝の時間帯にも、電車を待っている客の数は30に満たない程度だった。オレは毎日駅のホームを見ているものだから、いつも駅を利用する馴染みの客の顔はほとんど覚えてしまっていた。
 いつもしわくちゃのシャツを着て、寝癖のついたぼさぼさ頭であくびをしながら電車を待つメガネのサラリーマン。部活動の練習があるのだろう、月曜日と水曜日にはバスケットボールを入れるバッグを肩に掛けてジャージ姿でやってくる男子中学生。電車を待っている間に、手鏡を覗き込んで化粧のチェックに余念がないOL風の女。そして、紺のセーラー服に膝下までの丈のスカートで、いまどき珍しい白の三つ折りのソックスをはいた、おさげ髪の女子高生。
 彼らを眺めているとき、オレはいつも、自分が彼らとは違うのだということを意識させられる。彼らはこれから、オレの手の届かないところへ行くのだ。彼らが、オレの想像できる範囲にいるのは、彼らが駅に現れてから、電車が到着するまでのわずかな時間だけ。電車が到着し、彼らがその中に足を踏み入れ、そしてゆっくりと電車がホームを出ていくと、もはやオレには彼らを認識することができなくなる。オレはただ、彼らを眺めているだけなのだ。彼らはオレのことを知らないし、オレの存在が、彼らの人生に刻まれることもない。

 ある春のうららかな日。
 オレはいつもと変わらず、部屋の窓から駅のホームを眺めていた。
 午前8時。ホームにいるのはおよそ20人ほど。
 窓から見て、一番こちら側にいるのは例のおさげ髪の女子高生だった。いつもと同じように紺のセーラー服をきっちりと着込み、白い三つ折りのソックスをはいて、電車を待っている。その場所は彼女の登校時の定位置らしく、オレは窓からいつも、彼女の様子をよく見ることができた。
 もちろん、オレと彼女の間にはなんの繋がりもない。彼女はオレのことを知らず、オレの存在は彼女の人生に刻まれることはない。オレだって、彼女の名前すら分からないし、これからも知ることはないだろう。けれど、毎日窓から彼女を眺めていると、感情移入、というのだろうか、オレの中に何か不思議な感情が生まれてくるのを感じる。それは、錯覚というべきものなのかもしれない。しかし、窓から見える駅のホームが世界の全てであるオレにとっては、その感情は極めて大きな存在感を持って押し寄せる。
 いつの間にかオレは、窓からホームを眺めるたびに彼女の姿を探すようになっていた。探すとはいっても、平日の午前8時にはいつも必ず、窓から一番よく見える位置で電車を待つ彼女は、改めて探す必要もなくオレの視界に入ってくる。
 彼女はいつも変わらず、わずかにはにかんだような表情で少し上の方を見上げている。彼女を見つけてから間もなかったオレは、彼女がいつも何を見ているのか、ひどく気になっていた。しかしその疑問は、ある日突然、あっさりと解けた。電車を待つ彼女のもとに、一羽の鳩が舞い降りてきたのだ。それを見つけた彼女はさもいとおしそうに鳩を見つめ、ホームにしゃがみこんでその頭をやさしくなでた。なでられた鳩は逃げるでもなく、気持ちよさそうに目を細めて、電車が到着して彼女が駅を離れるまでされるがままにしていた。
 そう、彼女はいつも、駅のホームの上を飛び回る鳩の姿を眺めていたのだった。オレは、彼女の中に動物を愛でる優しい心を見て、自分の心の奥にある不思議な感情がまた疼きだすのを感じたのだった。
 今日も、彼女はいつものように少し上の方を見上げていた。けれどその表情は、いつものわずかにはにかんだような、オレの心を少し幸せにさせるようなものとは異なっていた。
 不意に、オレの視界に影が差した。視線を上げてみると、オレの同居人がオレの頭越しに窓の外を覗き込むようにして立っていた。
 無口な同居人、マサキはオレの視線に気づくと決まりが悪そうに目をそらし、口の中で何やらごにょごにょとつぶやいた。オレの耳はそれが、「いや、別にあの女の子が気になったとかいう訳ではないよ。」という言葉であったのを聞き逃さなかった。
 マサキはオレに弁解したあと、再びオレの頭越しに窓の外を見つめた。マサキの身体で影ができて、オレは薄暗いままに外を見なければならなくなり、とても不便だったのだが、マサキはそんなことお構いなしに食い入るように窓の外を見つめ続けていた。仕方なく、オレもマサキに光を遮られながら窓の外に視線を戻した。
 駅のホームで少し上の方を見上げているおさげ髪の彼女の表情は、いつもの明るい、はにかんだ笑顔ではなかった。顔は上を向いているのに、その視線は下を向き、いつも小さく笑った形に開かれている唇も、今日は横一文字に引き結ばれていた。そしてその大きな、澄んだ瞳の端が太陽の光を反射してきらりと光る。……泣いているのだろうか。この距離でははっきりとは分からないが、目の端に浮かんでいるのは涙の雫のように見える。マサキも同じことを思ったようだ。視線を窓の外に固定したまま、「泣いているのかなぁ」と、ため息のようなかすかな声を漏らした。
 さらにオレとマサキが、窓から見える駅のホームにいるおさげ髪の少女の観察を続けていると、彼女は突然、両手で顔を覆い始めた。今度は間違いない、彼女は泣いているのだ。両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いている。時折、しゃくりあげるように肩を上げ、ここからでは声は聞こえないが、おそらく小さな嗚咽も漏らしているのだろう。
 そんな彼女の様子を見て、オレの心はひどく波立った。彼女はどうして泣いているのだろう。何か悲しいことがあったのだろうか。どこか痛いのだろうか。彼女の笑顔を取り戻したい。オレにできることはないだろうか。オレにできることは……。
 そこまで考えて、オレは自分の考えに驚き、そして思わず唇に皮肉な笑みを浮かべるのだった。オレにできること? そんなもの、あるわけがない。オレはただ、彼女を眺めているだけだ。彼女とオレのつながりなど何もないのだ。オレが彼女にしてあげられることなど、あるわけがない。オレには、この部屋から出ることさえも適わないのだから……。
 その時、マサキのため息のような呟きがオレの耳に飛び込んできた。
「なんとかしてあげなきゃ」
 オレはその言葉に驚き、マサキの顔を見上げた。マサキは相変わらず、窓の外を食い入るように見つめている。
 マサキは、無口で内気な少年だ。オレ以外の他人と話しているのを見たことがない。オレと話すときでも、いつもこっちをまっすぐに見ることはなく、あらぬ方を見つめて独り言のように話す。話すといっても、マサキの口から出るのはいつも単なる感想だ。「今日も雨だね」とか「世間ではもう春のようだ」とか、窓の外を見ていつものため息のような声で小さく感想を漏らす。それだけだ。だから何だというわけでもない。ぽつりと呟くだけで、マサキはまた無口な同居人に戻り、オレも彼の言葉の意味を問い返したりはしない。彼の言葉が具体的な行動と結びつくことは決してなかった。
 けれど、マサキの今の言葉は、感想ではなかった。行動の宣言。決意と言ってもいい。
「なんとかしてあげなきゃ」
 マサキは、自分が口にした言葉を確認するように、もう一度繰り返した。それはいつもと変わらない、かすかな、ため息のような声だったけれど。
 オレはもう一度、マサキの顔を見上げた。無口なオレの同居人は、震えていた。おびえているんじゃない。オレは確信していた。これは、胎動だ。その殻を破り外の世界に飛び出す寸前の卵が、生の喜びにうち震える。それと同じなのだ。
 不意に、マサキが動いた。壁のハンガーに掛けられていた白いコートを無造作に掴む。袖を通されることなくいつまでも出番を待っていた春用の薄手のコートだ。誰にも触れられることなく、壁際でただ重力にまかされるままになっていたそれは、今、マサキの手の中で初めてできたそのしわさえもが、喜んでいるようにみえた。
「行ってくる」
 マサキの旅立ちの言葉は、短かった。気を抜くと聞き漏らしてしまいそうな、かすかな、ため息のような声。しかし、その声の響きにわずかに弾むような音色が混じっているのを、オレの耳は聞き逃さなかった。
 同じようにほんのわずかに弾んだ足音を立てて、マサキは部屋のドアに近づく。
 かちゃり。
 決して内側から開けられることのなかったドアは、軽やかな音を立てて、あっさりと開いた。
 もはやマサキの歩みを止めるものは何もなく、彼は弓から放たれた矢のように、この部屋を飛び出していった。
 一人部屋に残されたオレは、マサキが開け放したままにしていったドアの向こうを、しばらく見つめていた。ドアの先はすぐ廊下になっていて、ただ茶色い壁を見ることができるだけだ。けれどその先は、無限に広がる外の世界へと続いている。マサキはついに、そこから外へと、飛び出していった。
 それは、オレには決して叶わないこと。オレは、この部屋から出ることができないのだ。

 オレはまた、窓の外に視線を移した。そこにはいまだ両手で顔を覆って泣き続けるおさげ髪の少女と、息を切らしながら改札を通ってホームに向かう、マサキの姿があった。
 これから、何が起こるのだろう。マサキはあの少女に、何をしてあげようというのだろう。
 オレには、ただ見ていることしかできない。マサキに飼われている金魚にすぎないオレには、人間の世界を見守ることしかできない。
 だからオレは、今日も透き通ったガラスの鉢を通して、部屋の窓から見える少し寂れた駅のホームを眺め続けるのだ。

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