「筆先三寸」日記再録 2005年2月


2005年2月2日(水)

北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店/800円)
 ベストセラーのようだし、趣味の悪い装丁のせいで手を出す気にもなれず、本屋へ行くたびに平台に積まれているそばを見て見ぬふりをして横を通り過ぎていた。
 どうせ、「近頃の日本語の乱れは……」調で、「こちらおつりになります」とか、「私って、なんとかじゃないですか」とかについて、眉をしかめたじじいの文句を並べてあるのだろうと思っていた。
 それをたまたまにせよ、手に取っってしまったのは、魔が差したとしか思えない。
 開いてみると、予想とはちょっと印象が違った。ぶ厚い本文用紙に、小分けになった本文、欄外コラムにへんてこなイラストマンガ、この軽薄な造本はまさに『大人養成講座』(石原純一郎/ひさうちみちお)のノリである。各項目ごとに「ポイント」として、2、3行のまとめがあるところまで、驚くほどよく似ている。「じじいの苦虫本」にある威圧的な様子はない。表紙の装丁そのままに、本どころか日本語にも縁のなさそうな人間にまで読ませる算段と見た。
 あざといというか、狙いすぎというか。私は軽く舌打ちをして、数ページ読んでみた。
 ページに目を落としたままレジまで歩いた。速攻で買った。駅まで歩きながら読んだ。帰りの電車の中で読み終わった。
 めちゃめちゃ面白かった。ベストセラーもバカにしたものではない。安いし。
 編者は、『明鏡国語辞典』の編者でもあるらしい。そりゃあ日本語には詳しいだろう。
 しかも内容も、意外と高度である(失礼)。私はこの本のおかげで、以前書いた「ぢとづの使い分け」に初めて納得が行った。仮名遣いにおける「本則」と「許容」なんて言葉もはじめて知った(物知らずで申しわけない)。
 高度といえば、欄外コラムのそのまた脚注でさえこんな書きようである。

 歴史的仮名遣い……平安時代中期以前の文献を基準として定められた仮名遣い。

 平安時代中期以前の、ときちんと書くところが内容の厚みを物語っている。そんなの知らなかったぞ(物知らずで申しわけないパート2)。
 また、「『言う』を『ゆう』と書いてもいいのでしょうか」のところでも(そんなん普通まちがいやろと思ってたけど)、こんなふうに書く。

 そもそも「現代仮名遣い」というものは、〈現代語の音韻に従って書き表すもの〉なのですが、その中にも例外があって、問題の「言う」も、「現代仮名遣い」第2の4項に、〈動詞の「いう(言う)」は、「いう」と書く。〉と規定されています。《中略》未然形「言わ(ない)」「言お(う)」は、「い」と「ゆ」の間でゆれているように見えます。「言っ(た)」も、標準的には「い」だと思われますが、近年は「ゆ」もよく耳にします。《中略》現代語の音韻に忠実でなく、表記の慣用を尊重して、例外規則に従う「いう」は、現代仮名遣いの鬼っ子なのかもしれません。

 あるいは、「ふいんき」についての〈ポイント〉でさえこんなである。

 〈ポイント〉「ふいんき」は現時点では明らかに誤用ですが、今後広く定着する可能性が全くないとは言いきれません。

 内容の高度さよりも、著者のこういう公平な態度、言葉の乱れを必然的な変化の過程とするような態度こそ好ましいと思う。
 でも、「日本語に縁がない」どころか、実際は簡単な文法の知識ぐらいないとさっぱり面白くないかもしれない。


2005年2月3日(木)

 今日、ともちゃんは、「雪国体験」とやらがあるというので、いつにもまして朝早くから保育園へいきました。これはほんとにもう、ずっと前から本人も、「いついける?」、「まだ?」、「あとなんこ寝たらいい?」と楽しみにしていましたので、ま新しいスノーブーツも自慢げに、意気揚々と小鼻を広げて出かけていきました。
 次いで、サイはいつもどおり仕事へ、なおちゃんもランドセルを背負って学校へと行きました。
 そして私は、先日の土曜日の仕事の代休ということで、休みをいただきました。といっても、上記のばたばたもありましたので六時過ぎには起床せざるを得ませんでしたが。

 八時にはみんなを送り出して、家に一人残りました。これで、なおちゃんの帰ってくる夕方まで、まったくの自由時間です。とくに今回は、サイからもなんら家事指令が出てないので、完全フリータイムです。
 私は昨夜、今日のことを思っていろいろ予定を考えました。「えと、読みかけの本は二冊ほど読んでしもて、爪切って、部屋片付けて、サイトの過去ログの整理も少しして、スーツのブラシがけとアイロンと、たまってる靴みがきはやってしもて、家事はまあ風呂掃除ぐらいでええか」とかなんとか。充実した一日の姿を思い描きつつ床につきました。
 しかし、今朝一人になってみて考えを改め、強く決心しました。
「よーし、今日は一日なにもしないでいよう」と。
 いろいろ予定を組んでも、どうせ私のことです、だらだらと無為に時間を過ごして半分こなせればいい方でしょう。そして、きっと「あーあ、せっかくの休みに、おれってやつは」と、結局へこむこと請け合いです。そんなことなら、「ぜってーなにもしねー」ときめて、初手からだらだらする方が、よっぽど精神衛生上もいいにちがいありません。

 だから、午前中はテレビをつけたまま、こたつに入ってワイドショーを見ながらすごしました。今テレビ欄を見返しても、どれを見ていたか思い出せないぐらいですから、よほどぼんやりしていたのでしょう。途中で飲んだインスタントのカップスープがやけにうまかったことのほうが印象に残っています。
 お昼は近所のコンビニで弁当を買ってきて、去年の「M-1グランプリ」の録画を見ながら食べました。
 昼からもこたつでぼーっとしていたのですが、新聞読んでるうちに寝てしまいました。なんと、なおちゃんが帰ってくるまでぐっすり寝てしまいました。なおちゃんが帰ってきても、首だけ起こして、「おかえりー。うがいしたら先に宿題やでー」とだけ言って、また寝てしまいました。
 目を覚ますと、外はすでに薄暗く、なおちゃんは宿題を終えてゲームボーイをしていました。

 ええもう、幸せでしたよ。なにもしませんでしたけどね。こんなに充実した休日は何年ぶりかっていうぐらいで。
 私の天職は、たぶん「ニート」だと思います。いや、思いますじゃなくて、絶対。だれか、「在宅勤務型窓際族」で雇ってくれないでしょうか。

 そういや、「ニート」って、女子の場合は「家事手伝い」でいいのか。「花嫁修業中」はどうか。男子の場合は、なんだ、あれか、「高等遊民」か。なんにせよ、本人が好きでやってるんだったら(なおかつそれで食えてて満足してるなら)、いいんじゃないの。福祉が年金が国力がって、あんまりがたがた言ってると、外国人労働者の受け入れが進むのはいいとしても、しまいに徴兵制しかれちゃうよ。

 そんなこんなで、やがてサイもともちゃんも帰ってきました。ともちゃんは、期待通りよほど楽しかったらしく、だれそれと遊んだとか、かまくらつくったとか、雪の上でごろごろしたとか、いろいろ話してくれました。
 その前に、ともちゃんは帰ってくるなり、私のいるのが意外だったのか、出迎えた私を見上げて、目を丸くして聞いてきました。
「おとうさん、なんでいてんのん」
「ん、今日はお休みやってん」
「ええなー」
「ともちゃんも、雪国体験よかったやん」
 そのとき、ともちゃんが突然、私のお腹に額をぶつけるように、太もものあたりにしがみついてきました。
「あいたかったー」
 お前は生き別れの息子か。朝からおったっちゅうねん。
 ともちゃんは、顔を上げて言いました。
「おとうさん、せおいなげして」
 なぜこのタイミングで背負い投げ。
 ええ、してやりましたけどね、足元の座布団に背中から。
「いっぽんやー!」
 しかも、投げられて喜んでるし。


2005年2月6日(日)

 私の携帯電話のメールアドレスは、20桁を超えているので、アドレスを生成するタイプのスパムメールは受け取ったことがない。
 ただ、このアドレスを考えるときに気をつけたことがふたつある。
・覚えやすい(自分も相手も)
・入力しやすい(英字と数字を交互に使うのは迷惑である。文字切り替えの無駄なタッチは腹立つほど面倒くさい)
 の2点である。
 それでどうしたのかというと、基本的には「本名+乱数列」とした。
 たとえば、山田太郎さんならこうすればよい。
「yamada_taro141421356@hogehoge.ne.jp」
 これで20桁。ヘッダを見れば差出人はわかってもらえるし、スパムはまず届かない。しかも、名前の後は「数字のみ」なので、非常に入力しやすいはずである。そして、この部分は2平方根なので、覚えやすいし覚えてもらいやすい。

 それをふまえて、今はやりのスキミング対策のためのカード番号について考えてみた。
 これは数回ミスすればロックされるので、さほどクリティカルな対策を要するわけではないが(電話番号でも逆順にするだけでかなり安全)、やはり次の点は考慮するべきだろう。
・ 個人情報から類推されない(誕生日や電話番号そのままは避ける)
・ 持ち物から類推されない(免許証や保険証や車のナンバー)
・ なるべくカードごとに番号がちがう
・ 覚えやすい(忘れない)
 もっとも簡単なのは、番号ずらしであろう。「1234」という電話番号なら「3456」、「1104」という誕生日なら「3326」と、「+2」だけ覚えておけばいい。それでもなんとなく、ちょっと見破られそうな不安はある。
 つぎに簡単で安全なのは他人の電話番号である。とくに、親兄弟の自宅は忘れにくくていいと思う。それに、カードとよく知っている人の顔を結びつけて記憶できるので、5種類ぐらいならさほど苦労なく覚えておける。もし苦労するようなら、対象者の下の名前を(「フミコ」「タカヒロ」など)、マジックでメモっておいても、暗証番号を見破られる気遣いはない。「+2」ならもっと安全である。
 それから、年号や語呂合わせというのもある。「フランス革命(1789)」とか、「黒船来航(1853)」とか、「人殺し(1564)」とか、「プロ野球(2689)」とか、「よい風呂(4126)」とかである。これも、「バ(スティーユ)」、「ペ(リー)」、「ジャ(ック・ザ・リッパー)」、「巨(人)」、「鳩」と一文字ずつでも書いておけば、決して間違えない。
 にもかかわらず、どうしても乱数がいいというのであれば、5枚連続として「3141」「5926」「5358」「9793」「2384」とするという手もある。円周率である。これはきわめて安全だが、覚えにくいのが難かもしれない。ただし、カードに1~5の番号を振っておけば、円周率さえ覚えていれば間違える心配はない。「円周率は、およそ33」と習った人には気の毒だが、このさい「産医師、異国に向こう。産後厄なく、産婦御社に。虫さんざん闇に鳴く」(3.141592653589793238462643383279)ぐらいは覚えておいても損はない。

 ちなみに、私のカード番号は、いくつかある自転車のチェーンキーのダイヤルとそれぞれ同じにしていたのだが、鍵の方を軒並み壊したりなくしたりしたので、今やまったく意味のない数字列になってしまった。いまさら変えるとよけいに混乱するのでそのままにしているが、覚えておくだけで必死である。いいアイデアだと思ったのに、今となってはさっぱりわやである。
 最初から上みたいなことを考えて決めればよかった。


2005年2月5日(月)

 うちの冷蔵庫には、小さなホワイトボードがはりつけてある。
 もっぱらサイの心覚え用で、台所で切らしたものや、買っておくべきものなど、思いついた買い物のメモをしてある。
 たとえば、「土しょうが、シャンプー、でんち(単1)、ドレッシング、カビキラー」という感じである。
 今日、風呂上りにふと冷蔵庫を見ると、こんな風であった。
「リンス、メイクおとし、ブロッコリー、パン粉、ゲーム」
 ゲームて! そこだけちょっと字の様子が違う。
「なおちゃーん、ちょっとこっちおいでー。これなんや、これ。勝手に書いたやろ」
 なおちゃんは、にやっと笑って、
「そこへ書いといたら、まちごうて買うてくれるかなと思て」
 買うかー!


2005年2月8日(火)

 そんなこんなで、テレビアニメの方でもデービーバックファイトは終了したわけだが。
 ま、世間では、ワンピ最強キャラとして、エネルだ、青キジだ、ミホークだ、CP9だ、白ひげだ、エースだ、シャンクスだ、とかまびすしいのだが、オイラはやっぱりオヤビン(フォクシー)最強ということでいきたい。
 エネル相手でも、「ノロノロビィーーーム!」に、角材で滅多打ちして、木の杭でグッサリ。
 クロコダイルが相手でも、「ノロノロビィーーーム!」に、バケツで水バシャー、刀ですっぱり。
 その他誰であっても、「ノロノロビィーーーム!」から、好き放題できるので楽勝。
 ゴム人間に負けたのは、ただの殴り合いだったからに過ぎない。

 げに恐ろしきは、テンポ・アドバンテージである。
 七武海も海軍本部も、オヤビンがスットコドッコイであることを神に感謝した方がいいと思う。


2005年2月9日(水)

 日本対北朝鮮のサッカーは、――マスコミの煽りが多分にあったにしても――結構盛り上がって面白く観戦できた。
 私は、サッカーはからっきしの門外漢なので、試合の中身はなんとも言いようがないが、とてもいいなと思ったのは、日朝のサポーターの表情である(今夜の“報道ステーション”がそんなのいっぱい映してた)。
 みんなとても素直な表情で、必死に応援してたし、試合展開ではいちいち一喜一憂していた。とくに子どもたちの表情は、思わず抱き寄せて頭をがしがしなでてやりたくなった。
 そこには侵略戦争の影もなければ、拉致問題の影響も見られない(どこかでグジグジ言ってた奴はいるかもしれないけれど)。みんな真正面から、「うちの国がんばれー」の世界である。
 なんかいいよな、こういうイノセントなナショナリズム。もちろんそれは、保守反動勢力や右翼的国粋主義に一瞬にして絡めとられる危険をはらんでいるにしても、「ウヨ? うぜーよ」と言いそうにも見えるのに、日の丸を振る日本の若者の姿は、無邪気な分よけいに頼もしく見える。

 いわゆるサヨクは、こういった日本人のイノセントなナショナリズムさえ罪悪視してきたところが根本的に間違っている、ていうか、だから反日分子とか言われるのだ。
 そろそろいいかげん、サヨクのみなさんも一般大衆の愛国心を取り込む努力をした方がいいと思う。「日本を愛してるから天皇制反対」、「この国が好きだからプロレタリアート独裁をめざす」、「日本の誇りを取り戻すために侵略戦争の謝罪と補償を」というのも、本当にありうると思うんだけれど。「愛国心の故に反体制」なんて、極右じゃ普通だし。

 愛国者であるということは、日の丸の掲揚に血道を上げることではない。
 愛国者であるということは、自衛隊の海外派遣を推進することではない。
 愛国者であるということは、天皇制を信奉することではない。
 愛国者であるということは、日本軍の侵略行為を否定することではない。
 愛国者であるということは、「古きよき伝統」にしがみつくことではない。
 愛国者であるということは、日本が世界一であると喧伝することではない。
 愛国者であるということは、他国民を侮蔑することではない。
 愛国者であるということは、右翼であるということではない。
 愛国者であるということは、君が代を大きな声で歌うことではない。

 愛国者であるということは、この国に住む人々を愛することである。
 愛国者であるということは、この国に住む人々の幸せを願うことである。
 愛国者であるということは、世界中のだれにとってもすばらしい国であってほしいと祈ることである
 愛国者であるということは、そこにひとさじでも自分の汗を注ごうとすることである。

 私は愛国者でありたいと思う。


2005年2月10日(土)

11日(金)。
 朝から車でひらパーへ。何年ぶりだかで、家族でアイススケート。
 私も昔はちゃんと滑れたはずなんだけれど、最初は氷の上に立つのでせいいっぱい。おかげで、最初の10分ばかりは、家族4人で手すりにしがみついて途方にくれることになった。
 それでも自転車乗り同様、身体記憶がものをいうのか、30分もしないうちにほぼ苦労なくリンクを回れるようになった。といっても、スキーならボーゲンレベルだけど。
 子どもというのはたいしたもので、はじめは立っていられなかったはずのなおちゃんでさえ、一時間もするとお父さんを追いこすぐらいの勢いでぐんぐん滑り出した。何度ころんでも平気な前向きさと、やっぱり身体の柔軟さが違うんだろう。ただ見てると、後ろ足を(斜め後ろに押し出さずに)まっすぐ蹴る癖がついたみたいで、毎分1回ぐらいのペースでつま先を氷に引っ掛けて、腹ばいで突っ込んでたけど。周囲の客に、「おお、ヘッドスライディングや」と受けてたのでよしとしよう。
 ともちゃんは、まともに立つのさえなかなかで、小一時間は半泣きで手すりをみがいていたが、結局これもヨチヨチ歩き出す程度には進歩した。転んでも転んでも手助けを拒絶して、生まれたての仔馬のように尻の方から立ち上がる姿は、さすが6歳児というべきか。それだけこければ、たいがい嫌にもなるだろうと思うのだが、本人は楽しいらしい。
 2時間ほども遊んだだろうか、最後は例によって思いっきり転んだ(骨盤あたりを打ったらしい)ともちゃんが大泣きして終了となった。
 昼食はひらパーでオムライス。ちょっと買い物に寄り道して帰宅。

12日(土)。
 この日はサイが朝から夕方までお出かけだったので、家では三人きり。
 午前中はこの上なくゴロゴロした。仕方ないので、こないだ録画した「フランケンシュタイン対地底怪獣」を見てたら、二人ともゲームボーイの手を止めて見入っていた。ラストで唐突に大ダコの出てくる海外版だったので気分よく解説したら、最後にその旨のテロップが出てぜんぜん自慢にならなかった。さあ、次は「サンダ対ガイラ」をどっかで放送しないかな。
 お昼は久しぶりにインスタントラーメンにした。どうせひまなので、手の込んだ食事を作れといわれれば作らなくもないが、小さいころはたまにインスタントラーメンを食べさせておかないといけない。そんなもの!って目くじら立てて、絶対食わせない親とかいるけど、あれは大まちがいのコンコンチキだ。
 子どものころって、高級な中華料理より、チキンラーメンや出前一丁の方がうまかったしうれしかった。和菓子屋のわらび餅より、駄菓子屋のベロベロの方が楽しかった。角のババアのたこ焼きは最高のファストフードだったし、縁日の焼きそばはオカンの焼きそばより絶対にうまかった。
 そんな思い出を作ってやりたいじゃないか。
 だから、我が家ではジャンクフード大歓迎である。まあ、二月に一回はインスタントラーメン、三月に1回はハンバーガーショップ、半年に1回は「ねるねるねるね」系謎菓子、年に1回は縁日系屋台食、ぐらいのペースである。子ども時代の私に比べればはるかに生ぬるいが、田舎なものでどうもそういう環境ではないのである。なんか残念なのである。
 午後は、あんまりすることがないので、近所の公園へともちゃんの自転車の練習に出かけた。なおちゃんはもうすいすいとどこへでも行くのだが、ともちゃんは補助輪こそはずしたものの、練習嫌いのおかげで、まだまだ一般道を走らせるには危なっかしいのである。
 ところが意外や意外、ともちゃんは知らない間にずいぶんと上手になっていた。踏み出しこそふらふらするものの、走り出せば案外まっすぐに走るし、カーブのたびに転ぶようなこともなくなっている。最近練習したという話も聞かないので、不思議は不思議だが、どうやら成長しちゃったらしい。
 そのあと、なんだかんだで、三人で鬼ごっこをしたりした。全力疾走でサイドステップなぞ、いったい何十年ぶりか(なおちゃんはもうそこまでしないと振り切れないし追い詰められない)。すぐに息が上がって、中年の悲哀を実感するはめになった。ともちゃんは半分ごまめなので、適当に追い回してやったが、これもずいぶんすばしこくなった。

13日(日)。
 午前中は水泳教室。午後はサイは買い物、なおちゃんは公開テストとやらということで、ともちゃんとだまってお笑い番組を見て過ごす。
 夕食は手巻き寿司大会。各自適当に海苔に飯と具を巻いて、ばくばく食べる。全員お腹いっぱい。

 てなわけで、せっかくの三連休をまったくもって無為に過ごしてしまいました。家族と過ごすといってもなにをするでも、子どもになにを教えるでもなく、一緒にゴロゴロしたおしておりました。でもまあ、充実していたと言えば言えるのではないでしょうか。言えないでしょうか。
それでもせめてなにか、という思いはありますので、本を1冊読みました。田中啓文『蹴りたい田中』(ハヤカワ文庫/700円)です。
 ある意味面白かったので、読まなければよかったとは申しませんが、せっかくの休日になんかすっごい失敗をしたような気がするのはなぜ。


2005年2月14日(月)

 私はサングラスが好きで、ごくたまに買う。
 三十過ぎてほとんど気にすることもなくなったとはいえ、やはり斜視であることに対するコンプレックスが意識下のどこかに巣食っているのであろう。

 はじめて自分の金で買ったのは高校1年生の夏休みで、安っぽいメッキのフレームに茶色のグラデーションのかかったレンズのやつだった。同級生4人で淡路島へ海水浴へ行くことになったので、雑貨屋の店先によくある千円ぐらいのを買ってみた。
 それがなんだか気に入って、そのあとも千円クラスのをいくつか買った。だいたいは戎橋の南詰めにあるマリアテレサが多かったように思う。そのビルももう残ってない。
 高校三年生になって、はじめてレイバンを買った。眉間の所に汗止めのある、なすび型をした濃緑のレンズの、一番オーソドックスなものを選んだ。大薮春彦か松田優作あたりの影響かもしれない。一万円以上の出費は高校生には痛かったが、だいぶ迷って清水の舞台から飛び降りるつもりというのがどういうつもりなのかはわからないけれど、思い切って買った。
 そのあとは二年に一度くらいのペースでブランド物を買ったりしている。もちろん普段は、そんなものをかけて歩くことはないので、ただ見かけて気に入ったら買うという程度である。レイバンやゴルチェやニコルなんか。

 それで先日、久しぶりにひとつ買った。去年あたりから流行しはじめている、ごく薄い色のミラーレンズのものである。
 ミラーグラスというと、これまでは普通のブラウンやグレーのレンズの上にコーティングを施した、わりとギラギラした感じのものが多かったのだが、近ごろ増えているこのタイプは、どうやら素に近いレンズの上に今風の鏡面処理をしてあるらしく、意外と上品な印象がある。
 今回はPOLICEのこのモデル(無色のレンズにミラー処理したもの。2023年9月註)。この手のレンズのものはレイバンからもいろいろ出ているが、私の顔にはこれが一番しっくりきた。店のねえちゃんは今年のニューモデルだとか言って、だからセール除外品だとかでふんだくられたけど、ウェブの方が五千円以上安いじゃんかよー。ひーん。

 というわけで、これが今回の「自分で買うバレンタインのプレゼント」となったのであった。
 おかーさーん、ありがとー。
 その高そうなチョコは、指くわえてもじもじしなくても、先に三人で食べればいいよ。


2005年2月16日(水)

▼我が家にはろくな漢和辞典がないので(ついでに言うと国語辞典もない)、みんなが知ってるようなことしか書けないんだけど、漢字の話って面白いよね。
 それも、顰蹙とか纐纈とかの覚える気にもならないやつじゃなくて、小学校で習うような漢字のことだけれど。
 たとえば、「中」。これが「あたる」とも読めると聞いたのはいつのことだろう。それで、「的中」や「中毒」という熟語の意味がよくわかった。
 それから、「白」。これは「申す」だそうだ。だから、「告白」とか「自白」とかを見ても、「なんで白いねん」と思う必要もなくなった。
 とか、「革」ね。これは「かわ」だけじゃなくて「あらためる」とも読むって。だから「革命」(命の方は“天命”のこと)とか「革新」なんて言葉がある。
 ついでに、「走」と「北」は、それだけで「負けて逃げる」の意味もあるとか。だから、「死せる孔明生ける仲達を走らす」ってのは、べつにジュースを買いに行かせたとかではないし、どっちへ逃げても「敗北」と言う。「敗南」も「敗西」もない。
 てなことを思い出してたら、「あー、じゃあ、白川静の本とか読めばいいんじゃないのかな」と思った。
 私は昔から「字統」や「字通」の噂だけ聞いてて、新書の一冊さえ読んだことがないけど。

▼「本気と書いてマジと読む、都会と書いてまちと読む、運命と書いてさだめと読む」という陳腐な表現そのものより、近ごろは、「本気と書いてマジと読む、都会と書いてまちと読む、運命と書いてさだめと読む、ってのかっこ悪いよね」という方が、ずっと恥ずかしい気がする。
 あるいは、「“すべからく”って、“すべて”って意味じゃないよ。だから、『すべからく子どもは無邪気だ』というのはまちがい」とか言うのも、今となっては恥ずかしい。知らずに誤用しちゃうよりなんだかずっと恥ずかしい。
 もうなんか日本語の乱れの批判や誤用の指摘なんてのはやめにして、だれかフローベールみたいに、現代版の「紋切型辞典」書いてくれないかな。


2005年2月17日(木)

▼バレンタインということで、実家の母が孫たちにチョコレートを送ってきた。
 それで、サイがお礼がてら電話をかけた。
 例によって、途中で子どもたちの声を聞かせたわけだが、なおちゃんはともかく、ともちゃんは相変わらずであったらしい。
 以下は関係者の証言による再構成である。

 母との会話もひと段落して、サイがともちゃんを呼んだ。
「ともちゃーん、おばあちゃん代わってって」
 そこで、受話器を受け取ったともちゃんは、 いきなり言ったという。
「おれおれ」
「もしもしー」
「おれおれ」
「ともちゃんか? おばあちゃんやで」
「おれおれ」
「ともちゃん、かしこうしてるか」
「おれおれ」
「なに言うてんの」
「おれおれ」
「これ」
「おれおれさぎ」
 これにはうちのオカンもとうとう切れたらしい。
「そんなこと言うてんと、お母さんの言うことよう聞きや!」

「……うん」
 いちおう反省したらしい。

▼突然ではあるが、なおちゃんが1年生だったか2年生だったかのときに考えた替え歌。

♪ あったま、でっかー、でっかー
  のうみそ、ちっこー、ちっこー
  そーれがどーした、ぼくただのアホー

 少なくともなっちには勝ってるな


2005年2月18日(金)

 仕事関係の文書はほぼすべてワープロで作成するようになったとはいえ、しばらく前から急に手書きで大量にメモを取る機会が増えて、それに適したペンを探さざるを得ない羽目になった。
 ごく普通のボールペンやシャーペンでは、筆圧も必要だし軸も細いので、すぐに疲れるし指が痛くなる。そこで、軸の太い水性ボールペン、というのを主体に探したのだが、これがなかなかいいのがない。
 見た目もよくてそこそこ書きやすいのが、三菱鉛筆の「PURE MALT」のやつ。結構気に入ってほぼ1本使い切ったが、これも木製のグリップとはいえ、指が滑るし硬いので満点とは言い難い。
 つぎが、グリップ面では本命のパイロット「Dr.Grip」のゲルインク版。これは持ちやすさも書き味も申し分ないが、例によってあの小さくて透明のキャップがネックで、すぐにひびが入ってスポスポになる。おかげで持ち歩くのに気を使うことになった。それなら、と買ったのが、同じく「Dr.Grip」ゲルインク版でノック式のやつ(携帯用って方)。これは持ちやすいしキャップを割る心配はないしで、完璧かと思ったのだが、なぜだかこれは格段に書き味が落ちる(リフィルが異なる)。インクのボタ落ちも少し気になるし、筆記のスピードを上げるとかすれてきたりもする。それでも十分以上に役に立つので、替えのリフィルも買って、これまでのところこれをメインに使ってきた(すでにDr.Gripのゲルインクバージョンは廃版らしい。2023年9月註)。
 でも、ボールペン系の常としてペンを立て気味にして書かないといけないとか、1時間でレポート用紙5枚も6枚も書き飛ばすには少し重いとか、気に入らない点はあるので、あらためてじっくり探すことにした。
 まず、筆圧不要で持ちやすいという点で、水性ボールペンに狙いを定めたのだが、よく考えればこれはフェルトチップなどのサインペンでもいい。ところが、顔料系インクのものを何本か試したが、あまり太い軸のものがないのと、ペン先もメモ書き用にしては必要以上に太くないと速度によってすぐにかすれる。
 0.9mmのシャープに2Bくらいの芯を入れて、というのもやってみたが、これは紙と手が汚れるし、やっぱり微妙に筆圧が必要なので気に入らない。
 そこでたどり着いたのが万年筆である。はじめは思いついても、「そんな古臭いもん」と、検討から除外していたのだが、よく考えると、筆圧もほぼゼロでOK、ペンを寝かせてもサラサラ書ける、基本的に軽い、軸のバリエーションも豊富といいことづくめである。
 そこで、大きな文具店に出かけた。しかし、ひとつ難があった。いいのは高価いのである。使い捨てっぽい安物はともかく、これというのは勘弁してほしいぐらい高い。4万とか5万とか、たかが日常のメモ書き用に、バカですか。そんなに出せません。
 せめて3千円ぐらいでと探し回って、LAMYとウォーターマンに候補を絞った。試し書きをさせてもらったところ、最近めきめき売れ出しているLAMYのものはデザインこそ秀逸だが、特長でもある三角形の軸が私の手には合わないことがわかった。そこで、対照的に老舗も老舗、大昔に万年筆を発明しちゃった張本人というウォーターマンである。これは安い軽いで文句なし。書き味はもちろん、グリップも「Dr.Grip」にこそ劣るものの、指の当たり具合も止まり具合も十分である。万年筆というのはどうしてもインクの乾きが遅いのが気になるが、横書きがメインなので手が汚れることもない。
 いいの見つけちゃったー。万年筆恐るべし。まさしく温故知新である。しかも家に帰って保証書を見たら、「永久保証」とある。やるなウォーターマン。
 てなわけで、次はモンブランの7万円というのがほしいので、だれか給料上げてください。

 ていうか、文房具屋で暇つぶすのってすごく楽しい。
 そういえば昔、2週間ぶっ通しの研修で東京へ行ったとき、間の日曜日に銀座の伊東屋で丸一日過ごしたのを思い出した。


2005年2月20日(日)

 夕方、テレビをつけたら「R-1グランプリ」をやってたので、ちょっと雑感。前半見逃してるし。
 ヒロシは、新ネタで失敗。かむかまない以前に、「ヒロシです」という出世ネタが、もともと「どうしたらモテますか」の思いを屈折させて「自虐ネタ」として放出しているところが面白いのに、肝心の屈折を取っ払ってよりプリミティブな方へ還ってどうする。それしかないと思われている「ヒロシです」から抜け出したいのであれば、単発ネタにストーリーを持ち込むとか、「ヒロシです」のままシュールに突き進んで壊れていくとか、そういった方向のほうがいいように思う。
 それと友近だけど、あの才能はもうイッセー尾形を目指せばいいと思う。このままお笑い芸人で行くのは本人もしんどいんじゃないか。あえて笑いを狙わない「夜明け前のホステス」「後輩に説教するお局様」「小学校のPTA」「合コンでだしにされる最年長OL」「スーパーのバックヤードで働くおばさん」なんてネタのDVDが出たら、速攻で買うのに。

 あと見たのは、「あべこうじ」、「ほっしゃん。」、「井上マー」で、このへんはうちの子どもたちもとても喜んでいた。私も、「あべこうじって、つぶやきシローの早回しじゃん」って思った以外は、「ルーマニア」とか「昆布巻きの叫び」とかで笑った。中山功太は忘れた。

 でも、なにが悪いってわけじゃないけれど、いわゆる「ピン芸人」って、全体にもう飽きてきた。「あるあるネタ」にせよ、「自虐ネタ」にせよ、「芸能人いじり」にせよ、「言葉ひねり遊び」にせよ、「へんなモノマネでネタ」にせよ、(盛り上がりの計算はあるにしても)一切のストーリー性を排して、単発ネタのセンスと数で勝負するというスタイルは、なんだかもうお腹いっぱいだ。
 でも、それが今のピン芸人のお笑い主流なのだろうし、だから友近や青木さやからが中心からズレていかざるを得なくなっているのだろう。

 「一人でやるお笑い」ってことじゃ、2時ごろNHKで見た、古今亭菊之丞のがずっと面白かったな。


2005年2月21日(月)

 そういうことで掲示板の声にお応えして、私も、「ライブドア vs フジテレビ」について考えてみる。
 もちろん私はしがない地方の小役人で、株も投資もITもマスコミも、きれいさっぱり関係もなければ経験もないので、どこまで書けるかは心もとないが、持てる知識を総動員するつもりで書くことにする。ついでに、ただ今のこの突然の思いつきから、このあと推敲も最小限に勢いに任せて書き上げる瞬間まで、一切何も調べず、新聞を見直すこともせずにいるつもりなので、持ってない知識は想像で補うことにする。

 さて、まずは「ほりえもん」である。いくら私でも、ここから「ドラえもん」に話を持っていくようなベタなことはしない。これが、堀江貴文という人のあだ名であることぐらいは知っている。もちろん、堀江氏がライブドアの社長で、去年球界を騒がせた人であることも知っている。平成教育予備校も見ていたよ。
 ていうか、堀江社長って、ITベンチャーの風雲児みたいな言われ方するけれど、それはたぶん三木谷社長とかの方であって、いくらエッジとかいう会社で、渋谷がビター・バレーと呼ばれていた頃(その後にビット・バレー、その後に死語)からその辺にいたっていっても、彼は基本的に、ITじゃなくてM&Aの人だと思う。あとは目立ちたがり屋で権力志向、それも本物の権力を、という。
 で、フジテレビだけど、これはニッポン放送の話ですねやっぱり。語り起こせば20世紀後半、「鹿内一族の陰謀」という映画を深作欣二.監督で撮ろうかという話がなかったぐらい、深い話があるのですが、それはまた別の席で。
 とりあえず、ニッポン放送は置いといて、フジの日枝会長は、本当に画になる。レンブラントの工房に、「老獪」で注文出したら、あのおっさんの肖像画を描いてきそうだ。あるいは、「吉良上野介」。
 だからなんか、今度の取り合わせは、織田信長と今川義元みたいだ(デブとヤセのシルエットだけ逆)。じゃあ、この争いは「桶狭間」で、ほりえもんが奇襲で勝つのか、っていうとそうは問屋が卸しそうもない。たしかに、こないだの「人生賭けてますから」は、謡曲「敦盛」のごとく耳に響いたけれど。

 とりあえず、二人の主人公について書いてみたが、もちろんこの二人が闘っているわけではないと思う。それなら堀江社長の方が若いし太ってるし、曙の呪いでもかかってない限り、絶対勝つだろう。とくに、800億円もの金を外資から引っ張ってきたという堀江社長の腕力は絶大だ。800億円というと、一万円札にしても800kgはあるわけだから(2/22訂正。ひと桁まちがってた。800億なら万札で8tだ。す、すっげぇ)、こんなものを一人で動かす男に、あの老人が腕力で太刀打ちできるわけがない。
 これはやっぱり会社対会社の戦いなのだ。
 そうなると、フジテレビはあのお台場のビルなわけだから、かなり強いと思う。とくにあのまん丸の部分は、社長と会長がせーのでスイッチを押したら、きっと宙を飛んで敵を攻撃に行くはずなので、かなりの破壊力を有しているに違いない。
 となると、堀江社長は、卍党を率いて復活した甲賀玄妖斎の「大まんじ」をやっつけた赤影の力を借りる必要があるが、オリジナルはもう年だし中井貴一もこのごろはぱっとしないのでこれは難しいだろう。ただ、金だけはあるようなので、前田建設ファンタジー営業部あたりに頼んで巨大ロボぐらいならすでに手にしている可能性はある。万一あの六本木ヒルズが立ち上がったりしたら、これはかなり見ごたえのある戦いになるのではないだろうか。

 という予想は都民には最悪のシナリオであって、今は、両者がニッポン放送という小さな会社を両方で引っ張りあっている状態らしい。
 なんでも、ライブドアはすでに40%超の株式を取得して過半数まで狙っているとか、フジテレビも25%を超えて自社に対する影響力の帳消しどころか、ニッポン放送の上場廃止まで視野に入れているとか。
 間に立つニッポン放送こそたまったものではない。
 これはこう見える。
 フジテレビ君は、主筋の子どもであるニッポン放送君と仲良くしていました。そこへ、バックに月給取り兄弟のいるライブドア君が、金に物を言わせて、ニッポン放送君に対して、「おれとあそぼーぜー」とジャイアンのようにやってきました。フジテレビ君はびっくりしました。鹿内先輩のにらみは効かなくなったとはいえ、ニッポン放送君は主筋なので、ほっとくとライブドア君の言うことまで聞かないといけなくなります。「そんなのやだよ、よそ者はあっち行けよ」と、こちらも金を出して、小さなニッポン放送君の手を引っ張ります。小さなニッポン放送君は、両方から引っ張られてとうとう泣き出してしまいました。

 さて、勘のいい読者は、すでにこの先の展開にお気づきであろう。
 フジテレビ君は早晩手を緩め、ライブドア君が泣き叫ぶニッポン放送君を発止と抱きとめるのである。「よしよし、いい子だ。これからはお兄ちゃんと遊ぼうね」と。
 しかし、ここで、大岡金融庁守あたりがお出ましになる。
「待て待て待てぇい! 今見ておれば、泣き叫ぶ子どもの声に思わず手を離したフジテレビとやらのやさしさこそが真の友情、そんな子どもの声にも気づかず力を緩めることもせぬ、そこなライブドアの強欲、見苦しいにもほどがあるわ!」
 もちろん、お奉行様はここでライブドア君の手からニッポン放送君を抱き上げて、フジテレビ君に手渡すのである。「大事にいたせよ」と。
 月給取り兄弟も、ライブドア君に貸したお金に利息を乗せて、身ぐるみはいだ上に後足で砂をかけて去って行く。
 舞台の上に、這いつくばるほりえもんを一人残して暗転。

 となるかどうかは知ったこっちゃないけれど、いくら去年の夏から報道部門を立ち上げてマスコミを手に入れる算段してたっていっても(だから準備期間は結構長い)、いくらリーマン・ブラザースから背水の陣といっていい過酷な条件で巨額の資金を調達したといっても、いくら本人がM&Aのカリスマを自認していても、今回の堀江社長のやり口はちょっと無作法すぎたと思う。いくら合法で、資金があって、理があって、人気や世論の後押しがあっても、年寄りに結託されたら歯が立たないってのは去年学習したばかりじゃなかったのか。
 とくに今回は、政官財にどれほど食い込んでるか知れたもんじゃないフジ・サンケイグループが相手である。もっともっと、相手以上にずっとずっと、狡猾に周到に攻めればよかったのに。
 それともどっかでナシでもついてるのかな。名前売るだけ売って、損しないようなシナリオがあるのかな。

 それも、3月2日には明らかになるようなんだけど。ひな祭りの前日というところに重大な秘密が隠されているのかもしれない。
 あ、思い出した! 3月2日は「遠山の金さんの日」だ! 昔聞いてなんやそれーと思ったんだ。
 てことは、てことは、当然、大岡裁きの対抗勢力として、きっと金さんが出てくるんだ。「やいやいやいやい、てめえら若いもん相手にいい気になりやがって。お天道様は見逃しても、背中で咲いてるこの遠山桜がすべてお見通しなんでぇ!」と、フジテレビ君とニッポン放送君と大岡金融庁守の猿芝居を叩き潰してしまうのかもしれない。
 うん、この金さんは、やっぱり中村梅之助で決まりだな。高橋英樹や松方弘樹じゃだめだ。

 3月2日が楽しみですね。何チャンネルでやるのかな。CXじゃないのはたしかだけど。


2005年2月22日(火)

▼ここで問題。一年のうちで今日のように、「同じ整数が3つ連続で並ぶ日」はいくつあるでしょう。
 1月11日、2月22日、11月1日で3つ? ブッブー、不正解です。11月11日も入れて、4つ? ブッブー、またもや不正解です。

三崎亜記『となり町戦争』(集英社/1400円)
 どわー、おもしれー。
 と感想を書く前にひとこと言うが、著者は絶対公務員(もしくは経験者)だ。プロフィールには何のクレジットもないけれど、これが公務員(それも地方の)でなかったら坊主になってもいい。
 町役場の組織やシステムは、身近に知り合いでもいればいくらでも取材して書けるだろうが、このおそるべきディテールと小役人の様子は中にいないと書けるもんじゃない。前半部でいうと、「となり町戦争係」が臨時の部署で人がもらえないとか、総務課の隅のパーテーションで区切られただけの所にあるとか(この辺は選挙事務のときの態勢を模してると思う)、辞令交付式の微妙な空気とか、地元説明会のやり取りとか、となり町は戦争を公社に委託しているとか、バリバリ内部の人間として言わしてもらうと、これはもう台詞も含めて細部に神が宿りまくりであるとしか言いようがない。ていうか、「戦争」の二字だけはずせば、毎日こんな仕事をしている私には抱腹絶倒レベルだ。
 で、小説の話になるのだが、世間の書評では、町役場の広報を通じてのみもたらされる「戦争」と淡々とした日常に始まる光景が絶賛されているけれど、これはオーウェルの『一九八四年』を持ち出すまでもなく、SFではしばしば見かける設定だ。私はむしろ、主人公が戦争に巻き込まれてから、必死で「経験はないけどなつかしい戦争」を(外部はもちろん自分の内部にまで)探し求める姿に、SFには決してないものを見たような気がする。
 そして「戦争」はあっけなく終わり、「大きな公共事業」を終えた互いの町は、関係まで旧に復して日常にもどる。
 私は、過剰に「文学」になってしまっている戦後部分は、少し長すぎるように思うのだが、これはこれで物語をさらいなおして、リアルな戦争のシュールな理不尽さを改めて突きつけてくるので、いいのかなとも思った。
 とにかく、これは大変面白い「町役場小説」です。「反戦文学」のふりしてるけどね。

 あ、そうそう、この小説のお役所仕事のディテールがいくらすごいといっても、香西さんみたいな公務員だけは絶対にいませんから(室長とか補佐みたいな人はほんとにいます。いっぱいいます)。

▼冒頭の問題の答え。14こ。


2005年2月23日(水)

 今日はのども痛いし更新はやめて早く寝ようと思ってたのに、ショックなニュースが!(ネタ元は、hard で loxse な日々様)

 ソニー、クリエの新機種投入を終了~現行機種は7月末まで生産

 うわー、缶ビールの懸賞で当てて以来、3年半というもの毎日毎日愛用してきたのに。すごく便利に使えるようになったのに。
 投売りが始まったら、せめてTH55だけでも手に入れとくかな。部品は6年間あるようだし。


2005年2月24日(木)

 たった一度の経験であるが、学生時代に、鼻の下にヒゲをたくわえたことがある。
 もともと私は、剃り跡が青々するほどヒゲの濃いたちではないが、伸ばすのに苦労するほどでもない。4回生の年末から伸ばしはじめて、1月の半ばには一人前のヒゲ野郎のできあがりとなった。
 ところが、これが案外めんどくさい。あごや頬はやっぱり毎日剃らないといけないし、ヒゲだって手入れをサボるとどんどん伸びてくる。こっちははじめてのヒゲなので、手入れの要領もわからない。それでも、たまには刈り込んだりすいたりすればよかったのだが、ときどき毛先だけそろえていたら、いつのまにかスーパーマリオみたいなヒゲになってしまった。おかげで、派手なシャツ着て歩いてたら、ゼミのみんなにメキシコ人の運び屋のようだと大評判になった。うれしないわそんなん。
 結局、しばらくして伸ばすのも受けを狙うのも飽きてきたので、3月に入ってすぐに全部剃り落とした。

 と、ここまでが前置き。
 久しぶりにずいぶんさっぱりした顔になって、私は思った。これで大学に行けばまた受けるかもしれない、と(なんで学生が意味もなく受けることばかり考えているのかという話は、大阪人の血と深く関わるような気がするのでここでは立ち入らない)。
 ところが、せっかくわくわくしてして学校へ行ったのに、誰一人気づいてくれないのである。先輩も後輩も同級生も、みんな普通にあいさつして普通にしゃべって普通に勉強の話をしたりする。誰ひとりとして気づいている気配すらない。
 ずいぶん我慢したが、昼近くになって、私はたまらずみんなの前で打ち明けた。
「えー、あのー、ヒゲ剃ってんけど」
 そしたら、どいつもこいつも、初めて気がついたみたいにびっくりして、
「あーっ! ほんまやーっ! ぎゃはははは」
 と笑うばっかり。
 心理学関係の研究室だったので、先輩は気の毒に思ってくれたのか、ゲシュタルトがどうとか、対人認知は全体のとか言ってなぐさめてくれたけど。
 そんなこんなでうなだれての帰りぎわ、建物の入口にいつもいる、名も知らぬ守衛のおじさんだけが、
「さようなら」
「はい、おつかれ……あ、ひげ剃りはったん」
 と気づいてくれた。
 ちょっと、ほっとした。ていうか、おじさんは学生を外見でしか区別していないので、些細な変化にも気がついたのだろう。ここに、声や表情や性格や話し方など、その他もろもろの識別のための指標が増えれば増えるほど、一点のみの変化に気づきにくくなるということである。ま、それが先輩の慰めの主旨だったわけだけれども。
 その説の補強のための証拠に、その週末、付き合って数年にもなるのに、今のサイも気づいてくれなかった。

 だから、世のお嬢様方に申しますがね、髪切ったのに気づいてもくれないとかいって、ぶんむくれるのはよくないですよ。
 あれって、親しければ親しいほど気づきにくいものなのです、きっと。ヘアスタイルなどその人の人格全体に比べれば、ほんの小さなディテールにしか過ぎないのですから。

 せやから、あの、そのパーマ、なんぼ高かったかしらんけど、気づけへんいうて、必ずしもおれが悪いわけでは、あの、だから、ひー、ごめんなさいー。


2005年2月27日(日)

江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(集英社文庫/457円)
 山本周五郎賞を取った短編集。ずいぶん前に出て、評判になったことは知っていたので、文庫化を機に読んでみた。タイトルもほんとうに素敵だし。そして、私にとっては初めての江國香織である(恋愛小説はイマイチ苦手なので、どうも手を出しかねていた)。
 世間にはファンが多いらしいので申しわけないのだが、私にはどうもダメだ。かれこれ二十年前、当時とても人気のあった森瑤子を読んだときのことを思い出した。「おれはこいつに用はない」。
 たしかに恋愛というものにつきまとう、ピリピリした感情や「どうしようもない」気持ちが、性愛の面からも真摯に、しかも十分「小説」的にとらえられ表現されていて、それにはとても好感が持てる。感情と説明を排したクールな文体が、濃密な内容と絡み合って効果を上げていることも認める。
 しかし、この作者には、決定的にユーモア感覚が欠落しているように感じられて仕方がない。中村うさぎじゃあるまいし、なにもネタやくすぐりや笑いどころをちりばめろと言っているのではない。篠田節子の乾いた、斎藤綾子の突き抜けた、川上弘美のどこかこわい、山田詠美の鉛色の雲の切れ間に明るさがのぞくような、そんな作者本人の、おそらく人格に根ざすようなユーモアが感じられないのである。
 これは相性の問題という以前に、私のチューナーの問題で、私が一方的に鈍感であるせい、という可能性はある。けど、信頼できる他人から、「それがダメなら、こっちを読んでみろ」とでもすすめられない限り、この先再び江國香織を手に取ることはないと思う。

▼ニュースの時間だったと思う。テレビから、「……、おおむね理解できると、……」という、アナウンサーの声が流れてきた。
 私は、なおちゃんに言ってみた。
「おおむね、ってどんな意味やろな」
「だいたい、ていう感じとちゃうん。だいたい理解できるって」
 お、わかってるではないか。で、軽くボケてみた。
「巨乳とは関係ないんかな」
「それはちがうやろ。大きな胸は関係ないと思うで」

 お父さん的には、けっこうドキドキしたボケであったが(もちろんなおちゃんはそんなことには気づいていない)、非常に正しいツッコミが返ってきてうれしかった。なぜなら、「大きな胸は関係ない」という返答は、そのボケが「概ね→大胸→巨乳」という駄洒落系の勘違いに基づくものであるという認識がないとありえないものだからである。それに、「巨乳」という言葉にさえ、表情も変えずに反応できるようになったところも頼もしい。
 よしよし、いいぞいいぞ。

 なおちゃんもこの春から5年生である。そろそろ、「だれからも愛される下ネタ」についてのレクチャーもはじめないといけないかもしれない。
 子どもの教育って本当に大変だ。

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