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ラーメン

うちは、ラーメンをよく食べに行く家だった。九州といえばとんこつで、福岡生まれの父をもつ私は、真っ白く白濁したとんこつスープに、青ねぎと紅しょうがのったラーメンを食べて育った。

父ががんで余命いくばくもないときに、「あつあつのラーメンが食べたい」とリクエストをもらったことがある。

当時の父は、脳の記憶を司る箇所にまで病変が広がっており、記憶障害があった。数分間しか記憶がもたないので、会話は2、3言で終わってしまう。手はしびれ、足を自由に動かすことができない父を前に、あつあつは無理だろうと思った。

あつあつのスープなんて、うまく口に運ばなければやけどをしてしまう。車いすでラーメン屋に行くには段差もあるだろうから、中には入れない。カップラーメンを病室で食べてもらおうか。いや、父はお店で食べるような、スープから湯気が出ているあつあつのラーメンを目の前に据えたいはず。

そんなことを考えていたら、おばの提案でハンバーグ屋に行くことが決まった。以前父親を介護していた知り合いが営んでおり、今のわたしたちような境遇の人間が行っても、驚かずに受け入れてくれるとのことだった。

ラーメンはまた今度で良いかと思い、ハンバーグ屋に向かった。父は出されたハンバーグをおいしそうに食べていた気がする。本当はラーメンが食べたいと分かっているので、少し申し訳なかった。2、3言で完結する短い会話を繰り返し、食事は終わった。

それからなんとなくラーメンのことは頭に残っていたが、病状が進み、変化する毎日を処理することで手一杯になった。結局、あのハンバーグ屋が父の最後の外食だった。

それからしばらくして、私は社会人になった。父がよく言っていた「ラーメンは、ごほうびだ。」という言葉が、少しずつ分かり始めたときでもある。

子供のころは、一杯600円のラーメンをごほうびとする理由がわからなかった。1人数千円するようなお店に外食に行くこともあった(行けるような経済状況の家庭に見えていた)。そもそも父は働いているんだから、一杯数百円のラーメンなんていつでも食べられるものだと思っていた。

社会人になって、朝から晩まで働いていると、夜は味の濃いものが食べたくなる。忙しいときは朝はギリギリの時間で起きてご飯を食べられないことがあるから、やはり夜は、味が濃くてお腹いっぱいになれるものが良い。

家でインスタントラーメンに野菜や肉を入れて好みのラーメンを作ることもできるが、疲れているときは、数百円を出してラーメンを食べて帰ることがある。(今はラーメン一杯1,000円の時代になってしまった)

「今夜はちょっとお金を出して、ぜいたくしちゃおう。」と、決断するのが一つ目のごほうび。

店に着き、自分の気分に合わせてメニューを選ぶ。これが二つ目のごほうび。

湯気が立ったあつあつのラーメンが目の前に運ばれ、スープをのむ。これが三つ目のごほうび。

父に真意を聞いてみたいものだが、これが私なりの「ラーメンは、ごほうびだ。」の解釈である。

東京に住んでいると、各地発祥のいろいろなラーメンを食べる機会がある。故に、知った味であるとんこつを選ぶことは減っていた。

先日、父の兄の墓参りで福岡に行く機会があった。昔家族で通っていたラーメン屋に、母と弟と行った。一口食べるなり、身体に強烈に沁みてしまった。

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