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yasuco:が自閉症fuco:の母になったのは必然だった⁉︎


初めましての方へ。現在23歳の知的障害がある自閉症fuco:。母の何気ない一言で16歳からマルを描き始め、アートから世界が広がればと個人で活動、その様子を母yasuco:が発信しています、

胸の内から溢れひしめく小さなマル!



障害があると、親が選んだ環境の中で生きざるを得ず、親の影響はとても大きいと思います。対のように生きてきた私たちだからこそ、fuco:について綴りながら、母についても語った方がいいような気がしてきました。というわけで、今回はfuco:ファンの方には大変申し訳ありませんが(笑)、母yasuco:について。



yasuco:の家庭環境


fuco:がそうだったように私も家庭環境が大きく影響して育っています。父が大学病院に勤務する研究者で外科医、母は専業主婦で年の近い弟が2人います。

父の仕事がある時期特殊だったので、子供時代は影響が大きかったと思いますが、中学を卒業と同時に高校大学と県外の学校に行っていて(弟たち二人も実家は中学まで)、いろんな経験をしてきました。

今時見かけないレトロ!
だって昭和だから(笑)


それは子育てをする時、転勤に慣れていた、早くから自分で自分のことをしなくてはいけなかった、息子が入院が多くても医療に信頼感があったなど、とてもプラスに働きました!


同じでないことが当たり前だった子供時代


私が小学校に上がるタイミングで、父はへき地の病院に転勤となり、町にただ一人の外科医となります。

保育園から中学まで皆んな一緒の、田舎の1学年1クラスの小さな学校。私はお受験を目指す街の超スパルタ幼稚園に通っていたので、読み書きは勿論計算もすでにでき、カルチャーショックを受けたのを覚えています(というわけで勉強しない人生スタート)。

洋服だけでなく、髪型も一人全然違う(笑)


田植えや稲刈りの季節、田んぼがないのはクラスにただ1人。もう羨ましくてですね、誕生日に田んぼをリクエストし、即却下されました(笑)。街に住んでた時と生活環境は何もかもが違い、完全に外国!

そして、手術ができるのは父しかいないため、小さな町の人たちは皆何らか父と関係があります。今でも覚えているのは、学校の体育の時間グランドに行くと、ベンチに座っているおばさま方に呼ばれ、「いつも先生に本当にお世話になっているから」とよくお菓子もらっていました、授業中(笑)。かといって、家族は怪我しても「明日保健室に行きなさい」と診てももらえないのは、医者の家族あるある。

親が学校に出す書類に
「長所のんき、短所のんびりしたところ」としか書きようがない子…


そんな父もだいぶ個性的で、学校の運動会に来る途中、電気屋で小さなTV買ってくるんですよ。野球が観たくて。グランドの一角に贔屓のプロ野球試合を見るおじさま方が集まって、子供らそっちのけで大盛り上がりしてました…地域で間違いなく異端ファミリーでした(笑)。



多様な人たちと過ごした学童期

小学校5年生で街に戻って、小学校中学校は地元の公立学校に行っています。当時中学校が結構荒れていて、廊下で同級生がタバコやシンナー(今で言う覚醒剤的な?)吸っていて、どこで絡まれるかわからないし、学校はスリリングだった記憶があります。

家庭環境も本当にいろんな人たちがいました。〇〇君の家は借金の取り立てがくるとか、お兄さんはヤクザになったとか、子供ながら噂は耳に入り、触れてはいけない事があると切々と感じていました。

そんな中我が家はというと、友達がたまたま誕生日に遊びに来てくれたら夕飯にエスカルゴがでたり(母がまた結構なお嬢様育ちで…)、久しぶりに家族で外食となるとホテルでコース料理だったり、父親が普通にリビングで手術のビデオ見てたり、アメリカ学会土産のティファニーの便箋で友達に手紙を書いてたり…

自分は吹奏楽部入ってて、ピアノ習っていて、家庭教師が来てて(弟たちにもそれぞれ)、塾行って、彼氏と遊んで、教会行ってました。割と忙しかったですね(笑)。

高校時代まではかなり喘息がひどかったので、
読書が大好きで基本インドア


教会では外国人の神父様やシスター(この方々がまたかなり癖強し)から世界各国の話を聞いたり、ボランティアで老人ホームに話し相手に行ったり、家では父が大学に戻ったため、留学生がうちで夕食をということも度々ありました。

(外国ということでいうと、大学時代はイギリスに1ヶ月ホームステイし、結婚する時はイギリスのダイアナ妃御用達デパートへ果敢にドレス買いに行きました。英語力は中学レベルですが、いつも心で!)

また、遠方だったので、会う機会はあまりありませんでしたが、叔父が知的障害者です(幼児期日本脳炎にかかった後遺症により)。

近所にも教会にも障害がある人や外国人は当たり前のようにいて、特別なこととは全然感じてなかったです。これも我が子が障害児と言われた時、ショックではなかった理由だと思います。



少々早め自立でその場その場なんとかやっていく



高校は県外のカトリック系のいわゆるお嬢様学校の寮に入ります。経済的に豊かな家庭の人だけでなく、留学生がいたり、かなり日本全国広範囲からきていた人たちとの共同生活。

制服がワンピースですごく可愛かったです!


必ず話すのが寮の朝食でバナナが出ると、フォークとナイフで皮を剥いてカットして食べなくてはいけなかったこと(笑)。何たって皆んなお嬢様だから。

バナナはこういう使い方を
するものではありません。
これは中学生だった娘の弁当に私が入れたやつ(笑)


でも、こうやって食べている人、
日本にどのくらいいるんだろうか(笑)



多感な高校生が24時間一緒に生活をするので、楽しいことばかりではなかったけど、下界から隔離された山の上、取り繕えない距離感で暮らす中、毎日いろんなことがありましたね。

全員分の机が並んだ勉強室での勉強時間、シスターが見回りに来る中、いつも漫画を隠れて読んでるか寝てるかで怒られたり、お風呂に浸かりながらアイス買ってきてもらって食べたり…まぁ、後は言えないような話です(笑)。



熱く没頭することを見つける


大学では吹奏楽団に入りました(勉強より部活部活の4年間!)。毎年全国大会に出る、そして体育学部もある大学の応援団所属(大きな試合の応援や壮行会も忙しい)、マーチングもバリバリやるガチな部活です。

練習も勿論厳しかったし、私たちの頃は上級生は神様で、挨拶や規則も凄まじかった(今ではネタでしかありませんが)です。ここでど根性(その後育児での肝)身につけました!

ソロとか目立つのは苦手。
今もホントは2番手が好きです


忘れえぬコンクールの緊張感は青春の極み!



野球の応援行ったら、何時間も声出したり楽器吹くのですが、勝っても「お前たちの応援が足りなかったから2点しか入らなかった」とか、先輩に怒られて体育館で正座させられるんですよ。世の中の理不尽さ知るってやつですね。

その時同級生で、前に立って説教してた学年リーダー的な役だったのが、当時交際していた現在の夫です。毎回ホントにイラつく(笑)!ただ、その頃私は相当なダメ人間だった(歩いていて道路脇側溝に落ちてハマったり、飲み会で帰り背負われて帰宅したり)ので、夫の妻評価はその頃からあまり更新されていないかと思います…

そして、大学の専攻は世界史や哲学、学科の単位は一度も落としたことなかったのですが、教職課程は教育実習もいき、採用試験も受けながら、実は教員免許(中学社会、高校世界史)が出ていません。

理由は必修科目の「特別支援教育」の単位を落としたためです…そして今24時間我が子に特別支援の実践をする…人生って結構コミカルだと思います(笑)。


こういうホールにケーブル貼ったり、
マイクを吊るしたり
カメラマンしたりしながら
全国を飛び回っていました



卒業後は、定期演奏会の映像収録でお世話になった、映像音声制作会社の社長に誘われるまま就職します。

クラシックコンサートでカメラマン、映像収録のスイッチング(カメラの切り替え)、番組制作、CD制作、プロデューサーで寝る間もなく仕事してました。

撮影しながら鳥肌立つとか、音楽のためだけに生きている音楽家のご自宅に伺ったり、本当に心が揺さぶられるような経験ばかりさせていただきました。とんでもない失敗も、味わったことのない感動もあって、よく泣きましたね。

ここでもまた接する人たちは、それはそれは飛び抜けた異端人ばかりで、段々私の価値観は変わっていることイコール天才になっていきます(笑)。



違うことも変化も当たり前だったのが今の強み⁉︎


子供の時周りと違う家庭環境で、人と同じにしなくてはという意識も、周りと比べる意識も全くありませんでした。その後はいろんな街に住み、いつも新しい人と新しい環境がありました。

違いが大きい人同士が距離を近づけたい時って、まず一層相手をよくみるじゃないですか。話しかける、会話する。言葉が通じなかったら、どうやったら伝わるかなと、ボディランゲージや表情、絵も描いたりもします。

自分の思い込みや価値観で接すると、相手には全然通じないしいい関係性が築けない。パターンもないので、自分自身で考えないといけません。私は子供の頃からずっとただ自然にそうしてきたんだろうなぁと思います。

高校卒業の時。5年前?早い!


こう考えると私のこれまでは、超個性的自閉症児との今の暮らしへ、全てがスムーズに続くような気がしてきました。違うこと自体が困った、よくないとは全然思わないのです(笑)。

そうは言っても、異文化に暮らすfuco:は本当に手強いお方!そこは音楽に打ち込んだ時の、やるならやる覚悟を決める気持ちの強さで。この時のために育ててきたド根性で(笑)。私はこうしてfuco:の母になるべくしてなったのだと思います。

この後50数年後
こんな人生が待っていようとは!
前半戦はのんびりするに限る(笑)


おまけで私に関わり合った人たちに聞いた「yasuco:とは」を載せておきます。えーと、ホントゆるゆるでその場その場で何も考えず生きてきただけです。家族評を見ると、現在も名残ありですが(笑)。

・転校してきてすぐ人気者になって、イタズラもよくしていて、フルートを頑張っていた。大人になって再会した時も小学生の時のままで、毎日を楽しんでいた。とんでもなくって、すごいやつ(小学中学の親友)
・自然体、どこまでも優しい、掴みどころがない、愛され女子(高校の親友)
・自己肯定力、コミュニケーション力が高い、潔い、溢れるバカ(夫)
・エネルギッシュ、大雑把、明るい(次女)
・不真面目(息子)


ではまた次の更新は3/15です。今回も長文ファンの皆さま、お付き合いいただきありがとうございました!


#自閉症 #知的障害 #アート





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