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「知らない」ということが生み出すもの

たとえば、あなたがクラシック音楽愛好家だったとする。
Facebookで、友人や知人から演奏会の案内が流れてくる。
それが、有名なホールで著名な演奏家や指揮者だったら
きっと興味を持つだろう。
日時は? 曲目は?
なんとか都合がつけられないか
計画を変更するかもしれない。

しかしそれが
都会から遠い地方都市で、
ものすごく寒い時期で、
うまいかどうかもわからないアマチュアオーケストラで、
そこまで著名でない指揮者だったら
「いいね」も押さずにスクロールされて終わりだろう。

交通費がかかるのは変えられないが、
寒い時期なのは、演奏会の日程を変えれば済む。
指揮者も、お金を出せば著名な方にお願いできるだろう。
曲目も、引きのいい曲を採りあげることはできる。

問題は、演奏者のレベルがわからないこと。
地方都市のアマチュア演奏家の演奏なんて
どうせ大したことはない。
多額の交通費をかけるに値しない。
そう思う人は多いだろう。

「ふーん、そうなんだ」で終わってしまう
読み飛ばされる情報。
しかし関わっている人たちは、
真剣に練習したり
集客案を練って宣伝したりしている。
それは、都会と何も変わらない。

人々の頭や心に引っかからないのはなぜか?
おそらく、この土地を知らないからだろう。
なじみがない。
ここに住むまでの自分がそうだったように。
それでふるいにかけられるのは
とても残念だ。

朝、子どもの送りの際、
鳴きながら飛んでいく白鳥を何度も見る。
福島でも茨城でも千葉でも東京でも神奈川でも
こんな光景を見たことはなかった。
幸せでいっぱいになる。

冬の岩手を、盛岡を、もっと知ってほしい。
石油ストーブの音、
道に漂う薪ストーブのにおい、
南部鉄器で沸かした温かい飲みもの、
ていねいに織られたホームスパンの彩り。
寒いけれども、だからこそ
温かさを生み出す営みがある。

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