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#5 学びは 遊びにはじまり遊びに終わる

「プリミティブな教育」シリーズとして、太古の教育のことや自然とともにある教育について、調べ、感じたことを綴っています。

今までの教育の活動から、大事なものは引き継がれていくように。

また、子どもたちも、子どもと一緒に過ごす大人も、生活・時間・人間関係などの面で無理がない形(継続)ができるようにと願って集めたことです

#1はこちらからどうぞ(#1 狩猟民族の子どもたち)

こんにちは。幼児教育と社会をむすぶ、幼児教育ドラマトゥルクとして活動しています、塚田ひろみです。

今回は、教育の世界ではよく知られる心理学者、ヴィゴツキーを頼りに、遊びと学びについて書いていきます。

よく、「遊びから学びがはじまる」と言われます。私は、ヴィゴツキーに関する書籍『遊ぶヴィゴツキー 生成の心理学へ』を読み、はじまりだけではない、

遊びはからはじまり、遊びに終わる

のだと、思いました。

そのヴィゴツキーの主張の新解釈ともいえる、こちらの本より、遊びと学びの関係、人間の根源的な性質(人間の自然)について、まとめていきます。

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いわゆる、ヴィゴツキーの理論とは

ヴィゴツキーといえば、<発達の最近接領域> <zpd>(以下、zpd)の理論が最も有名だと思います。

これは、

子どもたちは、ひとりで出来ないことは、誰かと一緒に取り組むことで、できるようになる。大人が助けなくても、近しい子どもの存在が、子どもの発達を助けてくれる。

というものとして、広く教育の世界では参考にされてきました。

ホルツマンの新しい解釈とは

ホルツマンは、この著書のなかで、ヴィゴツキーの理論は正しく理解されていないと述べています。

その一番のポイントは、ヴィゴツキーのzpd理論は、参考にされるテクニックではなく、実践される方法論である、ということでしょう。

zpdとは、教育現場で、子どもたちをどのように導くのがよいのか?というテクニックのことではなく、

子どもたちとどのように活動し、一緒に過ごしていくか?

教師側も、その当事者であること。

そして、それは、新しいワークショップを教育の現場で実践してみる、ということに近いです。

具体的には、プレイ=演じる

では、その新しいワークショップとは、どんなものなのか?

端的に言えば、それは即興演劇のようなものです。

自分ではない誰かになってみる。

そのことが、子どもたちを発達へといざなう。

と同時に、なってみる、という過程の中で、すでに子どもたちは過去の自分から成長・発達しています。

一般的には、成長・発達、というと、あるひとつの場面を切り取るように、<◯◯ができるようになった>という結果のことを指すことが多いです。

zpdは、能力や知識獲得の一時的な結果ではなく、自分自身の継続的な変化のほうを、成長や発達と捉えていたのだ、という解釈です。

zpdの発達観はどこからくるのか?

こうした、zpdの発達観はどこからうまれたのでしょうか?

それは、人間の本質・人間の自然の姿の捉え方によります。

人びとはそもそもパフォーマンスする人であり、考える人や知る人ではないのだ。(P51)

人間は最終的に知識や能力を獲得し、ストックする生き物ではない。パフォーマンスをする生き物である。このパフォーマンスには、遊び、表現、お仕事まで、様々な活動を含むでしょう。これは私の解釈ですが、じぶんの「こうしたい」を、何らかのかたちにすること、と考えています。

知識や能力の獲得とパフォーマンスの違いは

では、知識や能力の獲得と、パフォーマンスとは、本質的にどう違っているのでしょうか?

それは、認知(いわゆる、知識や能力の獲得)と、情動(想い、感性、表現)の違いです。

西欧文化、その影響を受けた文化圏でも、長らく続いてきた(今も一部では続いている)解釈では、情動は女性的で取るにたらない二級品とされていました。そのため、男性的な知が絶対優位である。そういう世界観は、今も残っているのを感じます。

しかし、そもそも、人間は考え知るための存在ではない。それは、どちらかというとツールです。

パフォーマンス=自分のやりたいことを、さまざまに表現する。それは、直接的なアート表現かもしれないし、ビジネスのかたちかもしれません。パフォーマンスをするために、考え、知ることが、自分の助けになってくれる。この関係性が、人間の自然であり、いま、社会の向かう変化が目指していることではないでしょうか。

最終的にはパフォーマンス、遊びのような活動

学びは、遊びにはじまり遊びに終わる、とタイトル・冒頭に書きました。

遊びにはじまるというときの”遊び”は、好奇心や、ものや人と触れ合うような活動から、「どうして?」「どうやったらいいの?」という探求がはじまる、という意味で使われています。

終わりとしての"遊び"は、はじめの探究心や好奇心からはじまった、学びの先にある、実践のような遊びです。

人間の楽しく、しあわせな活動は、はじまりも、終わりも、遊びに満ちている。

zpdを通して捉えれば、そのプロセスも遊びに変わる。人間に遊びが必要だ、人間はホモ・ルーデンス=人間は遊ぶ存在である、ということの意味は、ここに通じているのではないかと思いました。
(ホモ・ルーデンスの書籍には、これからあたってみようと思います)

【参考文献】
『遊ぶヴィゴツキー 生成の心理学へ』(ロイス・ホルツマン著・茂呂雄二訳 2014 新曜社)

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塚田ひろみ |アーティスト気質のためのビジネスマインダー
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