幸せは自分でしか図れない
まずは簡単に自己紹介から
【プロフィール】
野寺風吹
デフフットサル日本代表
元デフサッカー日本代表
筑波大学体育専門学群3年次スポーツ産業学研究室所属
体育会蹴球部所属
北海道上富良野町出身。2歳の時に両耳に感音性難聴があることが発覚。
旭川に引っ越し、旭川聾学校に通い、高校までを旭川で過ごす。
一年間の自宅浪人を経て、筑波大学体育専門学群に入学し、蹴球部に入部。
大学入学をきっかけにデフサッカーに出会い、2018年4月に行われたデフサッカーW杯アジア予選の日本代表メンバーに選出、準優勝。
代表の活動資金は自己負担であることから、資金難に陥り、9月にクラウドファンディングを立ち上げ110万円の支援を達成。
2019年1月に株式会社メルカリとアスリート契約を締結。
2019年2月に行われたデフフットサルW杯アジア予選、11月に行われたデフフットサルW杯本選の日本代表メンバーに選出。
アジア準優勝、世界10位で終える。
スポーツ産業学研究室に所属し、マイナースポーツのファンドレイズやマーケティングについて研究中。
このプロフィールにもあるように、私は聴覚に障害がある。
今までもたくさん悩んできたことや不便なことはあるが、いまは人生を楽しく生きている。
しかし、昔からそうだったわけではない。
昔は全く自信のない人間だったし、周りのことばかりを気にしている自分に軸がない人間だった。
でも、今は全く違う。
言いたいことは言う。やりたいことに挑戦する。
自分に自信をもって、いまを生きている。
私のこれまでの人生を踏まえて、どのように変わっていったのか?
どういうマインドでいまを過ごしているのか?
以前、それを初対面の人に話したら「温かい話だな」と高評価をもらったので、ここで書くことにした。
これを読むことで少しでも皆さんに何かを与えられたいいなと思っている。
1,あまり楽しくなかった幼少期
「ロボット」「発音悪くね?」「滑舌直せよ」「聞こえてるくせに」
「障がい者だからって許されると思うな」「これだから障がい者は」
さて、これらの言葉は何だろうか?
これらは私が今まで生きてきた中で、言われたことがある言葉である。
私は、2歳の時になかなか言葉を覚えなかったことを不審に思った両親が病院に連れて行ったことをきっかけに左耳に中等度の難聴、右耳に重度の難聴があることが発覚した。
おそらく生まれた時から聞こえていなかったのだと思う。
その後、すぐに聾学校幼稚部に入ることになった。
左耳だけは障害が比較的軽く済んだから、補聴器を付ければ日常会話程度ならほぼ問題なく行うことが出来る。
そのため、周りの友達は手話を使ってコミュニケーションをとる中、私は手話をほとんど使わずに口話(口の動きを読み取って理解する)を使ってコミュニケーションを取っていた。
幼稚部は楽しかった思い出もあるが、辛かった思い出もたくさんある。
普通子供は、親など大人が発する言葉を音として聞いて、それを真似することで言語を習得する。それは発音や滑舌、イントネーションも同様である。
しかし、聴覚障害者は言語が明瞭に聞こえないため、全く違った言語に聞こえる。その違った感覚で言葉を覚えてしまうので、上手くしゃべれなくなってしまう。
そのため、私は聾学校の時に正しい発音と口の動きを覚える練習をほぼ毎日行っていた。
それは、ティッシュを破いたものに正しい口の動きを作って息を吹きかけるもので、正しい口の動きが自然とできるようになるまで繰り返し行う地道で全く楽しくない単純作業だった。
それをほぼ毎日1~2時間やることは非常に苦痛だったことを今でも覚えている。
また、音が聞こえないことからリズム感もなかったので、それを養う練習も毎週行っていた。
聴覚障害者は言語の習得が難しいため、国語力にも難がある。
そのため、漢字など小学校から習う内容を先倒しして幼稚園で習っていた。
もちろん難しくてそこまで楽しくなかったことを覚えている。
2,自信が持てなくなった小学校時代
小学校からは聾学校ではなく、家から少し離れた少人数制の普通小学校に入学した。
同じ障害を持った子供が周囲にいた環境から、いきなり自分だけ障害を持つ人間という慣れない環境に入るということは、少なからず大きな変化だった。
小学校に入ってから同級生に「ロボット」「耳に変なの付けてる」とからかわれるようになった。
そこから「自分に障害がある、人と比べて劣っている」という感覚が強く芽生えてきた。
極め付けは小学校4年の時の担任に言われた言葉である。
嫌がらせや悪口が学年が上がるごとにエスカレートしてきて、たびたびクラスメートと喧嘩になっていた。
止めてほしいと言っても、クラスメートは全く止めない。とうとう我慢できなくなり、手を出してしまって喧嘩になることが多かった。
その時の担任はそうなった背景は全く聞かずに、手を出した私ばかりを非難し、叱ってきた。
そしてその時に言われた
「これだから障害者は...」
という言葉は今でも忘れることが出来ない。
悔しくて悔しくてたまらなかった。
それと同時に自分への自信も無くしてしまった。
小学校とかでは、年度初めに一年間の目標を書かされたりする。
それですらも、自分の思ったことを書くのが怖いと思ってしまい、隣の人のを写してしまうほどだった。
小学校5年生になると、大人数の小学校に転校した。
そこでも忘れない出来事がある。
音楽の時間でみんなの前で1人1人発表するという時間があった。
音の高低もはっきりわからないから、練習しても音程を掴むのが難しい。
私は音痴だったので嫌だと先生に伝えていたが、テストも兼ねていたので仕方なく歌うことになった。
いざ歌ってみるとやはり音痴なので、めちゃめちゃ馬鹿にされた。
「障害があって仕方ないことなのに、なぜこんなに馬鹿にされないといけないのか」
と、どうにもならない悔しさを感じていたことを覚えている。
それ以来、みんなの前で発表したり話したりする機会があると、
今でもその場面が頭に浮かんできて、頭が真っ白になって大量の汗をかくほど緊張してしまう。
3,本当に障害を受け入れることが出来た高校時代
中学・高校では発音や滑舌のことでよく馬鹿にされていた。
自分が何かを話すたびに真似をされる。「止めて」と訴えても、それすらも真似をされる。
その人からしたらいじってるだけのつもりだったのかもしれないが、私はそれがコンプレックスだったから、それが苦痛で苦痛で仕方がなかった。
それが積み重なって、自分に対して何かを言われたら自分の人格自体を否定されているように感じてしまっていた。
口論にすることでその苦痛から現実逃避を図っていた。
今思えば、「劣等感の塊」だった。
私の周りの人は私のことを短気だと思っていただろう。
ただ、私自身もその劣等感が何なのか全く分からなかった。
それに悩んでいた。
周りの大人もその行為に対して注意するだけで、私の悩みまでは介入してくれることはなかった。
中学・高校で嫌がらせがなぜ続くのか?
なぜこれだけ言っても、やめてくれないのだろうか?
高2や高3の時に悩みに悩んでいた。
けれど、いくら他人にベクトルを向けても、まったく答えが出なかった。
その時に、ふと自分にベクトルを向けてみようと思った。
なぜ、自分は自分に劣等感を感じているのか?
なぜ、自分の発音の真似をされることが嫌なのか?
そうして自分と対話した結果、
自分が努力してきた過程を否定された気分になったから
という結論に達した。
もちろん、健常者に比べたら滑舌は悪い。
それでも、全くしゃべれなかったときから毎日少しずつ努力を重ねて、
今のレベルまで矯正した。
それを否定されて、今までの努力が意味のないように自分自身が感じてしまっていることを信じたくなかったのだと思う。
そして、その時にこう思った。
その人が見ていなければ、過程は評価されない。
大半の他人は、過程ではなく事実や結果で評価する。
だからこそ、自分の滑舌が悪いという事実が嫌がらせ(いじり)の対象になったのだと、初めて理解できた。
過程を見ていないのだから、それを言ったところで理解してもらえるわけがない。
滑舌が悪い。耳が聴こえにくい。会話についていけない。
それはれっきとした事実。
障害は個性なんかじゃない。
障害は障害だという紛れもない事実。
しかし、自分の欠点を少しでも埋めようとした努力は決して消えない。
その努力は、自分こそが肯定してあげられるもの。
それらを理解できた時に初めて、自分に障害があるということを受け入れることが出来た。
自分には障害がある。
そのことで苦手なことや不便なこともある。
だけど、決して人生が不幸なわけじゃない。
自分が得意なことや長所だってある。
そこをアピールして勝負していけばいい。
自分で自分を好きになって、自分を肯定して、楽しく生きていく。
そう決めた。
そこから、障害があることを自分から打ち明けられるようになった。
障害のことでからかわれたり、笑われたりしても動じなくなった。
自分に自信を持てるようになった。
4,自分で決めた道を進むということ
1回目の大学受験に失敗して、自宅浪人すると決めた時も周囲から
「自宅浪人で受かるわけがない。」
と馬鹿にされ、反対された。
けれど、「自分は絶対やれる」という自信があった。
自宅浪人は、予備校とは違って教材を与えてくれるわけでも、道標を教えてくれるわけでもない。
一緒に高めあったり、励ましあったりする仲間もいない。
たわいのない世間話をする相手もいない。
自分で自分を律し、自分でPDCAを回して勉強する必要がある。
わたしは一日も勉強を欠かさなかった。
1か月に1回の地元に残った友達との食事が楽しみだった。
二次試験は実技だったから、ランニングや筋トレも毎日欠かさずやった。
結局、現役E判定落ちだったところから、浪人して第一志望に受かることが出来た。
すると、みんなは手のひらを返したように祝福の言葉をくれた。
中には「俺はお前は受かると思っていた」なんて言うやつもいた。
クラウドファンディングで代表資金を100万円を集めようとした時も、
心から応援してくれた人ももちろんいたが
「無理にきまってるじゃん。本当にできるの?」
と言ってくる人や馬鹿にしてきた人もたくさんいた。
それでも、
ほぼ毎日情報を発信し続けた。
デフサッカー体験会などにゲストとしてたくさん参加した。
大学サッカーの試合で観客に多くのビラを配った。
知り合いにお願いしてイベントで5分間だけスピーチの時間を貰って、募金を募った。大阪まで日帰りで行った。
多くの人の支えがあったことは確かだが、結局は達成することが出来た。
そして若者の人は殆どが知っているであろう、株式会社メルカリとアスリート契約も結ばせてもらうことになった。
5,幸せは自分で図るもの
確かに、障害などは社会の環境に左右されることもあるだろう。
けれども、結局は人生の幸せは自分で図られるものだと思う。
幸せに対する価値観は人によって多種多様であり、答えのないものである。
障害があっても幸せに生きている人もいれば、障害がなくても不幸せに生きている人もいる。
お金をたくさん稼ぐことが幸せにつながる人もいれば、人に関わり人の役に立つことが幸せにつながる人もいる。
安定に生きることが幸せにつながる人もいれば、大胆に挑戦しスリリングに生きることが幸せにつながる人もいる。
ここに正解はない。
けれども、
自分を肯定できるか
自分の生き方を肯定できるか
自分を信じることができるか
それだけは幸せになるために重要なファクターだと思っている。
わたしは、以前は自分に自信を持てずに自分は不幸な人間だと思っていた。
しかし、自分にベクトルを向けて考えることが出来るようになって、人生が大きく変わった。明るくなった。
自分に自信をもって生きていること。
自分なりに挑戦し、そこに情熱を注げ続けられるかどうかで大きく変わってくるのだと思う。
今の日本は、挑戦する人を冷笑する人が多いように思う。
他人が挑戦するときに自分ができなかったことを称賛したり見守るのではなく、妬み非難する。
そして、他人のいいところではなく、悪いところを粗探しする。
本当に生きにくい社会で、もったいないと思う。
だれもが挑戦できる社会を作る。
だれもが自分に自信を持てるようにする。
だれもがお互いの価値観を尊重し、受け止める。
そうすれば、みんなが生きやすくて楽しい社会になるのではないだろうか。
また、2020年に東京オリンピック・パラリンピックが開催されることに決まり、日本でも多文化共生やインクルーシブ、障害理解に対する意識は少なからず高くなってきたように感じる。
しかし、まだまだ認知されていない部分や誤解されている部分も間違いなくある。
確かに、僕が受けてきたような嫌がらせも少なからずある。(やった本人はいじりのつもりだろうが、それがいじめにもつながっていると思う)
しかし、それは健常者側に限った話ではない。
障害者側だって健常者側に対して誤った認識を持っていることもある。
確かに、障害、宗教、文化などは多種多様なものであり、1人1人よって程度や考え方は違う。
けれども、障害が比較的軽く、健常者側の世界でも障害者側の世界でも生きてきた、これまでの人生を含めて色々な経験をしてきた自分だからこそ感じたこともある。自分こそが社会に対してやるべきことがあると思っている。
障害、文化、宗教、人種に関わらず、だれもが生きやすい世界を作る。
それを少しでも実現させていくことが自分のビジョンだ。
まずは、自分がその姿をこの世に示し、発信し続ける必要がある。
そこの1つにサッカーやフットサルといった手段も入っている。
障害など跳ねのけて、1人の人間として挑戦し続けることで、他の人に少しでも何かを与えられればと考えている。
それこそが自分の歩んでいきたい道である。
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