廃墟マニア 2/5
ボンペーイ展のことがあって一ヶ月ほどしてから、viridiからの最初のメールが入った。Viridiからのメールはいつもこんな調子で、だいたい一ヶ月周期でくる。待ちあわせの公園へ行ってみると、viridiは車で来ていた。
「今日は一緒に行ってほしいところがあって」
車を発進するなりviridiは言った。やはりviridiの体をつつんでいるのは深紅の、タイトなワンピースだった。
「ああ、いいよ」
いまさらどうすることもできない私は適当に返事をした。
市街地から逸れて、田舎道をすすみ、さらに草深い道を進んでいった。夕陽がまばゆく視界をさえぎるころ、やっと目的地に着いたらしかった。ある一軒の廃屋が目に入った。Viridは車を止めるなり、言った。
「ここよ」
「ここがどうかしたの?」
私は窓ガラス越しにその廃屋を眺めやった。夕陽を浴びて、廃屋は燦然と輝いていた。木造二階建の洋館と入母屋造の平屋の日本家屋が棟つづきになっている。おそらく、洋館の鎧のような板壁も日本家屋の漆喰の壁もかつては真っ白で、今は夕陽の灼熱色に燃えたっていて、うつくしかった。廃屋、と思ったのは洋館、日本家屋のどちらも和瓦葺きの屋根で、ところどろこひどく傷んでいて、ススキやシノブのような雑草が生えだしていたり、庭にももともとの植栽をうめつくすほどヤエムグラがひどくおいしげり、とても人が出入りできないように見えたからだ。だが、よくよく見てみると、傷んでいるとはいっても屋根は瓦がずれ落ちいてるにすぎず、庭はわざと荒れ果てたようにしているだけ。また、窓硝子という窓硝子はすべて割れていなくて、いま、このときにも、燃えたつ洋館の窓のひとつがガタガタと音を立ててぽっかり開いて、ここで暮らしている裕福な若妻が和服姿で、不審な訪問者に警戒の色を見せても不思議ではなかった。
「誰か、知りあいの家?」
「知りあい?」
Viridiは奇妙な皺で眉間をくもらせたかとおもうと、
「そう、知りあいっていえば知りあいかも」
「どういう意味?」
「あなたこそ」
私とviridiは目も見あわせず、漏れる笑いをこらえなかった。
「八重葎、繁れる宿の寂しきに、人こそ見えね、秋はきにけり」
いきなり、viridiが呟いた。
「知ってる?」
「あぁ、百人一首の……」
「そう」
私はおかしくなった。どうやら燃えるような深紅に身をあずけるviridiも、私とおなじ哀愁や感慨をこの和洋折衷の屋敷に懐いているらしい。
「けど、それをいうならやっぱり……」と私はすこし言葉に詰まり、つづけた。
「いま、とつぜん、窓が開いて……なかから夕焼けにかがやく荒れ果てた庭の風情を楽しむ、美少女の姉妹……。こんなすさんだ、世間からうち捨てられたような屋敷には、まったく似つかわしくないほどの……」
「くふふ、源氏物語?」
「かな? いや、というより、荒れ果てた屋敷が見るもののこころに呼びこむ、ありふれた哀愁……」
私はこんなステレオタイプなイメージを口にしたことに恥じらいを感じて、照れをごまかすように弁明した。
「さあ、それじゃ、あなた、その美少女姉妹に会いに行きましょうよ?」
Viridiはそう言うと車を降り、勢いよくドアを閉じた。
すでに夕陽はしずみ、屋敷は燃え尽きたかのような残骸だけをのこして闇のなかに沈んでいた。用意周到なことに、いつのまにかviridiは大型の懐中電灯を手にしていた。
「こっちよ」
あたりは雑草が生い茂っているのに、車から庭先まで、踏み固められたケモノミチのような道が一本、つづいていた。ふり返って車の方をよくよく見てみると、こころなしか雑草のなかに轍のようなものがつづいているようにも見えた。ケモノミチは、車から庭先どころか、前庭のなかを横切って玄関の方へまっすぐにつづいている。
「人こそ見えね、どころか、ここはよく人が来るところなの? それとも、ほんとに人が住んでいるとか」
「まさか」と、viridi。
「もし、ほんとに人が住んでるなら、電気ぐらいつけるわよ」
Viridi が庭に足を踏み入れた途端、いっせいに虫たちの声が静まった。ヤエムグラの生い茂った前庭のケモノミチを、viridiのあとについて行った。ときどきviridiの手にする懐中電灯の光が私たちの行き先を不安定に切り取って見せた。洋館の壁は夕陽に輝いていたときほど美しくないばかりか、塗装ははげおち、腐り、板は割れ、剥がれ、下地がむき出しになったり、穴さえ空いているところもあった。そんな一瞬、意味をもつ連鎖の一部が光によって切り取られたように見えた。
「医院?」
私は目に射しこんできた文字のままを声にした。
「そうよ」
「なるほど。和洋折衷の、レトロな医院ってわけだ。何科?」
「行けばわかるわ」
とつぜん、私の目にするどい光輝がうつりこみ、私は立ち止まっていた。建物のなかから誰かが私たちを照らし出している。硝子張りのおおきな引き違い戸のまえに、viridiと私は立ちすくんでいた。
「ここが、玄関よ」
私の目にうつりこんできたのは、他の闖入者のものではなく、viridiの懐中電灯の光が、未知と私たちを隔てる玄関の硝子戸に反射したものだった。
「洋館なのに、ドアじゃなくて、ガラス張りの引き戸なんだ」
「入る?」と、まるで自宅のようなviridi。
私は両手を広げて首をすぼめて見せた。Viridiの意図がよく呑みこめなかった。
「ぅふふっ」
と、どこからともなく漏れきこえた掠れた風の音は、きっと、viridiのあの深紅の裂け目をふき抜けてきたにちがいない。
ガラガラガラ……。
夜の闇を引き裂いて、その高みへと登った音は、地上で鳴いていた虫たちに、また、静寂を降りそそいだ。人が住まなくなってどれほど経っているのか。こんな廃屋だからさぞかし手間取るだろうと思ったが、案外すんなりと引き戸は開いた。人の生活とは縁の切れた、とはいっても自然とも野生とも違う、半醒半睡の冷気が肌にまとわりついてきた。
「考えすぎよ」
私が感じたままを口にすると、viridiは否定してから、
「でも、素敵。あなたにきてもらって、ほんとによかった」
と、ぷるんとした深紅にしっとりと笑みをうかべた。
ほんとうはviridiのほうがぞくぞくしていたにちがいない。Viridiは、終始、深紅から露出したなまみの肩や腕を、掌で覆ったり、両腕で抱くようにしていた。懐中電灯の光がちらちらときりとるviridiの肌組織は、ふつふつと沸き立ち泡だっていた。いや、深紅に包みこまれていた部分こそ。ポンペーイの滅亡したあの日、大股をおしひろげて、深紅から露出したviridiのあのやわらかい内腿。あおじろい、ほのかな月明かりにてらしだされたそのほのしろい内腿にも、こまかな、とがった、霰のようなぷつぷつが波立ち、私の指をここちよくなでた。私の指先、ゆびのはら、くちびる、舌先、てかつく亀頭……。泡だつviridiのつぷつぷの肌は、何で味わっても、ここちよかった。……
「受付ね」
「ああ。で、こっちが待合室……」
受付の硝子戸のむこうには、どんな看護婦が座っていたのだろう……。狭い待合室には長椅子。イスは革張りで、埃を払い汚れをきれいにすれば、まだ充分つかえそうに見えた。本棚があり、つい昨日まで使われていたようだと思ったのは、本のうえに積もっているあつい埃に気がつかなかったからだ。私は、一冊、てきとうに抜き取ってみた。Viridiが横から光をあてた。
「へえ……、漫画本なんだ……、ベルサイユのばら? 初版発行、一九七四年……」
私はなにか衝撃をうけて言葉が途切れ、つづけて、慌ててその釈明をしていた。
「あんがい、新しいんだ……」
「そう? あたしはまだ生まれてない」
Viridiが歌うように言った。
「ええ、そう……?」
「ええっ。あたしって、そんなに老けて見えるのかな?」
「いや、そんなこと、ないけど……」
私は慌てて、さらになにかの弁明をしなければならなかった。Viridi の年なんて気にしてもいなかった。そうだろう、今夜でまだ二回目なのだ。そんなことよりも、一九七四年発行の漫画本がこんな廃屋に、廃屋にとけこみ、廃屋にながれる時間の一部になっていることがショックだった。私が十一歳の頃の本。それがこの廃屋の時のなかにとけこむことによって、まるで、私たちとは無縁な世界のものとなっている。私が生まれた後にこの世の中に存在するようになったものだというのに、私をとおりこして、私のむこうがわのものになっている。それに……、懐かしいというのではない。うちにもあったのだ。この『ベルバラ』。まったくおなじ単行本。私のなかの血の通った思い出の一部が、廃屋の一部になっている……。
「どうしちゃったのかな、オ、ジ、サ、マ」
Viridiが茶化すように口を挟んだ。
廃れた産院の探検はそれで終わりではなかった。いや、viridiのほんとうのたのしみは、玄関や、受付や、待合室や、診察室や、病室や院長室や……そんなところにはなかった。産院のあちこちには、いろいろなものが散乱していた。中絶許可書、アンプル入りの薬品、医療機器、医療器具、赤ん坊の衣類や看護師の制服、雑誌、おもちゃ、熊のぬいぐるみ……産院だからこそというものはもちろん、人が生きていくうえで必要不可欠なものまで。もし、食糧さえ確保できれば、いますぐにでも日常生活が成り立ちそうに思えた。
「ああ、ここが分娩室よ!」
その部屋に入るなり、viridがさえずるように言った。
部屋の真ん中に、一台、どっしりとした分娩台が備えてあった。天井には円形の無影燈。ふるい木が腐った臭いや、床下から這いあがってくる湿った土の臭いのほかにも、なにか特異な臭いが私の鼻を刺激していた。分娩台は、相当な時代物のようで、真鍮色をした金属から革の紐がたれさがっている。Viridiは分娩台を愛撫する手つきで指をはわせながら、ふれている部分の名称を、上気しながら、歌うように、ひとりごとのように語っていった。
「……ここ。……ここが、怒責棒。出産の時、ここを握って、いきむの……。ものすごい力がかかって、曲がっちゃうこともあるんだって。くふふ……、これも、すこし、反りかえってる……。それにしても、ドセキ、棒、だなんて。なんか、イヤらしい……」
しばらくその部分にいとおしげに指を絡めていたかと思うと、
「ここが、シキャク器……」
と、先ほどの真鍮色の金属の部分に指をはわせた。
「ここに、腿をのせるの。あられもなく、おおまたびらきで……。ああ、それにしても、その腿を固定するために、こんな革紐をつけちゃうなんて……。この分娩台を考案した男は、きっと、どうしようもない拘束マニアね……」
言うなり、viridiは革紐を鼻にあててしばらくうっとりとしていた。
「それにしても、この背板の角度……。これは、やっぱり、最後に出産した妊婦のカラダなりのままなのかな……」
分娩台の鑑賞を終えると、viridiは窓際にある卓のうえから、なにかをつかんで私に示した。
「ほら、こっち、こっち」
闇から切り取られた光のなかに、掌につつまれたちいさな瓶が浮かびあがっていた。瓶詰め。胎児の。まだ、人のカタチさえしていない。両生類か、爬虫類のような。おなじような瓶が、卓のうえにはずらりと並んでいた。いや、瓶には大小があり、viridiの懐中電灯の光が時を与えるとともに、なかの胎児も次第に成長していった。そして、よくよく見ると、瓶には、その胎児がこの世界に存在してからの時間を示すラベルが貼ってあった。「72時間」、「第一週」、「23日」……。
「ああ、オジサマ……」
とつぜん、viridiはおかしな声をあげた。分娩台にあがり、妊婦のように支脚器に腿をのせて、両脚をひろげていた。深紅をお腹のうえまでまくりあげ、屋根のすきまから漏れ入るあおじろい月あかりにうっすらと恥毛がもえたっていた。
「お願い、ももを、拘束して」
言われるまま、私は、あの革紐でviridiの腿を固定していった。あおじろいすべすべとした肉は霰のように泡だち、ざらつく革紐が食いこんだ。亡霊のような分娩台に生きた女の白い肉が縛られていた。
「あああ……」
Viridiは瓶をもっている手を、ひろげた股にあてがっていた。あおじろい月明かりのなか、ながい細い指がしなって、深紅の爪先には瓶の底があり、瓶の先にはviridiの深紅の裂け目があった。もうすでに、瓶は、半分以上、viridiのなかに入っていた。
「あぁ、オジサマ、……ここで、この分娩台で、いったい、何個の命が、産みおとされたことでしょう……」
Viridiは瓶をさらに押しこみながら歌うように言った。
「何百、何千という、いのちたち……。そして、産みおとされた命は、どうなったのでしょう? いや、もう、死んでいたものもあれば、まもなく死んだものもあるでしょう。しばらく生きたものも、長生きしたものも、戦争で死んだものも、痴話げんかで死んだものも……。なかには、自分が生まれ出たここで、次の新しい命を産みおとしたものも……」
Viridiはゆっくりと瓶を出し入れしていた。リズミカルに、二個の深紅を操り、腰を動かし、瓶はviridiのなかにすっかり沈みこんだかと思うと、ときとしてぷしゅっと勢いづいてはじき出されるようなことがあったり、絞り出されるようなことがあったり、押し出されるようなこともあった。が、二個の深紅は落ち着いていて、また、ゆっくりと、いとおしげに、瓶をviridiのなかに押しもどすのだった。液体が八分目ほどしか入っていない瓶のなかで、両生類のような胎児がゆらめいていた。胎児は瓶につつまれたまま、尻尾からviridiの深紅の裂け目のなかに吸い込まれていき、頭をのぞかせ、また、尻尾から呑みこまれ、頭からしぼりだされ……。
私は、viridiの指をとりのけ、瓶の底に亀頭の先を押しあてた。硝子の底はひんやりとしているかと思ったが、viridiの体温と愛液でなまあたたかかった。そして、ゆっくり、注意深く、瓶が飛び出してしまわないように、腰を前後しはじめた。
「ああああ……いい」
Viridiは腰を突きだし、怒責棒をにぎり、やさしくしごきながら、腿を外側によじるようにして、リズミカルに腰を動かしはじめた。
「この子を、こうやって、あたしたちの愛で、あたためるの」
ふるびた分娩台にうっとりと身を任せ、漏れくる月影を追ってうっすらとあけた視線を中空におよがせて、viridiは口走った。
「いっぱい、こすりあい、しごきあい、愛しあって、あたためる……。あたしの膣で、まさつで、体温で、……あたしたちの愛で」
怒責棒をしごくviridiの指が流れにゆらめく梅花藻のように、せんさいに、やさしく、次第にはやくなった。私は少しずつつよく、ちからをこめて、リズミカルに、そう、viridiの奥でいきどまっている瓶の先端にアクセントをおくように、腰を蠕動した。Viridを感じさせているものが直接には私の性器ではないことがせつなく、私の腰をよりはげしくした。
「ああああ、いい、そう、そこ……」
Viridiの腰の動きが小刻みに、しだいに昂じていった。
「あああああ、そう、こうやって、うまれるの。この子も……この、オタマジャクシの出来損ないのような子も……。あたしとアナタの愛で……うまれるの、あたしとあなたのぬくもりで……あああああ……」
Viridiの腰のゆらめきと私の腰の蠕動が必ずしもシンクロしなくなってきた。Viridiが押しだすとき私が突き入れたり、私がひいたときviridiが吸い込んだり……いや、しかし、これもシンクロだった。Viridiの膣のなかを往復するこの赤子は、愛液とカウパー液にまみれて、ぬるぬるになっていた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ウマレル、ウマレルッ、デルッ、デル、イクッ、イクッッッ」
突然、viridiの膣が激しく収縮し、私の力の支点が右に逸れた。瓶が勢いよく飛びだし、瓶は私の鼓動と一刹那交じりあい、とけあい、あじけなく床にころがった。私は拾いあげた小瓶をふたたびviridiの深紅の裂け目に突きたてると、亀頭でその底をゆっくりとおしもどし、viridiとも交わった。やがて私がviridiのなかで射精したことを、viridiは知らなかった。
こんなことを空想するだけで、興奮しちゃうの。
数日してからviridiはメールを送ってきた。
あの小瓶が、あの、アナタとあたしの愛にまみれたあの小瓶が、アナタの精液とあたしの愛液にとろけたまま、いまも、あの廃れた産院で、あおじろい月あかりにてらされて、何食わぬ顔で、あの瓶の群れのなかに混じっているかと思うと。
そして、ある夜、やっぱりあたしたちのようなカップルがあそこを訪れて、あの小瓶を介してじぶんたちの愛を確かめあう。
そうやって、あの小瓶は倒錯したカップルたちの愛の証を吸収しつづけていくし、吸収しつづけてきたのよ。
あの小瓶を満たして、カエルのような、イモリのようなあの子のこの世でのカタチの記憶を保ちつづけているのは、けっして、ただのホルマリンじゃない。あたしたちのようなカップルの、愛のエキスなの。
たしかに、私が射精した刹那のことは知らなかったが、あとで、自分のなかからとりだした小瓶がどっぷりと私の精液にまみれていることを知って、viridiは喜んだ。
つづく
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