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「バードコール 小鳥のくちびる」 第三話

 「揚げヒバリ」はもう「揚げヒバリ」にはきこえなかった。自分でもよくわかる。うわずっていて、興奮にふるえていて、下心が見え見えな欲望にまみれていた。青空のかなた、どこまでもどこまでもただ青一色の無垢で澄みきった大気の深淵に思いが到達することなど、もうなかった。さえずればさえずるほど、コルリの重力と深みに沈みこんでいくのがわかった。黒いレースのマスクをしたコルリのことが頭を離れなかった。何度も、コルリの名を呼びながらひとりで……。それがすむと、自分のなかみがすべて絞り出されてしまったようなふかいため息をついた。いや、なかみが絞り出されたというより、なかみが腐ってなくなってしまった革袋がつくようなため息。コルリでひとりエッチしてるのがうしろめたいというのではなかった。コルリがここにいないことが私を腐らせていくのだという、そんな気持ちに憂鬱になった。なんどひとりエッチを繰りかえしても、ここにコルリがいないことにはかわりなかった。
 ときには、コルリとさえずりあっているうちにどうしようもなく気持ちが昂ぶってしまい、ひとりですることもあった。「ときには」という限定は私の恥じらいにすぎないのだけど。そんなときはもう、こちらからさえずることはできなくなって、ただ、コルリのさえずりを聴きながら、コルリのさえずりに溺れて、射精した。そう、私からのさえずりがかえってこなくても、それでも一二度コルリはさえずってくるのだったが、それでもさえずりかえさないとコルリのさえずりもかえってこなくなる、そんなとき、私は、コルリも私のことを思いながらひとりでしてくれればなどと、なんの根拠もない虫のいい想像をたくましくて、なおさら興奮した。ただ、コルリのさえずりは、どうしてだろう、どう聴いても、私のさえずりのようにうわずったりしていないし、抑えがたい興奮にふるえている様子もなかったし、なによりも、見え見えのしたごころやあやしい欲望など、みじんも感じとれなかった。どこまでも澄みきっていて、空の彼方のあの深淵へとひたすら意識が飛翔していく、そんなさえずりだった。そのさえずりに誘われて、私は、意識を空の彼方の蒼い消失点へと飛ばして、射精した。
 一週間して、約束したとおり、私はまたコルリとチャットした。「会う」と、チャットで話すことをコルリと私は言っていた。考えてみればおかしな話しだった。チャットで「会う」までにも、何度となく私とコルリはさえずりを交わしていて、私に限れば、なんどコルリとしたことか。もちろん、ひとりでだけど。ひとりエッチでしたことを「した」とは言わないだろう、二人でした、とは言わないだろう、もちろんそうなんだけど。でも、ひとりエッチをかさねるたびに、勝手に、私のなかではコルリが近しい、親しいものになっていった。昨日よりは今日、さっきよりは今……もう、何度、あの艶やかで豊かな黒髪と黒いレースのランジェリーにつつまれたコルリのからだをこの腕に抱きしめたことか。何度、コルリとつながったことか……私ひとりの妄想のなかで。
 
  ねえ 黒いレースのマスクのコルリ、どうだった?
 
 挨拶がすむといきなり、コルリはこんなことを切り出してきた。私はどきまぎしてしまった。
  ぇ、ぁ……
  この前 言ってたわよね ヒバリくん すごく素敵だって それだけじゃなく 言外になにかいいたそうだったし……(笑
  え、あ、え……言外、って。チャットは文字だけなのに、そんなこと、わかるんですか、コルリさん
  わからない? そうね リアルなら 目の動きや瞳孔のひらき具合 息づかい くちびるのちょっとした動き 顔色 ほかにも小鼻がひくひくしたりとか……いろいろあるわよね 言外 もっとも マスクで顔半分が隠れてるいまどきはどうなのか
  けどね チャットだってわかるのよ あるのよ 雰囲気が レスがかえってくるまでの間とか そこから推測される文字を打つ速度のちがいとか 打ち間違いとか でも それ以外にも 伝わってくるものがあるのよ わかるでしょ ヒバリくんにも?
  ぇ、……
 「うふふ、わかるでしょ、ヒバリくんにも。たとえば、コルリが、今、なにを考えてるのか」
  な、なに考えてるんですか……
 
 また、はっと思いあたった。コルリと話していると、いつの間にか私は丁寧語を使っている。同い年くらいの相手なのに、どこかおかしいと自分自身思いながら。言葉遣いだけじゃなく、気持ちまでそんな気持ちにさせる、コルリの話し方には不思議な力があった。

  ネ アテテミテ?

 コルリが考えていることなんて、コルリの頭のなかのことなんて、私にはまったく見当もつかなかった。でも、ひとつ、たしかなことは、私自身がなにを思っているのか、考えているのか、それだけは否応なく知っていた。
 「くちびる」
 しばらくためらってから、私は、思いきって言ってみた。
  クチビル? くちびるがどうしたの ヒバリくん?
  コルリさんの、くちびる、……
  見たいの? 
  今も、してるの、あのマスク? 
  どのマスク?
  このまえの黒いレースの……
  はい って言ったら?
  まさか、ひとりでしょ、今?
 「そう? ひとり、なの、今? ヒバリくんとコルリ、ひとりなの?」
 「ぇ、……ん……」
 「思いだして……、この前のこと……」
 「ぅ、……ん……」
 「今も、ヒバリくんとコルリ、ふたりきりで、おなじ部屋にいて、こうして話してる……のよ……ね……」
 「ぅ、うん……」
 「だから、マスク。ヒバリくんもつけて?」
 「ぅ、ぅん、わかった、マスク、つける……ね」
 実際にはおなじ部屋にいたわけではないのに、あとでふり返るとなおさら、黒いレースのマスクをつけたコルリがそこにいて、黒いレースのキャミ姿のコルリがここにいて、話すたびにふるえるマスクのレースまでも目にしていたと、とじたまぶたのこちら側に生き生きとした感覚が蘇ってくる。
 「どう?」
 「ぅ、……ん……、ほんと、コルリさんが隣にいるみたいな……」
  うふふ かんじやすいのね ヒバリくんって
 「そうなの……かな」
 「いいのよ、恥ずかしがらなくても。すてきよ、ヒバリくんって……」
  ふぅぅぅぅっ
 「んんっ」
 ふいに、耳元にコルリの湿ったあつい息を感じて、ビクリとした。ただ、デバイスに文字が「ふぅぅぅぅっ」とあるだけなのに。
 
  ごめんなさい 電話 とコルリは言った。
結局、その日はそのままコルリとわかれた。別れたあとも、コルリのささやきがあたった左耳がじんじんしていた。耳の穴からすべりこんできて頭の奥へとしみこんでくるコルリの熱いささやきと息づかい。背筋がぞくぞくして、脳みそがやわらかく茹だってほんのりと赤く染まっていく……。コルリが身をよじるたびにかすかに聞こえるキャミの衣擦れの音や……、座布団にこすれる肌の音や……、距離を隔てたコルリのぬくもり……、ありもしなかったものが生々しく蘇ってくる。耳に息を吹きかけようと顔を寄せてきたコルリから、そう、あの手紙の香水の香りが私をつつみこみ、コルリの白い肌のうちに秘められた生命のざわめきまでを感じた。
そのコルリが、今は、いなかった。馬鹿げたことだというのは私自身がいちばんよくわかっていた。存在していたのは、ただ、コルリが打ってきたデバイス上の文字にすぎなかった。でも、たしかに、コルリの熱いささやきが左耳からしみこんできて脳みそをなでていくほど、コルリはすぐちかくに存在していた。焦って、私は棚の抽斗をあけるとコルリからの手紙をとりだし、だきしめるようにして匂いをたしかめた。まだほんのかすかに残っていた香りがしずかに胸にしみてきた。
 私はさえずってみた。コルリからの返事はなかった。……なんどもなんどもコルリの名前を呼びながら、今失ったばかりのコルリをなんとか手元にとりもどしたくて、一人エッチした。左肩にふれたコルリの髪の感触や、耳の繊毛をなでていくコルリの湿った熱い吐息がよみがえり、たしかに、その瞬間に、私はコルリをこの手のなかにとりもどすことができた。だが、過ぎてしまえば、コルリの存在の感触は、凍えて冷え固まり、肌の奥ふかくにこびりついた瘡蓋のようになっていた。コルリの髪がふれた肩からうなじ、熱いささやきが吹きすぎていった耳介に指をおいて、なんども、瘡蓋のように冷え固まったコルリの存在の痕跡を愛おしむしかなかった。
 コルリ、さん……
 気がつくと、封筒の角をくわえていた。唾液が滲み、封筒の角はちぎれて、くちびるにはりついていた。
 コルリからのメールをひらき、コルリを求めて、なんども読みかえした。だけどチャットのように、いきいきとした、いのちのざわめきを秘めたコルリは蘇らなかった。それどころか、メールを読めば読むほど喪失感は膨らんでいった。なのにコルリを求めて、なんどもメールを読み返さずにはいられなかった。
 「あの……」
 エレベーターホールで、すれちがいざま、いきなり声をかけられた。れいのあわいピンク色のポリウレタンのマスクがふくふくと膨らんだりへこんだりしていた。
 けど、ちがう、コルリの声とはちがう、と私はとっさに思った。熱く湿った吐息とともに耳から侵入して脳みそをなでていったあのコルリの声は、こんな声じゃなかった、と私は思った。
 
 そのコルリは「ヒバリくん」とも呼ばず、いきなり、すれちがいざま、さえずりかけてきた。「あの……」と聞こえたのは、さえずりを私が人の声に聞きなしただけかも知れなかった。驚いてふりかえると、メガネのレンズのおくになんとなくやりにくそうな微笑みをうかべたコルリが、またさえずって見せた。私はそんなに無愛想な表情でもしていたのだろうか。いや、たしかに、あの時聞いたのとはちがうコルリの声に、怪訝な表情をしていたかも知れない。
 私も、思わず、ポケットのなかにつっこんでいた片手で、さえずっていた。コルリもさらにさえずりにこたえてきた。どうやらコルリはパーカーのポケットにバードコールをもっているようだった。
 私はズボンのポケットからバードコールをとりだして、両手でさえずった。
 「あ、SASAKIのバードコールなんですね。じつはわたしも……」
と、コルリはマスクで籠もった声で言うと、パーカーのポケットから手を出して、バードコールを私に見せた。やっぱり、あのコルリの声とはちがう。
 「いいんですよね、とっても、SASAKIのって。楓と真鍮の音色がソフトでやさしくて。……キュチュッキチュッ、チッチッチッ、ツゥゥーーィッツゥーーィッ、チチチチチチッ」
 「キュッチュッチュッ、チチチチッチッ、ツゥーーイィッツゥーーイイッッ、チチチチチチチッ……ぼくもアメリカのポン・デュ・オーよりSASAKIの方が好きで。音色がとてもきれいで」
 私もマスクに籠もった声でこたえた。
 「キュッチュッチチチチ、ツィーーッ、そう、ですよね、チィッチィッチッ、繊細ですよね、SASAKIは。日本製、って感じで」
 「チッチッ、チチ、ほんとにチチチッ、ツィーーッ、そうですよね。こんなちいさなものだけど、日本のツイーーッ、チチチ、職人技、みたいな。チッキュイッキュィッ」
 コルリと私はいつのまにかさえずりながら人の言葉をあやつり、自然にうちとけて微笑みあっていた。
 「チュッチッチチチチ、これからお買い物ですか? チチチチ、チューゥィッチューウィッ」
 「はい、ツゥイーーッキュイキュイキユィッ、どうせ、いつものコンビニ弁当なんですけどね、チッチッチッチッチッッッッ」
 「チュチュッ、ツイーーッチチチチ、もしよかったら、いっしょに、ゴハンしませんか? チチチチチチチ」
 「ぇ、いいんですか、ツゥーーイッツゥーーイッ チュチユチチチチ、キッキッキッ、キュゥゥーーィッ」
 「はい……チッチッチッ、わたしもこのごろコンビニ弁当ばっかりで、キュィキュイッキゥイイーーッあきちゃって。それで、ひさしぶりに、チッチッッチッなんかつくろうかな、なんて。キュルッキュゥルルルルルルッッキィーールッそしたら、材料、買いすぎちゃってキュウゥゥゥゥゥゥッッッルルッッ」
 「チュイッ、チュィッ、チ、チ、チ、チ……」
 「遠慮、しなくても」
とマスクに籠もった人の言葉で言うと、コルリはとても見事に、あかるくさえずって見せた。
 ベーコン、たまねぎ、にんじん、万願寺とうがらし、えのきだけ、たまご、買いすぎたとコルリは言っていたけど、どれも今つかいきらなければならないものでもなかった。これらと固形スープ一個、冷凍ご飯で、コルリはリゾットをこしらえた。ちょうどいい器がひとつしかないというので、私は自分の部屋からよさそうな丼鉢をもってきた。器につけ終わったリゾットからは湯気がたちのぼり、マスクをしていてもいい匂いがしてきた。
 「チュッ、チチチチチチ、キューーィッ、できあがりはシンプルだけど、結構、手間がかかるんだよね、これって」
 材料を小さく刻むのが結構手間なのだ。コルリがリゾットと格闘しているあいだ、コルリが指定した場所に座って、私はぼんやりと部屋をながめていた。独り暮らしをはじめてから自炊することもある私は手伝おうかと言ってみたが、キッチンは狭すぎるから、と追い払われた。たしかに、ワンルームマンションにありがちな通路のようなキッチンでは、お互いに体がぶつかったり、ふれあったりしてしまうにちがいなかった。女子の部屋というのは、妹がいたせいもあって、私にとってはそれほどとくべつな空間ではなかった。もっとも妹が中学生になると厳しく「男立入禁止」令が発令されて、それでも私はときどきさすがに鍵まではかけてなかった妹の留守の部屋を、なにかしらの理由をつけて、こっそり覗いたりしたものだったが。
 コルリの部屋はシンプルで飾り気のない部屋だった。ベッドにはやはりあわいピンク色のカバーの羽布団。布団カバーだけではなく寝具全体があわいピンク系でコーデしてあった。なにげに気恥ずかしくて、私はベッドを見なくてすむように座った。学習机はなくて、座卓と座布団、クッション、本棚、クローゼット、座卓のうえにはオンライン授業用のパソコンなど、あるものは私の部屋とそれほどかわりばえはしなかったけど、どこもあわいピンク系で、飾り気がないとはいえ、ファンシーな雰囲気がただよっていた。それに……、しばらくして、私はかすかに、線香かアロマのような、なにかいい匂いがしているのに気がついた。ほんのりと胸にしみてくる。マスクをはずしてもっとよくこの香りを嗅ぎたい衝動に駆られたが、それは我慢して、マスクのしたで思いっきり深呼吸してみた。深呼吸をくりかえすうちに気持ちは静まり、眠気さえ感じはじめた。とつぜん、どきりっとして目を見開いた。あの封筒が唾液でちぎれて、くわえていたくちびるから、あぐらをかいている腿のうえに落ちてきたのだ。一瞬コルリにすべてを見透かされているような気がしてどぎまぎしながらあたりを見回していた。コルリはまだキッチンにいた。キッチンからリゾットのおいしそうな匂いがただよってくる。
 「キュキュキユーーィッ、チチチ、そろそろできるよ、チチチ」
 「チチチチチチ」
 食べるとなると、コルリも、私も、マスクをはずさなければならなくなる。それぞれの器にリゾットをよそい終わったコルリは、深いため息をついた。私は自分のどんぶりを持って、部屋に帰った。
 「チチチチチチチチ、キューーィッキューーーッ、ツィィィーーーーーーッッ」
 「チュィッ、チュッチュッ、チューーイッ、ツツツツツツ、チィーー」
 お互いの部屋でリゾットを頬張りながら、私とコルリはさえずりあった。さえずりあいながらリゾットを頬張り、リゾットを頬張りながらさえずりあった。コルリのつくったリゾットはとてもおいしかった。
 「チュキッ、チュキッ、チリリリィッ、チリリリィィッ、チュキッ、チュリリリリリッ」
 私は、とっておきのさえずりをした。今までまだ私以外、聞いたことのないさえずり。
 「チュリリッ、チュリリリッ、チィューーッ、チュイーーッ、チリリリ、チリリリッ」
 コルリからも今まできいたことのない特別なさえずりがかえってきた。

 どう考えてみても、この手紙の香水の香りの主とあの線香かアロマの香りの主が、おなじ好みだとは思えなくなった。この黒いレースのマスクとあのあわいピンク色のポリウレタンのマスク。たとえ私にしか見せたことがないとはいっても、あわいピンク色のポリウレタンのマスクをしているあのコルリがこの黒いレースのマスクはあまりにも不似合いな気がした。それに、黒いレースのマスクのコルリはたしかに「ダンナだって、まだ、見たことがない……」と言ったのだ。髪もちがっていた。ピンクのマスクのコルリのニット帽からでてきたのは、こんなにもゆたかにうねりながら流れおちていく妖しく艶めいた黒髪ではなくて、顎のあたりで毛先がゆれるショートヘアだった。コルリがなにか言うたびに、さえずるたびにその髪はさらさらとここちよさげにゆらめき、声やさえずりとはちがう視覚の音楽を奏でて、私はついつい目を奪われてしまっていた。黒いレースのマスクのコルリは絶対メガネなんかかけていそうになかった。ショートヘアのコルリのメガネにはすこし度がはいっていた。メガネが、知的で鋭いというよりも、やさしくて情緒的な雰囲気をかもしだしていた。そのレンズの下の瞳は、まだ硬くて、閉じていて、ある刹那刹那、世間ずれしていないういういしいかがやきがひらめいた。だがその本来のかがやきを、どんよりと澱んだあつい雲からもれてくる微かなひかりのようにしているのは、やはり、こんな閉じこもり生活なのだろう。もしかすると、私の目もこのショートヘアのコルリの瞳と似たり寄ったりなのかも知れなかった。ほんとに、こんなに近くで、たとえ短い時間でも、こんなに親しく他人と話したのはいったい何ヶ月ぶりだろう。知らず知らずのうちに、私は、古い記憶を愛おしむ人のように感慨にひたっていた。
顎の高さでゆらめくあの繊細な髪……、その髪に指先をふれてみたい……そう、あの毛先に利き手ではないほうの五本の指先を触れるかふれないかで、彼女がなにかさえずるたびに伝わってくる、こころのせんたんのふるえやさざめきを感じとることができたら……。いつしか彼女のさえずりが聞こえてくるようで、指の腹には、さらさらと彼女の髪の感触が感じられる……。いや、聞こえていたのはリアルのさえずりだった、彼女が、ショートヘアのコルリがさえずっている。
 私はあわててテラス窓のすきまに顔を押しつけてたしかめた。こんな時間だから、おやすみなさい、とショートヘアのコルリはさえずっているにちがいなかった。
 チッチッ、チュィーーーッチュイーーッッ、今日はとても楽しかった、ありがとう、またあした、ね。おやすみなさい。チュッ、チュッ、チュッ
 チッチッッ、チュゥーーイッ、チューーーイ、こちらこそ、ごちそうさま、とてもおいしかったよ、リゾット。ありがとう。それじゃおやすみ。またあした。チュッ、チュッ、チュッ
 彼女のさえずりが聞こえた方向から、窓を閉じる音がした。
そういえば、彼女、なまえ、なんていうんだろう。今頃になって自己紹介もろくにしていないことに気がついた。
 ゆたかな黒髪のコルリからメールがきた。
 あぁ、そうだった、なまえどころか、メルアドやアプリのアカウントもきいていないことにも気づいた。でも、と、私は思ったものだ、必要ない、そんなもの。ショートヘアのコルリとのあいだには、さえずりがあるのだから。
 
 どうしたの、ヒバリくん、こんな時間に?
 
 えっ、なんのこと、ですか、コルリさん……
 
やっぱりふたりは別人だった。私はどぎまぎして返信した。
 
 だって、さっき、さえずってなかった? こんな時間に……
 それとも、コルリの空耳かしら?

 ぁ、はぃ……ちょっと、なんか、手持ちぶさたで、さえずりたくなっちゃって……
 
 うふふ、さみしくなっちゃったのかな、ヒバリくん
 
 え……、はぃ、うん、そう、かも……
 
 でも、今夜だけかも。こんなふうにメールできるの。
 今、ダンナがお風呂入ってて。だから。
 あ、でも、もうそろそろでてくる。
 それじゃ、ね、おやすみ、ヒバリくん。
 あ、そうだ、追加の画像、おくってあげるわね。
 衣片しく独り寝がさみしいヒバリくんに。
 うふふ
 
 う、ぅん、ありがとう、コルリさん。
 それじゃ……、おやすみなさい……
 
 チュッ
 
 ……そのメールにはただ、「チュッ」とあって、画像が添付してあった。添付ファイルをひらいた瞬間、思わずさえずっていた。チ、チチチチ、チチチ……動揺で、さえずりが震えていた。でも、さえずることで、逆流していた血液の気が抜けていき、その場にじっとしていることができた。
 最初に、そのしろい、ちいさな耳介が目に飛び込んできた。コルリは、顔をすこし右にむけて、あの流れおちるようにゆたかな黒髪をかきあげていた。耳があらわになっていた。アングルがうまく調整されていて、やっぱり目元はみえなかったけど、ほんのりと赤く染まった耳たぶから顎、うなじ、肩へと、あの香水のにおいがかすかにただよってきそうだった。すべりおちていく肩へのふっくらとしたラインには黒い細いキャミの肩紐がやっぱり横切っていった。
 コルリの白いちいさな耳介がまぶたの裏に焼きついて離れそうになかった。ただ、白いまぶしい耳介いじょうに私の心臓を一瞬にして石にかえてしまったのは、マスクの紐がはずれていて、めくれたマスクから、隠されていたコルリの頬の半分がのぞいてみえたから。ほんのりと血色のいいコルリの頬、その奥に、あのくちびる……。そう思うといてもたってもいられなって、見えるわけもないとわかっているのに、頬とマスクのすきまからコルリのくちびるが少しでも見えないかと、見る位置や角度をかえて何度も透かし見ようとしたり、画像の鮮明度をあげたり、影をとったり、コントラストや露出をかえてみたり……。石のような心臓が重くかたくあまりにも高鳴り、できるものなら吐き出してしまいたかったけど、そのかいもなく、コルリのくちびるは見えなかった。
 
  明日、もし、ヒバリくんに時間があれば。
  おなじところで、おなじ時刻に。
  部屋、とっといてほしいな。
 
 どうせ、講義といっても大教室のオンライン授業で、九十分間話しつづける教授が映っているだけだった。約束の時間の三十分もまえに私は部屋をとって待っていた。約束の時間から三十分してもコルリはこなかったし、メールもなかった。私はイライラどきどきしていた。教授の話もかったるかった。ああ、あそこか、と前もって教科書を読んでいた私はさらにいらいらした。コルリの耳、髪、めくれたマスクからのぞく頬、顎のライン、うなじから肩が、ずっと私の頭にこびりついて離れなかった。そのくせ、画像をあらためてみるのがこわくて、昨夜一度見たきりで、また見ようとはしなかった。イライラする私は、そのままさえずっていた。
 
  チッ、チチチチ、キュールッ、キュルルルッ、どうしたの、そんなにイライラして?
 
 思いもかけず、彼女からさえずりがかえってきた。彼女のさえずりは私のイライラをなだめているように、やさしく、ゆったりとしていた。私ははっとして、イライラもドキドキも吹っ飛んでいた。
 「チッッ、チチチチチ、チチチチチ、キュル、キューールッ、いや、なんでもないよ、チチチチ」
 「チチチ、チチチ、そう、ならいいけど。ねえ、いま、ひまなの? キュル、キューィッ」
 「キュキュキユキユキューィイッ、うん、……」
 その時コルリがチャットの部屋に入ってきた。
 
  ごめんなさい おそくなって メールしようにもスマホのバッテリー切れちゃって
 
 動揺して一瞬さえずりは途切れたけど、私はなにごともなかったようにつづけた。
 「……キュ、うん、ごめん、今授業中なんだ、チチチチチ、また、ね、チューーィッ」
 彼女からのさえずりがかえってきたのをたしかめてから、彼女にもよくわかるよう、すきまをあけていたテラス窓をいつもよりすこし大きな音を立てて閉ざした。
  出かけてたの?
  うん こんなになるとはおもわなかったの ほんとにごめんなさいね
  う、ん ……いまは? PC?
  うん そうよ ヒバリくんと話すときはいつもパソ ヒバリくんは?
  うん、ぼくも。
 そのあと打ちかけたことを、すこしためらった。不自然な間がはいってきた。
  どうしたの?
 コルリはすぐに気づいてきいてきた。
  うん、……マスク……
 「マスク?」
  ぅん、マスク……コルリさん、いま、どんなマスクしてるのかな、って……
  今は
  うふふ そう…… そうなんだ ヒバリくん 気になっちゃってるんだ コルリのマスクのこと
 私の反応をうかがうような間があり、私が答えずいると、コルリはつづけた。
 「つけてるわよ、マスク。あの、黒いレースのマスク」
 「そ、そういうわけじゃ……。コルリさん、言ってたから、人前ではつけたことないって、あのマスクのこと。だから、出かけてたっていうから、どんなマスクしてたんだろうって」
  uffu
  かわいい ヒバリくん 見せてあげようか 今のコルリのマスク姿
私はどきどきして、すぐに、すなおに「うん」と言えなかった。
  見たいんでしょ? 
 「……」
 「ところで、ヒバリくんは、ちゃんとマスクしてるのかな?」
  ぁ……
 「uffu 言ったでしょ、コルリとあうときはちゃんとマスクしなさい、って」
  ぅ、ん……
 「こんなに近くに、閉じた空間で、ふたりだけなんだから」
 レースのマスクから漏れてくるコルリのあたたかくしめったささやきが、私の耳をなでていった。
  マスク したら おくってあげる コルリの いまの マスク すがた 
  うん……
 言われるまま、私はマスクを着けた。
  どんなマスクなの?
 「ふつうの……、ぅん、UNの布マスク」
 声がすこし籠もっている感じがした。
 「色は?」
 「白」
 「そう。見たいな……。ヒバリくんのマスク顔」
 「え……」
 「抵抗ある?」
 「そういうわけじゃないけど……」
 「uffu、じゃ、おくって」
 「そんな……たいした、特別なマスクでもないし……。ネットのCMでやってる、誰でも知ってる、どこにでもあるマスクだし……わざわざ見せるまでも……」
  いいから おくって
 たかがマスクをしている顔の写真なのに、なんだか壊れそうなくらいはげしく胸は高鳴り、スマホを持つ手が震えるほど興奮していた。
 
  fufu これが ヒバリくんなんだ
 
 「でも、なんか、ちょっとブレてるみたい」
 手ぶれ防止もついてるのに、そんなに?と思い送った画像をあらためてたしかめると、たしかに、さっきは気づかなかったのに結構ブレていた。
 「あ、もう一回、撮りなおして……」
 さっきよりもっと興奮してしまい、やっと私は人の言葉にして打った。
 「ううん、いいのよ、これで。ヒバリくんのことが、よくわかるから。ff」
 私の胸はまたはげしく高鳴った。
  ただ もうすこし 目とか おでことか あと顔全体が写ってたら うれしかったかも
 「ぅん、でも……」
  うん そう 最初のコルリの写真に倣ったのよね
 「ぁ、はぃ」
  うふふ ありがとう ヒバリくん じゃ コルリもおくるね いま撮りのコルリのマスク姿
 
 ふしぎな画像だった。今度は右側から、あいかわらずマスクからうえは写っていなくて、すこしうえから見下ろすようなアングルで撮っていた。あの黒いレースのマスク、マスクはコルリの顔のかたちにぴったりとフィットしていて、鼻のふくらみがあり、うっすらとくちびるの起伏もうつしとられている。ビジューが、まえの画像とはちがった色にきらめいていた。まとめあげた髪は流れおちてはいなかったし、耳も、露出していた。見えるのは右の耳介で、二枚目の画像とあわせると私はコルリの両耳を見ることができた。左側のマスクの紐がどうなっているのかはよくわからない。はずれているのか、いなのいか。いまは、黒いレースのマスクがぴったりと密着してかたちをうつしとっている右の頬、顎からのびる白いのど、そのさきの肩には着物の衿が見えた。あわい色目の衿と白い半襟、髪飾りの端もうつっていた。  「えりあし」という言葉が自然に思いうかんだ。写真にはうつっていない、コルリの美しいうなじと後れ毛が目にうかぶようだった。そして、耳介のつけ根には、あの黒いレースのマスクの黒い紐が戒めか結界のように張られている。
 画像を前に、ひどく動揺し、あやしくざわめく血液が毛細血管をやぶりでてしまうようなめまいに投げ込まれた。そのあとのコルリとのチャットは、なにを話したのか、ぼくがなにを言い、コルリがなにを言ったのかも、よくおぼえていない。夢、といっても酔っ払いがみる二日酔いの悪夢よりも濃く、重く、ただ意味のある言葉にもなっていないコルリの切れ切れの声が、そう、実際にはきいたこともないコルリの肉声が、冥い体液をたたえた革袋のようになったぼくのなかを木霊していた。コルリの、あの、白い、美しい、うなじ。後れ毛がふるふるしているのは、こんなにもちかづいた私の、緊張し、ふるえるこころのあつくしめった息づかいのため。……私は脳みそからろうそくのようにとけながれて白い液体になって飛びちってしまう。ぅうっ、んっ、コルリ……さん、……私はコルリのうなじに、舌を……。
 
                         つづく

#創作大賞2024 #恋愛小説部門
 

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