見出し画像

「バードコール 小鳥のくちびる」 第四話

 わたしは、いま、疎外感とジレンマにさいなまれている。「私」がこれからもこのままこの回想をつづけるべきかどうか。気軽にわたしは現在の「私」からこの回想をはじめた。その時「私」は当時のわたしとほぼ等身大で、ズレやすきまを感じることもなかった。たが、語りすすむにつれて、当時のわたしの行動や感情を「私」ですべることがしっくりこなくなっていることに気がついた。時にはもどかしさや苛立ちや乖離さえ感じるようになった。現在の「私」が当時のわたしを「私」と言えば言うほど、当時のわたしはこの手をすり抜けてどんどん遠ざかっていく気さえする。語れば語るほど「私」は当時のわたしにちかづけないどころか、なにも語ることができず、結局ただむなしい形骸を語ったにすぎなくなるかもしれない、とそんな不安までも。現在のわたしは当時のわたしを「私」と語ることで、当時のわたしからすっかり閉ざされてしまっているとさえ感じる。
 当時のわたしは「私」ではなく「ぼく」だった。現在の「私」にくらべて、たとえ未熟であるとしても、当時のわたしは「ぼく」でしかなかった。当時のわたしの感情や行動に、当時のわたしのからだに、すげ替えた「私」の頭をのっけたりしても、当然うまくいくはずはない。この疎外感はそういったものだ。とはいえ、「私」と「ぼく」のあいだにははっきりとした境界があるわけでもなく、「ぼく」からの延長や発展である「私」もあれば、まったく途絶えてしまった「ぼく」もあれば、「ぼく」を存在理由としてぜんぜん必要としない「私」もいるだろう。
 そう、「ぼく」が「私」から独立したがっている。もとの頭をほしがっている。だけど、「私」と「ぼく」を完全に分離してしまうこともできない。だから、これからは、あるところでは「ぼく」が、あるときには「私」が、主導的に言葉をみちびくことになるかもしれない。そして、回想というものは、すくなくともわたしのこの回想は「ぼく」や「私」にとっての真実ではあっても、たぶん、事実ではないし、事実ではなくなるかも知れない。わたしの記憶が「私」や「ぼく」によって都合よく改編されてしまい、そのことにわたしが気づかない、ということだけではない。「ぼく」が「ぼく」であるとはどういうことか。それがこの回想をつづける理由のひとつでもあるのだから。
 
 碧い、空のかなたからさえずりが舞いおりてきた。気がつくと、そこに、目覚めたぼくがいた。ぼくはテラス窓をそっとあけてみた。聞こえてくる、彼女のさえずり。ショートヘアの……あのさらさらの毛先が私の指先や、ぼくのこころをそっとなでていざなっていく……。ぼくはからだをおこすと窓際へいき、さえずりかえした。
 
 チッチッチィーーーーッ、キュキュキユルルッ、チチチチ、……
 
 キューィッキューーーッイ、チチチチ、おはよう、チユ、チュッ、チチチチ
 
 チュッ、チュ、おはよう、チューーーイッチュイイッ
 
 ぼくはほっとした。彼女のさえずりが、ただの金属と木片の摩擦音ではなくて、ちゃんと意味を持っていることに。そして、ぼくのさえずりも。
 「チュックッチュックッ、ツツツツツツ、今日はランチ、いっしょにしない? チュッ、チュッ、キュルッ」
 え、ランチ……私は時計を見た。もう、そんな時刻だった。あー、ヤバイ、小教室の第一外国語のオンライン授業をすっぽかしていた。すぐにオンラインにして授業にアクセスした。
 
 チュィチュイッチュィッチュィッチィーーーーーーッ、チィッーーーーーッ、チュチュチュチユ、チチチチチチチュィッーーーーーッ、チュイッーーーーッッ
 
 彼女のさえずりがせっついてきた。
 
 「チュィッチュィッ、いいの? チチチチチチ」
 「チュィッ、チュィッ、チチチチ、なにが?」
 「チュィッ、チュッ、チュクッ、あまり人と接しないようにしないと……ツツツツ」とぼく。
 
 キューィッギュルルルルッ、ギュルッ、ギリッギリッギィーーーッツ、ヂィッッッ、ヂィッッッ、ギュウウウウーーィッ
 
 騒音みたいなさえずりがかえってきた。しばらくして、玄関のチャイムが鳴り、たしかに人の気配がしてドアのむこうでなにかしているもの音がした。もの音がやみ、人の気配が立ち去ってからドアスコープで人がいないのを確かめて、そっとドアを開けてみた。ノブを下げたとき、なにかが床に落ちる音がした。落ちていたのは近所のパン屋のレジ袋で、なかには、調理パンが二個と菓子パンが一個、カフェオレ一パックとファンシーなノートから丁寧にきりとった紙片がいちまい入っていた。
 
  ごめんね、いきなりさそったりして。
  でも、ひとりで食べるのも味気なくて。
  そんなつもりはなかったんだけど、ついつい、たくさん買いすぎちゃって。
 
 チューーーィッ、チューーイッ、ツツツツツ、チチチチチチチ、チュッ、チュッ、チュッ
 
 窓からウサギのさえずりがぼくを呼んでいた。いや、ウサギというのはとてもヘンかも知れないけど、紙片のメッセージの最後に、ショートメールのスタンプのような感じで、さっくりとした、たぶんウサギをデフォルメした笑顔の、彼女自筆のイラストが添えてあったから。結構上手で、どことなく彼女の雰囲気を捉えていた。
 「チューーーィッ、チュゥーーーーーーーッイッ、うん、ありがとう。せっかくだから、いただくね。……チチチチチチチ、チチチチチチ」
 「チューーーッ、チューーーーーッ、うん、どうぞ、チチチチ」
 「チチチチ、実は起きたばかりで、お腹ペコペコ。まだ、ランチにはちょっとはやいけど、いっしょに食べない? チューーッ、チチチチ」
 「キューーーーッイッ、チュッ、チュッ、チュッ、うんうん、食べよ、食べようっ、チュィィィィィィィッッッッ」
 「チュ、チュッ、キュッチッ、場所はべつべつだけど、せめて、いっしょの時間に、チューーーーィッ」
 語学の教授には悪いけど、ぼくとウサギは一緒にちょっとはやいランチをとることにした。カルネと漬け野菜の焼き鯖サンド、フレンチトースト。たぶん、買いすぎたなんていうのはただの口実で、これらはウサギの大好物なんだろうと思った。
 「チュッ、チュックッ、なにから食べる? チチチ」
 チュッ  チュッ  チュック
 「チュッ?  チュッ?  チュック?」
 チチチチチチチ  チュッッ  チュ  チュック     チュッ  チュッ  チュック
 「チュッ チュッ チュック   ……カ ル ネ ? チチチチ、キュゥルルルルルルル、カルネ、ね。チューーーイッ」
 「チューーーイッ、チュウゥゥッーーーィッ、キュルルルッ、うん、カルネ、チュュッ、チュッ、チュック。いっしょに、同時に、ガブッて」
 「キューーィッ、キューーィッ、キュキュキュキユッ、チチチチチチ、いっしょに、同時に、ガブッて」
 いま、ここにはいない誰かと、でも同時に、おなじものを食べている、頬張っている、味わっていることが不思議にうきうきとすることだと思った。いや、それは、相手がウサギだったからだろうか。ウサギもぼくといっしょで、不思議とどきどきウキウキしながらこのカルネを味わっているのだろうか。このもぐもぐした感触や、ハムの味、薄切り玉葱のサクサクした歯触りとちょっとジューシーなピリッとした風味、バターの香り。ウサギの口のなかもいま、こんな風味や感触にみたされているのだろうか。もし、対面で食べていたら、そう、いままで誰かと一緒に食事をしても気にとめることもかった、平時なら気にもとめなかったこんなことがこころを占めていた。もしかすると、このもぐもぐした感触は、いまのいまウサギが感じている感触そのものなのかもしれなかった……
 
  キュッチュッキュッチュッキュルルルルキュルルル、チュッキュチュッキュッキュウゥゥルルルルルッ、キュゥーーーーーールルッッ、キュゥーーーーールルルッッ
 
  キュッチュッキュチュッッキュゥルルルル、チュゥーーーーールルルル、チュッキュチュッキュッチュッキュチュルルルルルルルルルル、キュウーール、キューーールッ
 
 ぼくが「美味しい」とさえずるとウサギもすぐに「おいしいね」とさえずりかえしてくる。ウサギが「おいしすぎ」とさえずってくると、ぼくも「うん、うん」とさえずりかえした。
 
  キュルルル、チュチュ、キュゥルルルルルル、チッチッチチチチチチチ、チュッ、チュッ、チ、チ、チチチチチチ……
 
  ランチをどうも。
  ありがとう。
  リゾットにつづいて、二食目だね。
  今度はぼくが。
  とても楽しかったね
 
 ウサギの部屋のドアのすきまに切りとったノートのメモを挟んでおいた。部屋に帰ってきてテラス窓をすこしあけると、ウサギの部屋からさえずりが聞こえてきた。ぼくもさえずりかえした。何やってるんだろう、ぼくたち、と思った。そう、その時わたしは「ぼくたち」と思ったものだ。でも、会わないでいい、というのはどこか気が楽だった。会わなくてもこうして、さえずりあってつながっていられる。
 
 「uffu。うなじも見たいのかな? ヒ、バ、リ、くん」
 あの不思議なコルリのマスク画像を見てぼくがなにを言ったのか。だいたい推測はできる、コルリのこの返事、ずっと、頭のなかに木霊になってこびりついているコルリの切れ切れの肉声、それをちゃんと順番どおりにならべかえれば。
 「着物、脱いじゃうね。こうして、ヒバリくんの目の前で……だから、ヒバリくんも、ぬ い で?」
 息が詰まりそうだった。なにかが胸を内側からおしひろげてきてせりあがり、頭のなかにも硬いものを詰めこまれたような。心臓もはげしく鳴り響き、頭のなかでも鼓動していて、キーボードの指先は肩からの震えでじっとしていられなく、拳を握りしめていた。そう、目の前にあるのはたかだかノートパソコンのコンソールで、うつっているのはただの文字にすぎなかった。なのに、ふたりだけの部屋で、目のまえにいる年上の和服姿のコルリからそんなことをささやきかけられたように動揺していた。目をとじると、黒いレースのマスクで下半分を覆った、見たこともないコルリの微笑みの顔まで目にうかんでくる。つやめいた、妖しいひかりに潤う瞳には、年下の男をちょっとからかっているようないたずらっぽい色まで見てとれる。黒いレースのマスクがなおさら媚びと色気をふりまき、何面体かにカットされたビジューがきらきらするのは、コルリのくちびるがマスクのしたで蠢いているせいにちがいなかった。
 「ヒ、バ、リ、くん?」
 「ぇ、あ、はぃ……」
  あ よかった 返事がないのでどうしちゃったのかなって まさか 落ちちゃったのかなって
 「あ、はい、大丈夫です……」
  そう ならよかった だって五分もなにもないからこっちが焦っちゃうわよ
 頭のなかで鳴っていた心臓もきえて胸のつかえもおりてなくなったけど、まだコルリの顔の下半分にぴったりとはりついている黒いレースのマスクがふはふはするのが目に見えるようだった。五分というのは、閉じた空間で、差しむかいで、ただ文字だけのやりとりをしているふたりにしてみればとてもながい空白にちがいなかった。でもそれよりももっとながい時間、ぼくはコルリの息づかいやほのかなぬくもりやかすかな香水の匂いや、そばにいるコルリの気配を感じていたような気がした。
  あ、はい、ごめんなさい、コルリさん
  え べつにあやまることはないわよ ただ……
  空白の5分間にヒバリくんの身の上には何があったのかな……? なんて気になってたり
 またぼくの指先はすこしふるえはじめていた。
 「uffu。いいのよ、気にしなくても。感じやすいヒバリくんは。なにかそれなりの言い訳なんて考えなくても。すなおに答えてくれればいいんだから」
 「え、言い訳なんて……」とこたえながら、言い訳どころか、あの五分間のことをきかれて、ほんとはただ頭のなかが真っ白になっていただけだとも答えられずにいると、
 「fufu、かわいい。ヒバリくんの頭のなかのこと、手によるようにわかる気がするの。いまも。なんで、一瞬、レスが遅れたのか、とかね」
 なんだろう、ぼくはそんなことあるはずない、リアルで向きあっていても相手の心なんてわからない、それがこんな文字だけのやりとりならなおさらあり得ない、コルリはいい加減な出任せを言っているにすぎない、とくり返し自分に釘をさしながらも、でも、どこかで、超えてはいけない一線を超えていくような、いや、なにかの縛りをコルリに破られてコルリがぼくの肉と肉のすきまにまでしみこんできてじんわりとひろがっていくような甘い気持ちにひたされていった。脳みそのてっぺんから降りてきてぼくをつつみこんでくるその痺れのような感覚は、やがて左右十本の指先までゆきつき、ついには下半身までどっぷりとひたしていった。
 「nえ、交換したいな」
 気がつくと、いきなりコルリがこんなことを言い出した。
  コウカン ……
 「うん、等価交換(笑」
 トウカ、交換 ……
 「ダメ? 今日も?」
  ん、ん……
 「コルリのうなじの画像と、ヒバリくんの……」
 「ぼくの、うなじ……」
 「うなじ、なの?」
 「え、はい……?」
 「uf、ヒバリくんの、とても、カ ン ジ ヤ ス イ ト コ ロ」
 コルリの肉声に、また耳とこころをなでられた気がした。
  感じやすいところ……
 「そう、等価交換。コルリの感じやすいところの画像、おくるんやし」
 コルリの……おくれ毛がふるふるとゆらめいていた。見たこともない、コルリの白いうなじと、ぼくのしめった熱い息でゆらめいている……おくれ毛……「おくるんやし」。ねっとり甘える口調で、いきなり心臓に突き刺さってきた言葉。「おくるんやし」、「おくるんやし」、切れ切れになって木霊していたコルリの肉声のなかでも、いちばんくっきりと脳裏に焼きついた言葉……。なんの性的な意味合いもない言葉なのに。ぼくの心臓はコルリという板壁に「おくるんやし」という釘でうちつけられたバンパイアのそれも同然だった。釘付けにされて、浮きあがった血管がいまにもはちきれんばかりにはげしく蠕動していた。そして、コルリは、ただの板壁なんてものじゃなかった……。
  どこなのかな? ヒバリくんの感じやすいところは
 「うふふ、ci、ci、cu、bi とか……」 
 ……コルリのまだみたこともないくちびるが、……
 「この場合たいせつなのは……」
 と、コルリはぼくのジンジンしている cicicubi にしめった熱い息を吹きけながら、つづけた、
 「お互いのヒミツを知っている、ということ。うなじや耳なんて髪をアップにすれば誰でも見ることができる。あなたの乳首だって、海水浴にでもいけば、誰でも見ることができる。でも、それが、その人にとってどんな意味を持つものなのか、どんなものなのかを、知っているということ。うなじや耳なんて、ただくすぐったいだけっていう人もいる。乳首だって、おなじ。でも……ヒバリくんは、どうなのかな。……乳首? それとも、…… cicicubiなん?」
 
  ん、ぅ、んっ、コ、ル……リ、さん……
 
 スマホのレンズはコルリのくちびるだった。別れてからもずっと、ジンジンしつづけている、ことにこのひだりの cicicubi 。シャッター音はコルリのキスで、脳天をつきぬけていって頭のなかを真っ白にした。コルリのくちびるは、ぼくの cicicubi 、ぼくのわき腹、ぼくのこしぼね、ぼくのふとももをたどり……そのあいだ、コルリの細い指先がさらさらとぼくのひだり cicicubi をもてあそんでいた。コルリのくちびるはふとももからゆっくりとおしり、おしりからまえにまわっておへそ、おへそから……。その間もひだり cicicubi はじんじん疼きつづけた。切れ切れになった聞いたこともないコルリの肉声が、ぼくの革袋のなかを、冥い体液をひっかきまわすようにはげしく吹き荒れつづけていた……。
 声、……さえずる声。声はとおくから真っ白になったぼくの頭のなかにしたたり落ちてきて澄んだ波紋となってひろがっていった。ものういからだのむきをやっとかえて、さえずりかえした。まだ、頭のなかにこびりついているコルリの肉声がまたかすかに木霊しはじめて、さえずりのすきますきまにはいりこんできた。こんや、これから、いっしょにご飯にしない? とウサギはさえずっていた。チュッ、チッ、チチチチチ、大丈夫? なんか、元気なさそう。ぼくのけだるいさえずりにウサギはちょっと心配そうだった。
チューイッチュゥーーーイッ、チチチチチッ、チチチチチチッ うん、大丈夫、ありがとう、心配してくれて……
チィッチィッ、ううん、気にしないで。よかった、なんともなさそうで。チュィッ、チュィッ、ツッツッ、それより、ねえ、いっしょにご飯、しようよ、チューーーーーーーィッ チューーーイッ
 まだ、ぼくのひだり cicicubi が冷めていく鉄のように疼いていた。
 チューーイッチューーイッチチチチチチ、チチチチチチ、チッキュッ、チュッキュ、キュルルルルッッ
 さえずりには迷いがあって、木片と真鍮の擦過音に戻ってしまっていた。
 チチチチ、チチチチチ、ほんとに大丈夫? チュキッュ、チュッキュッ
 チッキュチュキッ、チュッキ……
 その時メールがきた。着信音を特別にしてあったので、すぐにコルリからだとわかった。さえずりは蛇女の顔をみたように固まって地上に落ちて砕けた。
 
  ヒバリくん、いまはムリ。もうすぐダンナ、帰ってくるから。
  また今度。
  メールするね。
  おやすみなさい。
  チュッ
 
  あ、うん、ぼくのほうこそ、ごめん、こんな時間に。
  メール、待ってます。
  おやすみなさい、コルリさん……
 
 コルリの誤解をいいことにすぐ返信した。ただ、「チュッ」とはできなかった。
 
 チュッ、チュッ、チュチユチュッ、チチチチチチ、チチチチッ、チューーールッ、チューーールッ、チュ、チュチュッ、チチチチチチ……
 
 ウサギが呼んでいた。ちょっとびくびくしながら、でも、さえずりかえさずに放っておくこともできない。
 
 チュッ……
 ん、はっとしてさえずりかたをかえた、キュッ、キュッ、キュッ、キューールッ、キューール、チチチチチチ、チュ……、ん、キュクッ……
 
 チュ、チュッ、チューール、どうしたの? なんか、今夜はすごくヘン。大丈夫? チュッキュッチュキッユッ、チチチチチチ
 
 キューールッ、キュルルルッッ、ギュッルッキュルッ、チ、キュルル、キュッ、キュッ、キュッ、ギュルルルッッ、ギュッ、ギュッ、ギュ
 
 キュルルルルルッ、キュルルルッッ、うん、わかった。じゃ、せっかくだから、ご飯はとどけるね。食べて。ごめんね、急に誘ったりして。それじゃ、おやすみなさい、キュウゥウゥゥルルルッッ、キュゥーーーーーーーールルルルッッ、キュゥーーーーーーーーーーーーーールルルルッッ
 
 ぼく自身でさえ意味をなさないこんなにひどいさえずりだと思うのに、それでもウサギはちゃんとぼくの気持ちを聴きとってくれて、やさしいさえずりをかえしてきた。最後の、「キュウゥウゥゥルルルッッ、キュゥーーーーーーーールルルルッッ、キュゥーーーーーーーーーーーーーールルルルッッ」というウサギの長鳴きがとてもものかなしく聞こえた。
 しばらくすると玄関ドアのむこうでなにかする気配がして、立ちさったあとドアを開けてみると、ノブから落ちたのはれいのパン屋の袋だった。ウサギの大好きなあの調理パンと菓子パン、それから野菜ジュースが一パック入っていた。
 
  大丈夫? 
  もしよかったら、食べてください。
  てへへ、この前のランチとおなじになっちゃったけど。
 
 メモの末尾にはれいのウサギのスタンプ風のイラストが、今日はちょっとテレ笑いをうかべていた。
 
 また、なにかがさえずっている……窓の外、ベランダでも。だんだん意識がこちらがわに戻ってきて、それはウサギのさえずりでもなければ、メジロやシジュウカラやエナガなどでもないことがわかってきた。すずめだった。手をのばしてテラス窓のカーテンをすこしあけると、閉じたままのまぶたの裏がほのあかるくなった。意識がこちらがわに戻ってくるにつれて、もやもやとしてかたちのなかった昨日のこともはっきりしてきた。ウサギからの差し入れを食べてなかったことを思いだした。コルリからメールが来たことも。ウサギのさえずりも。んん、……すずめの声に混じって、ウサギのさえずりも聞こえてきた。
 キュチキュチッ、キュチーキュチッ、おはよう? まだ、寝てますか キュチッキュチッ、チュッ、チチチチチ
 時計を見て、もうこんな時刻、と思ってからだをおこした。
 チュキュッチュキュッ、キュチュッキュチュッ、ツツツツツ、ひばりさん、起きてます?
 ウサギがぼくのことを「ひばり」なんて呼ぶわけない、とはいえ、ぼくも勝手に彼女のことを「ウサギ」と呼んでいるだけで、お互いにいまだに相手の名前を知らないことにあらためて気がついた。でも、知らないといえば「コルリ」の名前だって、と、コルリのことにいきあたった瞬間、ぼくはぎくりとした。すっかり忘れていた、コルリのうなじが、目にうかんできた。ふるふるとゆらぐ、おくれ毛……まだ見たこともない……そのとたん、どっと蘇ってきた昨日のコルリとのことにおしつぶされそうになった。息苦しくなり、からだと記憶のおくにとけてきえていた疼きがゆっくりとうきあがってきて、ぼくのひだりの cicicubi のかたちになった。胸を抑えた掌には、心臓の鼓動がべったり貼りついてきた。
 キューィ、キュチュッチュッチュッ、チチチチチチ……
 ウサギのさえずりはまだ聞こえてきた。こころを落ち着かせてから、テラス窓をすこしあけて、さえずりをかえした。さえずってみると、さらにこころが落ち着いていくのに気がついた。それでもまださえずりのはしばしにしつこくしみついている、雑味のある響きが耳障りだった。
 キュィッ、キュギィッ、ギュィッ、ゆうべはありがとう、なんか、心配かけちゃって、ヂュィッ、チュィッ、ヂヂヂヂ
 チチチチチチ、キューーィッ、チュッ、チュッ、ううん、なんでもなかったのなら、よかった、チチチチチ、キューーーイッ、それじゃ、わたしこれから授業なので失礼します、チュクッチュック、チユチユチユチユッ、キュィィーーッ
 ウサギの部屋の方から窓を閉める音が聞こえてきた。パソをたちあげてぼくも授業にアクセスした。どうせ何百人単位の授業で、コンソールのなかで教授が一人しゃべりつづけているだけだった。ぼくは昨夜食べなかったウサギからのさしいれを頬張りながら、ひとりさえずりながら、ぼんやり画面をながめた。さえずるほどに、さらにこころが凪の空のかなたに自然にとけこんでいく感じがした。授業は教授の研究室からのようで、ほかに誰もいないだろうに、初老の教授は律儀すぎるかわった人とみえて、こんなときにまでマスクをしていた。白いサージカルマスクだった。教授のマスクをマスクだと意識したとたん、コルリの黒いレースのマスクがぼくの凪をまた乱しはじめた。
 
  ありがとう。おいしかったよ
 
 ……と書いて、はっとして手をとめた。
  「今度はぼくが」と言ってたのに、またまた、ごちそになっちゃったね。
  そう、今日で何回目だろう。
 
  今度こそは、ぼくが、ね。
 
 と書き添えて、メモをウサギの部屋のドアのすきまにさし込んでおいた。何度かいっしょにランチやディナーをしているので、ウサギの食事の時間というのをだいだいわかってきていた。今日だって、いまだって、こんなふうにウサギの部屋の前まできているのだから、「夜、いっしょに食べよう」なんてメモを添えて、何か食べるものをノブにぶら下げておけばよさそうなものなのに。しかも、ウサギに気づかれないように、こんなに静かに、そっと、気配を消しているぼく……。
 
  こんにちは ヒバリくん
  このまえはごめんなさいね。せっかく誘ってくれたのに^^
  来週の月曜日、いつものところで、いつもの時間に、あいたいな。
 
 コルリのメールは、メールをひらくだけで、あの手紙の香水の匂いがほのかにただよってくる気がした。そう、今ではもうよほど気持ちを集中してかがないと手紙そのものからも匂いは消えてしまっているのに、頭のなかにはくっきり刻印された匂いが残っていた。匂いを追って、目をとじると、今度は見たこともないコルリの白いうなじとふるふるとしているおくれ毛が目にうかぶ。そして、チャットやメールの言葉が、まだきいたこともないコルリの肉声となって、切れ切れの言葉が、頭蓋骨や皮膚の内側で木霊した。「かんじやすい」「ところの」「がぞう」。そんなコルリの言葉がいきなり皮膚にぶつかってきて、尖った角が衝突した皮膚は波立ち、満ちている冥い体液をふるわせ、革袋中に響きわたっていった。ぼくの足の指の先から、ぼくのおなかのなかから、ぼくの胸やぼくのあたまのなかまで、風船のような革袋につまっているとろんとろんの冥い体液を震わせて、その残響がいつまでも鎮まらないどころか、肌にぶつかるたびにさらに木霊はおおきくなった。振動がどんどん増幅していって、とうとうぼくは、冥い体液の一部を革袋の外に瀉血するみたいにして、やっと、ふるえを鎮めることができた。こんなことを毎日のように繰りかえした。一日になんどもしたこともあった。冥い体液の波立ちがしずまっていっても、革袋のここに円形にはりついているここのじんじんとした疼きは鎮まらないこともあった。「かんじやすい」「ところの」「がぞう」。

                        つづく

#創作大賞2024 #恋愛小説部門


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?