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「バードコール 小鳥のくちびる」 第五話

 うふふ
 見せて ヒバリくんの ci ci cu bi
「コルリさんの、うなじも」
  はい 交換ね
 
 約束の時間にすこしおくれてコルリはやってきた。今日はぼくが部屋をとっていた。ぼくははずかしかった。コルリの言うとおり、乳首なんていっても、夏にプールや海水浴にでもいけば男の乳首なんてめずらしいものではなかった。はずかしいだけじゃなく、人のかたちをした革袋のなかの冥い体液はぷちょんぷちょんとゆらめき、波だっていた。女のうなじだって。髪をまとめてアップにしていれば、夏なんて、街のあちこちで見かけるものだった。そうじゃなかった、どこにでもある女のうなじや男の乳首じゃなくて……コルリのうなじとぼくの cicicubi だから。コルリのうなじとぼくの 
  cicicubi の交換だから。「かんじやすい」「ところ」と「かんじやすい」「ところ」の交換だから……。
 「Uff、これが、ヒバリくんの、ci ci cu bi なのね」
 「これが……コルリさんの、う、な、じ……」
コルリの熱い視線をひだり cicicubi に感じて、cicicubi から乳輪までがジンジンと疼いた。コルリもぼくの視線を感じて、うなじがこんなふうにあつく疼いているのだろうか。
 「さわってあげる……ほら、いま撮りの画像よ」
 アップされたのはコルリのひだり手で、指先ぜんぶがネイルで彩られていた。淡い、まるで透きとおった肌色の爪のようで、ただ、親指と人差し指にだけ、根元にちいさなビジューが三個ならんでいて、いろいろな色にきらめいていた。大きさこそ小さかったけど、あの黒いレースのマスクの端にならんでいたビジューとおなじ妖しいかがやきをはなっている。
 「ほら、このネイルの先の尖ったところで、ヒバリくんのニュウリンの境にそって……」
  んん、コ、コルリ……さん
 「ほら、ゆっくり……」
  コルリ……さん……
 ネイルが境にそってたどっていくにつれて、ビジューが変幻してキラキラきらめいていた。
  ほら、こうして、つんって……
 ふとコルリの指がとまりやさしく肌につきささると、一段とビジューが燦めいた。
  ぁ、……ん、ぅ
 「いいのよ、がまんしなくても、感じてるヒバリくんの声、きかせて……」
  んっ、ぅぅっ……コルリ、さん……
 「ほら、こうして、また、ゆっくり、たどりはじめるの、ヒバリくんのニュウリン……」
  ぁ、ん、ぁ……
 ネイルの先が……めりこんじゃいそう……よ ううん めりこみながらとけてくみたい ヒバリくんの皮膚のなかに 肉と肉のすきまに コルリのネイルがとけて しみこんで……
  ぁ、……、こ、コルリ、さ……ん
  ほら、もう、ネイルのさきっぽ、ぜんぶめりこんでしみこんじゃって、ゆびさきの肉がヒバリくんの肉にあたってる……ね こんなふうに指をくにっくにってうごかすと……
  んっ ぅぅんっ
  かんじる……ヒバリくんのハート ほら、しみこんだネイルの先から伝わってくるの ヒバリくんの怯える小鳥みたいな、鼓動……ほら、ほら……
 
 コルリの指が動くたびに心臓をやさしくなでられているのを感じていた。
 
  ほら、どんどんとけてしみこんでく……コルリのネイル。うふふ、しみこんで、ひろがって……ヒバリくんのハートを、ほら、神経みたいに枝分かれしてつつみこんでる……
  ぅ……ん、コルリ……さん……
 「uffu、鷲づかみにしちゃう、ヒバリくんのハート。そしたら、もう、ヒバリくんはわたしだけのもの」
 とつぜんメールの着信音がした。メールはコルリからだった。
 
  いいこと、教えてあげようか。
  upされた画像の保存方法
 
 「届いた? メール」
  はい……
 「でも、約束してね、絶対、他の人には見せない、って。ヒバリくんとコルリだけの、ヒ、ミ、ツ。ここでのことは、ぜんぶ。お話の内容も、画像も、ぜんぶ。コルリがなにをして、ヒバリくんがなにを感じたのかも。ぜ ん ぶ ヒ、ミ、ツ、」
 「は……い」
 こんなふうに コルリのネイルがヒバリくんのからだのなかにしみこんで からだのすきまにしみこんでひろがり ヒバリくんのハート つつみこんで きゆっって
 ネイルのビジューがなおさら妖しく燦めいた。
 「あぁっ」
 「kuff、かわいい、ヒバリ……くん」
  ぁ、ん……かんじるの、ヒバリくんの……吐息
  ぇ……?
 「うなじに」
  ぇ……ぇ
 「さっき、ハートをきゆっってしたとき、かんじたのよ……ほら、いまも……きゅっっ きゆっっ って」
  こ、コルリ……さん
 「吐息だけじゃない……ヒバリくんの…… くちびる…… ふれてる……
  ヒバリくんも……感じてるでしょ? くちびるの、さきに……コルリの、うなじ……
  うん、そう、まだ……、ふれてなかった……の、ね
目をとじているのか、いないのか……コンソールを見ているのか、文字を見ていないのか、目のまえがくらくらして、コルリのうなじにふれてはねかえってくる自分の息づかいをほほに感じていた。「ぁあ、コルリさん」って嘆息して、コルリのからだを背中から抱きしめてしまいたいと、両腕が痺れていくような感覚に耐えていた。そう、もし抱きしめてしまえば、これがやっぱりただの幻覚か空想にすぎないっていうことがはっきりしてしまうだろうから。いま、くちびるの間近で感じているコルリのうなじとコルリの息づかい、そしてそのたびにつたわってくるコルリのふるえるぬくもり、そこにコルリが存在している気配。そういったものがただぼくの脳みそが創りあげた幻でしかないことがはっきりしてしまうから。
  ぁぁ……いいのよ ヒバリ……くん コルリのうなじに キス して……
 「コルリ……さん……」
  そう そっと…… ね……
 音がした、どこかで。文字にすればありきたりな、「チュッ」っていう音が。その瞬間、コルリのうなじがかすかに震えるのを感じた。そして、ぼくのくちびるには、はじめて、誰か他人の、からだのいちぶにふれた感触がくっきりと刻印されていた。丸く尖らせたぼくのくちびる。ぼくのくちびるがもとのかたちにもどっても、その丸い形のままにおもい感触がくちびるの肉の奥に染みついていた。表面にではなく、なかに、ぼくの肉のなかに、じっとりとしみこんでいた。
 キスだけではおさまらなかった。くちびるはコルリのうなじから離れようとしなかった。ほんとに、ただ、ぼくのくちびるの薄皮いちまいがコルリのうなじの肌にはりついて引っ張られたまま、一刹那がすぎて、たまらなくなって、また、コルリのうなじにくちびるをかさねた。今度はさっきよりべったりと、裂けたぼくのくちびるからは舌先までが、コルリのうなじに吸いついていた。
 頭が重い。前頭葉がジンジンする。閉じているのかひらいているのかわからない目には、コンソールの文字とコルリのうなじが交互にひらめいていた。
 
  ぁ あん ダメ ヒバリくん 今日はそこまで……
 
 うなじから肩に、肩から、……いつのまにかだえきでぬるぬるになったコルリの肌を這い降りようとしたぼくのくちびると舌をコルリが制した。
 
  そのかわり ね ほら……
  想像してね
 「ヒバリくんのひだりの cicicubi に、今、黒いレースのマスクをとおして、コルリのくちびるが、ふ、れ、て、る……の」
 
 白昼夢みたいだと、そんなありきたりな言葉。それに、ぼくは白昼夢なんてものを知らない。コンソールに投影されたただの文字のやりとりなのに、言葉のやりとりにすぎないのに。コルリとのことは、あとで思い出すと、まるでそこで生身で経験したかのように、それでいてどこかふわふわとしていて、曖昧で……そう、ほんとうに経験したことをあとになって思い出す、それとまるでなにも変わりないように感じた。いや、それはただの文字と言葉で、実際コルリと会ってもいないし、ふれたわけでもない、と否定してみたところで、遠い記憶なんかよりももっと鮮明でなまなましかった。ぁあ、コルリの黒いレースの感触。ぼくの cicicubi のなかでも、いちばん感じやすいさきっぽをふれるかふれないかでさわさわとくりかえしなでている……コルリのしめったあたたかい息が cicicubi の先からニュウリンを漏斗状にやさしくつつみこむ。うなじのあたりで神経が焼ききれそうになり、ひろがり、つつみこんでいる毛細血管も加熱して、脳みそもやけとけてしまいそうになる……すごい、ヒバリくんの cicicubi 、こんなにかたくなっちゃって。なんども、コルリは黒いレースにおおわれたくちびるでぼくの cicicubi の先をやさしく愛撫した。
 「ぅふ、マスク、はずすね……」
  ぁ、ぁ、ん、こルリ……さ…ん
 「でも、ヒバリくんにはみえない。コルリのくちびる……」
 まだ、ふれるぎりぎりのところで、コルリのくちびるのあたたかい気配が、コルリのあたまやからだの気配が、じっと、うごかない。コルリのしめったあたたかい息がじみじみとしみこんできて、ぼくの cicicubi は痺れて、ニュウリンも cicicubi も、心臓も、ふやけてしまいそうだった。からだが、ふやけてとろけてしまいそうだった。ぼくのひざから太ももまでがガクガクと震えだして、立っているのがやっとだった。
 「ぅffu、キス、してあげるね、ここに」
 「あぁ、こルリさんっ」
 きっと、リアルだったら、ぼくは昏倒してしまっていたかもしれなかった。頭のなかも目の前も真っ白になって……なにもかも、ぶっとんでいた。どのくらいしてからか、やっと目を開けると、そこにはやっぱりパソコンの画面がコルリとぼくの言葉をうつしだしているだけだった。
 
 コルリのくちびるがどんな色をしているのか。
 洗面の鏡にぼくははだかの上半身をうつしだして、ためいきをつきながら思い出そうとする。ぼくの右手をぼくのひだり胸に這わせて、ひらいた人差指と中指のあいだにぼくの cicicubi をつつみこむようにして。でも触れることはせず、いとおしみながら。コルリのくちびるがふれ、愛おしんだひだり cicicubi 。夢のようだった。ううん、ただのチャット。ほんとはコルリのくちびるはふれてなんかいない。でも、ぼくのひだりの cicicubi やニュウリンにはしっとりとしたコルリのくちびるの感触が灼きついていた。コルリはぜんぜん触れてなんかいない、こんな事実の方こそ疑わしくなる。指先でぼくのくちびるにもふれてみた。こんな感触が、たしかに、……まだみたこともないコルリのくちびるのかたちがなまなましく感じられ、 cicicubi が疼いた。そのあともずっと、触れたくても、ぼくのひだりの cicicubi やニュウリンにはふれることができなかった。
 ぼくが選んだのは……口紅に、こんなにたくさんの色があるなんて知らなかった。ぼくが選んだのは、「ココア」という色で、すこし青みかがったベージュだった。きっと、こんな色。あの黒いレースのマスクに覆われたコルリのくちびるを飾っている色は……。口紅を持っているぼくの指はさっきからふるえていた。いけないことをしようとしている。やってはいけないことをしようとしている。そんな思いがふりかかってきて、なんども、やめようと思った。口紅をネットのサイトで見ようとしたとき、検索しようとしたとき、注文するときはなんどもためらってサイトを閉じた。とどいた封筒をあけるのもためらわれてゴミ箱に捨ててしまおうとした。……でも、だめだった。はやくあけたいのに、そのままテーブルのうえに雑然と置きっぱなしになっていた。でも、とうとうあらがえなくなり、封筒に切れ目が入ると、指は待ち受けていたようにふるえはじめた。封筒からコロリと箱がころがりでてきたとき、箱から口紅をとり出すとき……キャップをはずして、その口紅の色を目にしたとき……。
 コルリとわかれて十数年経ってから、仕事の関係もあって、わたしは能に興味を持ち、あししげく能楽堂にかようようになった。この古い都会にはいくつも能楽堂があり、謡や袴能や半能などもふくめて、それこそ毎週のようにどこかの能楽堂でなにかを観ることができた。そんななか、「筒井筒」のおんなに出会ったのはいつのことだったか。別れた男を慕うおんなの霊が、男の形見の装束を着けて舞い、子どもの頃そのまわりでいっしょに遊んだ井筒をのぞきこみ、男と再会する、という物語だ。能がすすむにつれて、私はひどい衝撃にからだのふるえがとまらなかったのを、いまでも忘れない。すっかり忘れていたこの「ココア色の口紅」の記憶がふいに蘇り、私をのみこんでいったのだ。
 男の形見の装束を身につけて舞を舞うおんなの死霊。舞は、もちろん、能という芸能に独特の表現手段・表現形式で、メタファーでもあり、この場合おんなのエクスタシーをあらわしている。死んだ男の装束をつけることで男を模し、外見のみならず、依り代となった自分のなかに男の霊を降ろして宿し、男とひとつになることで、生身では決して味わえない一刹那の悦楽を生き、味わい尽くす……なんと、倒錯的な。
 ……そう、この「筒井筒」のはなしでもひきあいにもってこなければ、とても、わたしは、これほど恥ずかしく、してはいけない、倒錯的なことをしてしまったぼくのことを話すことができない。いや、ただその行為のことではない。行為というのなら、ただ、女の使う口紅をくちびるにぬっただけ、ただそれだけのこと。そうではなく……わたしは舞を舞うおんなのなかにひきこまれていった。いや、舞を舞っているのは、ぼく、自身なのだった。そのくちびるには、あの「ココア色の口紅」がしっとりと光っている。……ぼくと私がひどく混線し、混乱しているのはわかっている。当時、能などになんの興味も縁もなかったぼくのあたまのなかを「筒井筒」のおんなの舞が駆けめぐることなどあり得ないのだから。
 「ココア色」の、ふるえる口紅の先を、ぼくはぼくのくちびるにちかづけていった。顔を写すための鏡を、ぼくはやはり口紅といっしょにあたらしく買いそろえていた。くちびるに近づくほどに、ぼくの腕のつけ根にまでふるえがつたわり、とまらなかった。やがて、コルリの、ココア色のくちびるを、ぼくは鏡のなかにみていた。ぼくは目をとじて、鏡のなかのぼくのくちびるに、コルリのくちびるをそっとかさねていった。ひんやりとしていたのは、鏡の表面だからというだけではなかった。くちびるをかさねながら、見たこともないコルリのくちびるを思い浮かべ、コルリの名前をくり返しこころのなかで呼んでいた。鏡のなかのくちびるがあたたかくなった頃、ゆっくりとくちびるをひき離すと、うつしとったコルリのくちびるを、ぼくはひだりの cicicubi に圧しあてていた。
 つよく鏡をおさえつけながら、のぼりつめて、真っ白になった頭のなかで、きれぎれのコルリの肉声がここちよく木霊するのを聞いていた。木霊は革袋にあたっていったんは革袋の肌にとけて同化してしまい、それからまたうまれて肉声となってはねかえった。木霊がとけてはねかえるたびに、ぼくは何度も逝っていた。そして、木霊がとけてはねかえるたびに共振するとろんとろんの冥い体液のふるえは大きな振動と圧となって、最後には、革袋を穿って、白く飛び散った。
 
 チューーーーーーィッ、チューーーーーィッ、チチチチチチ、チチチチチチ、チューーーーィッ、チューーーィッ
 
 窓からウサギのさえずりが呼んでいた。彼女のことを、ウサギ、というのはやっぱりすこしへんな感じもするけど。
 「これからいっしょにご飯にしよう?」
 とウサギは誘ってきた。
 ネット証券での新規上場株のブックビルディングの申し込みの手をとめて、返事をした。
 「チューーィッ、チューーイッ、うん、いいよ、チチチチチ、ごめん、また、ごちそうになっちゃうね、ありがとう、チチチチ、チューーィッ」
 「チューーィッ、チューーーイッ、ううん、いいの。わたしの方こそ、いつもいつも、おしつけちゃってるみたいで。ありがとう。チチチチチ……」
もう何回くらい、ランチやディナーといってはぼくはごちそうになってるんだろう、と思った。ごちそうになるたびに「次はぼくが」と約束するけど、こちらが誘うよりもはやく、ウサギは誘ってきた。さすがにいつもおなじ漬け野菜の焼き鯖サンドとフレンチトーストと飲み物というのもなんなんで、と、最近ではメニューにいろいろなヴァリエーションが加わっていた。この前のは……そう、コルリの……あの日の、翌日で……。
 「チチチ、じゃ、これから、もってくね、チュ、チュッ、チュイッ」
玄関ドアのこちら側で待っていると、しばらくしていつものように向こう側で気配がした。ドアスコープから確かめてから、軽くノックした。ノックに気づいたウサギが、メガネのレンズの向こうからこっちを見て、ピンクのポリウレタンマスクにおおわれたままで、たぶん、にっこりした。
 「チュッ、チチチチ、チチチチ、ここ、あけていい?」
 とぼくはさえずった。
 「ギュッッ、ギィッ、ヂュッッ」
 ウサギはメガネとドアスコープとが重なったレンズの奥から、ちょっと驚いたみたいな視線を送ってきた。考えてみれば、はじめてのリゾット以来、頻繁にさえずりあったり、ランチやディナーをそれぞれの部屋でいっしょに食べたりしているのに、ふたりはマスクを外して、間近に会ったことなんてあったのだろうか。
 ぼくはまた軽くノックをして、今度は人の言葉で言った。
 「ここ、開けてもいい?」
 思えば不可解な話だった。ここはぼくの部屋の玄関ドアで、ぼくが部屋のなかにいた。
 「え……」
 うつむいて、ウサギも人の言葉で応じた。しばらく、ふたりとも沈黙していた。
 「もし、開けていい、って言ったらどうなるの?」
つぶつぶとしたちいさなつぶやき声で、ウサギは言った。ふたりとも黙りこんだままでいても仕方ないから、といったニュアンスが感じとれた。
 「え……」
 そんなこと考えてもみなかった。どうなるんだろう。ぼく自身にもわからなかった。そもそも、なんで、「開けてもいい?」なんてきいたのか。
 かるく響くノックの音でぼくははっとしてここに戻っていた。
 ウサギがドアをノックしていた。
 「いいよ」
 ノックをやめて、小さな声でウサギが言った。
 「え……」
 さっきの質問は「開けてほしくない」という反語だったんじゃ? とぼくはうろたえた。
 
  キュルルル、キューーールル、チュィッ、チュィッ、チチチチ、チューーイッ
 
 ぼくはさえずっていた。
 
  チューーッイッ、チューイッイッ、キュルルルッ、キューール、キューールッ、チュッチュッ、チュッ
 
 ウサギもドアスコープのなかでさえずりかえしてきた。
 ぼくがロックを外し、ノブを握って降ろすと、ウサギがノブを握って動かないようにしているのがわかった。
 「え……?」
 ぼくはまたドアスコープのなかのウサギを覗き見た。
 「でも、やっぱり、だめ」
 ウサギがさっきよりもっと小さな声で呟くのが聞こえた。
 「え……」
 ぼくはノブを握る手の力を抜いた。そのとたん、いきなりドアが開いて、すきまから手提げ袋がつっこんできた。でも、それ以上ドアは開かなかった。
 「え……、あ……」
 ぼくは手提げ袋をうけとるしかなかった。
 そのあと、ひとりで、ぼくはウサギからうけとったディナーを食べるしかなかった。よく咀嚼しながら食べて、あじわい、考えてみた。けど、どうしてもウサギのさっきの行動の意味がわからなかった。ウサギが帰ったあと、ぼくはウサギが「いっしょに食べよう」とさえずってくるのを待っていた。一時間してもさえずりはなかった。食べながら、ときどきさえずってみたけど、ウサギのさえずりは聞こえてこなかった。翌日も、日に何回かさえずってみたけどウサギからの反応はなかった。日が経つにつれて、ぼくのさえずりもだんだん遠慮がちになっていることに気がついた。とうとうぼくもさえずらなくなって、二三日過ぎた。ぼくがさえずらなくても、もしかしたら、とあわい期待をしていたけど、やっぱりそんな期待通りにいくわけもなかった。そのあいだ、ウサギに出会ったときのことから、あの場面も、なんども反芻して思い返してみたけど、ウサギとのあいだに何があったのか、やっぱりよくわからなかった。
 もし、こんなところでウサギに出くわしたらどうしよう、だったら逆に好都合かも知れないのに、と、何か後ろめたいことをしている気がして、あまり落ち着いていられなかった。ウサギと出くわしたならそれを好都合にできる自信もなかった。どんな店だったか、店員はどんな人だったか、そんなこともゆっくり見ている暇もなかった。むかいのマンションの一階にあるウサギのお気に入りのあのパン屋にランチを買にいった。部屋を出た瞬間から、ウサギと出くわさないか、心配になって落ち着かなかった。いつものパンとなにか飲み物、それから、それを見た瞬間、そうそう、これもウサギが好きだとさえずっていたのを思いだして、黒豆パンも買った。
 いったん部屋に戻ってから、ベランダに出てさえずろうかと思ったけど、それもやめた。テラス窓をあけてはみたものの、さえずることもせず、部屋を出た。ウサギの分だけをいれた袋を持って。ウサギの部屋の玄関ドアを目の前にすると、やっぱりこのまま引き返そうか、といきなりそんな考えがうかんできた。ドアの前にたたずんで、しばらく躊躇っていた。やっと決心がついて、袋をドアのノブにぶらさげた。
 
  チュック、チュクッ、チッ、チッ、チッ、チッ
 
  チュック、チュック、チューーイッ、チューーイッ
 
  チュッ、チュ、チチチチチチ、チューーイッ
 
 ちからないさえずりが、ドアの向こうのウサギに聞こえるとも思えなかった。ノックするのも躊躇われた。しばらくドアのまえに佇んでいたけど、部屋のなかからはもの音ひとつしなかった。
 部屋に戻ると、コルリからメールがきていた。
 
                     つづく

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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