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「バードコール 小鳥のくちびる」 第六話 

  ヒバリくん?
  なにかあったの?
  ここ二三日さえずりがきこえないみたいで。
  元気かしら?
 
  あ、コルリさん
  心配してくれて、ありがとう。
  はい、平気です、元気にしてます。
 
  そう、よかった。
  じゃ、またね。
  あ、そうそう、こんどは、なにを交換しようかしら?
 
 何を……
 
 「uffu、ヒバリくんったら、あんな画像おくってくるんだもん」
つぎに会ったとき、部屋に入ってくるなり、挨拶もそこそこに、とろけそうな声でコルリは言った。
  ぅ、うん……
 恥ずかしさに、もう目の前が真っ白になっていき、高鳴る鼓動に冥い体液がゆらめきはじめるのを感じた。
 「はずかしい、ヒバリくん……。けど、こんなふうに、コルリのこと、想ってくれてるんや……」
 あたらためてコルリの口から「はずかしい」という言葉を聞くと、からだはふるえ、その響きは霞のような投網となって革袋からとろんとろんの冥い体液へとしみこんできて、ぼくを生捕りにした。しみこんできた響きは鼓動や冥い体液のゆらめきと干渉しあってとけあい、コルリの肉声の木霊とともに、あたらしいゆらめきを革袋につたえた。こんなふうに、コルリの言葉が発せられるたびに、冥い体液のゆらめきは更新され、昂じていく……。
  うん……、ごめんね、コルリさん……
 「ぇ、なんで、あやまることなんて……」
 「あ、そうなんや、ヒバリくん、コルリのこと思いながら、イケナイコト、しちゃってたんだ」
 「uffu、かわいい……」
 
  ちゅっ
 
 もう、コルリに、コルリの言葉の響きに、革袋の外からも聞こえてきて、なかでも冥い体液のゆらめきとなって木霊して響きあっているコルリの言葉にぐったりと脳みそをゆだねていった。キーボードにおいた指はとっくに痺れていて、一語どころか、たった一音をうつのもままならなかった。
 「いいのよ、ゆっくりで」
 そんなぼくをコルリはとっくにお見通しだった。
  ぅn コルリさん 
 「じゃあ、ね、ヒバリくん、そんなヒバリくんに iimono 見せてあげようか? メールで贈るわね」
  ぁ、はい、コるり、さん
  ネ イ ル。
 届いたのは、コルリの手の画像で、指先のネイルを見たとたん、ハートをコルリの五本の指で、そのネイルの爪先できりきりと絞られていくのを感じた。どの指も、あの「ココア色」だった。ちいさなビジューがきらめいている指もあれば、金のラメがふりかかっている指もあった。その爪先をつきたてられて、爪先はどれもめりこんできて、搾りあげられて、やがては、耐えきれなくなって、はちきれて、ぼくは冥い体液を四方八方に飛び散らせてしまうにちがいない。
 
  kルり……さn
 
 「kffu、だって、ヒバリくんがあんな画像おくってくるから。コルリも、発情しちゃったのよ」
 「だからこうして……あの、ルージュとおなじ色のネイルで、ヒバリくんの感じやすいところ、こうして……」
  キスも、してあげるね。ほら、マスクはずして……。あの画像とおなじところに、おなじ色のくちびるで……
 
 「ぅ、うt……ん、kルriさん」
 
  ほら ヒバリくんの cicicubi に……ミラーじゃないのよ いまは だから つめたくない つめたかったでしょ?
  でも いまは ちがうの コルリの生のくちびるだから ほら こんなにねっとりとしててなまあたたかくて ヒバリくんの cicicubi がいとおしくて……
 
 「ぁ、ぅんtt こrry  さん……」
 
 ココア色のくちびるだけじゃないのよ、ほら……くちびるの裂け目からのぞいてる舌先が、ほら、ヒバリくんの cicicubi  こうして……ほら、こんなにやさしく……こんなにかわいいヒバリくんの cicicubi ……チロッ ちろっ て
 
  n ぅ ぁ  コりる さ  n
 
 「かわいいヒバリくんと、ヒバリくんのかわいい cicicubi 、ほら、ほら……こんなにやさしくはげしくコルリのくちびると舌がむさぼってる ……ぁぁ、ヒバリ、ひばり、ヒバリくん きもちいい?
 
  ぅ ぅnZ ぁ ぁ   あ
 
  いいのよ ヒバリ イッて イッて イッていいよ ヒバリくん  cicicubi だけでいっちゃう かわいくて は ず  か   し    い     ヒ、バ、リ、……く ん。
 
 「こんどは、なにを交換しようか?」
耳もとに、コルリのささやきが、しめったあたたかい吐息もろとも、感じられた気がした。
 このメールを見てから、頭はいっぱいいっぱいだった。まるでなにもかもをお見通しのコルリから、あんなことをしていたぼくのこともお見通しで、あの画像を見せるように催促されているみたいで。ココア色の口紅のキスマークがべったりと cicicubi に刻印されてる、あの画像。それがほんとうのコルリのくちびるの痕跡なら、ぼくはただ照れ隠しに画像を見せるのを焦らすだけでよかったにちがいない。あんな倒錯的な行為の記憶の刻印、コルリのことを妄想して……だから、コルリに催促されたのが、興奮して、嬉しかった。誰にも、ことにコルリにだけは知られたくないと自分に言い聞かせていたような行為の痕跡だからこそ、コルリに見られることが、ぼくの脳みそを逝かせてしまう。しかも、コルリはそんなぼくのことをぜんぶお見通しで。それにしても、ぼくは、やっぱり、どこか、なにか、おかしいのかも知れなかった。コルリにあたまのなかをぜんぶ見透かされているみたい、なんて。こんな発想は、まるで、統合失調症のある種の妄想みたいだった。そうだろう、あのメールのささやきに、見透かされてる、って感じてしまったなんて。思い込んでしまったなんて。でも、たぶん、ぼくは統合失調症なんかじゃなかった。コルリに見透かされていると感じることが、思うことが、不安どころか、脳みそを痺れさせ、指先まで痺れさせ、しあわせな気分にするのだから。なんて奇妙な。中学の頃や高校の頃に、同級生やクラブの後輩の女の子を好きになったり、つきあったりしたことがなかったわけじゃない。でもこんな、脳みそやからだの指の先までが痺れて、自分がとけてぐぢゃぐぢゃになってしまうんじゃないか、そんなふうになっていく自分のことを想像するだけで昇りつめてしまう、こんな、好きになり方をしたことはなかった。「コ、ル、リ、 さん」と、ためしに、こころの奥の奥の内奥で、ひとつひとつの音をいつくしむように、ぼくは、そのひとの名前をよんでみる。すると、それは、はじめは小さいが、やがて、革袋と冥い体液に反響しておおきな木霊となってひびきあい、脊髄や延髄や脳みそまでさくら色に染めて痺れさせ、ぼくを、こんなにも、どうしようもなく、イき果てたような、真っ白な、無限遠点のかなたに消失していく、しあわせな気持ちにした。ココア色のくちびるは、ん、ぅ……いまも、ぼくの cicicubi を………していて、ココア色の五本のネイルは………、もう、五本のネイルも………
 
 たまたま夕食を買って帰ってくると、玄関ドアのノブにいつものパン屋の袋がぶらさがっていた。
 「あ……」
 ぼくもちょうどおなじパン屋で夕食を調達してきたところだった。袋をとってなかをみると、ぼくが買ってきたのとまったくおなじものがはいっていた。バリエーションをつけている飲み物までおなじだった。お腹の底からじわ~と笑いがこみあげてきた。なかにカードが入っていた。
 
  先日はありがとうございました。
  よかったら、また、いっしょに食べたいな。
 
 ぺこりとお辞儀しているウサギの画が添えてあった。思わず声が出ていた。そう、笑い声が。
 テラス窓をあけると、窓際でさえずった。どこかで、コルリが聞いているかも知れないと、ふと頭をよぎった。
 
  チュッ、チュッ、チュッ、チュッ、チューーーーィッチューーーイッ、チチチチチチ、チチチチチ、キュルッキュルッキュルルルルルルルルッッ
 
  チュッ、チュッ、チュッ、チュッ、チュゥーーーーイッチュゥーーーィッ、チチチチチチ、チチチチチチ、キュルルルルキュルルルルキューーーーールッ
 
 ウサギからの応答があった。何日ぶりだろう。十日? 二週間? どっちでもいい、とにかく、ウサギからのさえずりがあるのだから。
 「チュッ、チュ、チュ、チュ、元気? チュ、チュ」
 「チュッ、チュッ、チュ、チュ、うん、元気。あなたも元気そうでよかった。チュ、チュ、チュッ」
 「チュ、チュ、チュッ、チュッ、うん、元気だよ。チチチ、そうだ、そっちに行っていい? チュ、チュッ、チチチチチチ」
 
  チュッ、チュッ、チュチュチュ、チューーーィッ、チューーイッ、チチチチ、チュチュチュッ
 
 「もちろん」とウサギはさえずっていた。
 ぼくは玄関にぶらさがっていた方の袋を持って部屋をでた。すごく急いでというわけではなかったのに、気がつくと、彼女の部屋の玄関ドアをまえにして、異様に胸が高鳴っていた。ありきたりな言い方だけど、心臓が飛び出してしまいそう、とはこういうことをいのうだろうか。まるまるというわけじゃなかった。左心房か右心房か、とにかく心臓のうえの部分だけがはちきれそうな風船のように異様にふくらんで飛び出してきそうな感じがしていた。
 ほんとにウサギはドアを開けてくれるだろうか。ふと、この前のことが頭をよぎった。
 
  チッ、チッ、チッ、 チチ、 チチ、 チチ
 
 遠慮がちにぼくはさえずってみた。さっきの「もちろん」なんてウサギの返事は、結局、ぼくだけの思い込みにすぎないのかも知れなかった。
 
  チューーイッ、チューーーーイッ、チッチッ、チチチチチ
 
 ドアのむこうからさえずりがかえってきた。ごそごそと気配がして、ロックがはずれる音がして、ゆっくりとドアが開いてきた。ひらききるとやっぱりあわいピンクのポリウレタンのマスクをしたウサギがそこにいた。メガネはかけていなかった。
 「……、あ、げんき、だった……?」
 マスクに籠もった人の言葉でぼくは話しかけていた。
 「う……ん」
 彼女はちょっとうつむいて上目づかいでマスクから息を漏らした。彼女の漏らした息も人の言葉になっていた。
 「げんき」と声をかけたとき、「ウサギ」と呼びかけようとしてあわてて飲み込んだ。そう、「ウサギ」っていうのはぼくからの、ぼくだけの一方的で暫定的な呼び方で、いまさらながら、おたがいに呼び方が定まっていないのが不思議なことに思えた。不思議ではあったけど、特別なことではないようも感じていた。
 
  キュルッ、キュルルルルッ、キューーーイッ、キューーーーイッ
 
 ぼくはズボンのポケットに片手を突っこんで、持っているバードコールでさえずっていた。
 「え、片手で?」
 ウサギはちょっとした驚きと感動にぱっと見開いた目でぼくを見て言った。
 「ぇ、うん、……」
 ぼくにしてみればこのくらいのことで、とちょっときょとんとなって人の言葉でこたえた。
 「え、すごい……」
 ウサギはまったくさえずりを忘れこけてしまったみたいに、人の言葉をついだ。
 
  キュルルッ、キュルルッ、キュッ、チュッ、キュッ、チュッ、キュ、チュッ、キュルーーーッ、チュルル、ッチチチチチ、キューーィッ、キューーイッ、ギッュギッュギュッッ
 
 ちょっとテクを誇るみたいに、こんどはポケットからだして、片手でぼくはまたさえずってみせた。
 
  チユィッチユィッチチチチチチ、チュキュチュキユッ、チューーィッ、チューーィッ、ギッュ、チュッ、ギュ、キュ、ヂュ、ヂュッ、チチチ、ツーーィッツーーィッ、チッチッッ
 
 その間ウサギの目はさえずるぼくの右手に釘付けだった。
 「すごい、すごい、片手で、こんなにさえずれるなんて。両手でだってむつかしいさえずりも、こんなに簡単そうにさえずっちゃうなんて」
 こんなに長い人の言葉を話すウサギになんとなくちぐはぐな感じがして、次の瞬間には、いつのまにかおさまっていた右心房だか左心房だかがまた一気に膨張する気がした。
 さえずるぼくの右手を、ウサギのやわらかい掌がおおっている。
 「こんなにおおきいね」
 「え……」
 「てのひら。こんなにちがう。わたしにはムリ。こんなふうに片手の中にすっぽり、バードコール包みこむようにして」
 「そんなこと……ないよ、たぶん。てのひらのおおきさなんて、関係ない。……ただ、ぼくがヒマだったって……やることもないから、ヒマにあかして、さえずってるって、それだけのことで……そう、そのとき、両手使うのめんどくさいから、片手で……」
 「そこが、もう、ちがう。両手使うのめんどくさいから、片手でって。わたしのちいさな掌では、そんな発想にならないから」
 そんなもんなんだろうか。工夫すればちいさな掌でもなんとでもなりそうなのに。でも、そもそも片手でさえずるという発想がないのだから、といわれれば、たしかに、工夫もなにも生まれないだろう。
 ぼくはウサギをとおくに見ているような気がした。どこにでもいるようなこの女の子が、とても不思議な存在に見えた。触れている手はこんなにちかいのに、とても不可解で、でも、その不思議さや不可解さは、ぼくを孤独にしたり、孤立させたりするものではなかった。近くて、遠い、不可解で不思議な存在。
 「ぁっ、ゴメン……なさい……」
 彼女は触れていた掌をひこうとした。
 
  キュゥッキュゥッッギュリリッ
 
 彼女の手指とぼくの手指のあいだで、バードコールが奇妙な悲鳴をあげた。指と指がからまり、バードコールをとらえた鳥かごのように見えた。いや、指をからめたのは、彼女の指が逃げないように捕まえたのは、ぼくの指だった。不思議なやわらかな感触がした。爪はしぜんな桜色をしていた。彼女の指がもがいて、また、バードコールが悲鳴をあげた。
 「そうじゃなくて」
 ぼくの指は彼女のゆびをつつみこむようにおさえておとなしくさせると、ゆっくりと退きはじめた。
 「そのまま。バードコールは離さないで」
 彼女の指とぼくの指がひとつのバードコールのあちらとこちらを摘まみ持っていた。ぼくは彼女の目を見つめ、彼女もぼくの目を見つめていた。ぼくは、ゆっくり、バードコールまわした。
 
  キュ   ィキュッ   キュチ チチ
 
 ふたりの手のなかでバードコールが美しくさえずった。彼女ははにかんだような微笑みをうかべながら、ぼくの目を見つめかえして、「こう?」という表情をしてバードコールをまわした。
 
  キュィッ  キュ   ィッチ キュ
 
 ぼくも自然に微笑みがこぼれた。彼女の目を見つめたまま、今度はぼくがさえずった。
 
  キュィッ キュイッ チュ    ィッ キュッ キュッ キューーーィッ
 
 彼女はくすぐったそうな微笑みをうかべてバードコールから指を離すと、また摘まんで、ぼくの瞳を見つめたまま、さえずって見せた。
 
  キュッキュ  ィッチッ チッ チッ チッ チチチチチチ チューーィッ
 
 ふたりはしめった脱脂綿のように微笑みあって、今度はいっしょにさえずりあった。
 
  キュィッキユィッチチチチチチチチューーィッツツーーーーイッチッキュッユッッチチチッキュッチュッキュイィィッキュィッ チュッ
 
 今度はふたりとも声をあげて笑いあった。彼女のピンク色のポリウレタンマスクが、くちびるのところでさかんにふはふはしていた。
 はじめて、彼女とぼくはおなじ部屋で、マスクをはずして、いっしょにディナーをした。
 「もし、マスクをはずして、どちらかがどちらかに感染させるようなことがあったらどうしよう」
 マスクをはずす前に籠もった声で彼女が言った。
 「大丈夫、たぶん、飛沫さえ飛ばさなかったら」
 ぼくたちは向きあわずに横ならびでおなじパンを食べた。口に食べ物がないときも人の言葉は一言も発せず、横目で目を見交わしては、バードコールでさえずりあった。それがかえって、不思議と楽しかった。

  マスクをはずす瞬間、彼女のくちびるに視線が吸いよせられてしまうのを、なにかしてはいけないことのように感じながらも、ぼくはどうにもできなかったにちがいない。けれども、彼女は、ぼくに背中をむけて、マスクをはずした。背をむけたまま、耳からマスクの紐をはずす、ウサギ。ふりむいて、マスクをはずした顔で、ぼくににっこり微笑む、ウサギ。マスクに顔半分をおおわれた瞳だけの微笑みよりも、マスクをはずしたウサギの微笑みは、十倍も百倍もかがやいていた。あいらしい、さくら色の、あたらしい彼女のくちびる。そんな微笑みのなかでは、そんなかがやきに埋もれて、くちびるだけが特別な意味をおびていないことにぼくは気づいた。それでも、ちらちらと彼女のくちびるを盗み見せずにはいられなかった。パンを頬張ってもぐもぐしているときの、横顔の、しっかりと結ばれたくちびるをなにか不思議なものにでも見とれているような気持ちでちらちらと盗み見た。そんなくちびるを見ていると、ふと、くちびるとはなんなんだろう、なんて思いがうかんできたけど、ウサギのくちびるとは、まず、そこからウサギの人の言葉がうまれてくるところ、だった。ほんとに、ほとんど、ろくに、話してもいないのに。マスクをはずしたウサギのくちびるは、ただ、食べ物を食べているだけだったのに。そう、そんな食べ物を食べているシーンばかりしかうかんでこないのに。でも、ぼくには、ウサギのくちびるとは、まず、人の言葉を発するところなのだった。そう、実際にウサギのくちびるが言葉を発しているところを、じかに、まだ目にしたことがなかったにもかかわらず。
 鏡の前で、ぼくは、高校の頃の演劇部の連中がしていた発声練習みたいに、五十音を順番に発音していった。こんなふうにマスクでおおってばかりいたら、くちびるが、どんな音の時どんなかたちをしているのか、忘れてしまいそうな気がした。もちろん、そんなことはおこるはずもなかった。そもそも声を出すときいちいちくちびるの形なんて、歌手でもないかぎり誰も意識なんてしていないだろうし、ぼくだって今まで一度も意識したことはなかった。でも、なにか急にそんな不安に駆られて、五十音を発するくちびるの形を鏡にうつして確かめてみないではいられなくなった。バカバカしいと思いながらも、一音一音、ああ、ぼくのくちびるとは、この音を発するときはこんなかたちをしているんだ、と。もし、ウサギとマスク無しで話すときがきたら、ぼくのくちびるはこんなかたちをして言葉を発しているんだ、とそんなときのことを想像しながら。ただ、その時、具体的にぼくのくちびるがどんなかたちをしてどんな言葉をウサギに話しているのか、それははっきりしなかったけど。
 
 ……ぼんやり、コルリのネイルの画像をながめていた。五本の指に、それぞれ、ココア色のネイル。小指と親指と人差し指には控えめにラメが、中指にはビジューが三個、薬指はラメもビジューもなかった。気がつくと、この薬指をずっと見つめていた。コルリの薬指、このココア色のネイルが肌を這ったり……この指先を、なんでも口に入れてその感触や味をたしかめないといられない赤子のように口にふくんで無心に吸ったり……鏡にうつして見た「ウ」のカタチよりももっとぼくのくちびるは尖って丸まり……すると、しばらくはじっとしていた薬指を、コルリが、ゆっくりと、ぬきさししはじめる……
 コルリからメールがきた。ちょっといやな予感がした。
 
  ヒバリくん、ごめんなさい。
  今日は急用でいけなくなっちゃって。
  ほんとにごめんなさい。
  また、落ち着いたら連絡します。
  おわびに、せめて画像だけでも。
  そうそう、ここのところよくさえずってるのが聞こえてくるけど、なにか嬉しいことでもあったのかな?
  なににしろ、ヒバリくんが元気になったみたいでよかった。
 
  えっ、急用って……すごくあいたかったのに。。。
  はぁ……(ため息)
  でも、どっちにしろ、コルリさんが来れないんだったら仕方ない。
  うん、連絡、待ってる……ね
 
 がっかりして返信すると、チャットの部屋を閉じた。なんどもため息をくりかえして、重たい、手持ちぶさたな気分で添付ファイルを開いた。
 コルリのくちびるの跡が、透きとおるように白いティーカップの磁肌に、ココア色にきらめいていた。したくちびるの跡が、べったり。その脇には、あの黒いレースのマスクが二つ折りにたたんでおいてある。ぼくの目は凍りついたようにくちびるの跡から離れることができなかった。急に逢えなくなったことが、すぐそこまできていた快楽がとつぜんお預けになったことが、欲望をもっとかき立てた。画像のカップの大きさを実物大にして、ゆびを……すこしふるえている中指のさきを、そっと、コルリのくちびるの跡にふれていた。触れる瞬間にも、躊躇って、指がぴくりとなった。でも、そのまま、弾力のあるジェルの空気をおしきって、なか指はコルリのくちびるの跡に着地した。一瞬目を閉じると、ふるえるピンク色の快感がゆびさきから脳天に突き抜けていった。中指につづいて薬指を、コルリのくちびるの跡においた。ふと、コルリのこの指はビジューもラメもしてないただココア色のネイルの指だったことがかさなり、快感に心臓を射貫かれてくらくらとなった。そのまま目を閉じて……行き着くあてのない無重力の暗闇へとおちていく自分を感じながら……コルリのココア色のくちびるの跡に、そっと、ふるえるくちびるをかさねていた。くちびるが接してもふるえはとまらなかった。そこには、コンソールの無味乾燥な味と平らな感触があるだけだった。でも、くちびるはふるえたまま、胸は高鳴るまま、くちびるをかさねたままながい時をすごし、舌先まで使ってコルリとのキスにひたった。どんなに長くキスをしていようが、どんなに舌を使ってコルリを求めようが、コルリのくちびるの感触はおろか、ココア色の口紅の味さえするわけもなく、それはただコンソールの味や感触をたしかめているだけだと頭ではわかっているけど、そうであればあるほど、その現実をうめあわせようと、コルリとのキスの妄想が雪だるま式に大きくなった。コンソールの無味乾燥な感触と平らな味は、さらにコルリが今ここにいない喪失感をおおきくして、ぼくを煽り、ぼくをいたたまれなくして、もっとぼくを無重力の暗闇のふかみへと堕としこんでいき、コルリへの渇望をもっとはげしくした。はげしい、コルリの喪失感と渇望とにうちがわからかきむしられた革袋のなかでは冥い体液がひどくざわめき、ゆらめき、荒れ狂わないではいられなかった。荒れ狂うままに身をまかせ、のぼりつめて、やがて喪失感と渇望と快感とが入り混じり白く染まった体液を暴力的に吐き出して、やっとぼくは落ち着くことができた。でも、落ち着いたとたん、コルリとのチャットのあとは満ち足りているのに、やっぱりコルリはいまここにはいないし、いなかった、空っぽになった革袋はやっぱり空っぽのままで、ぼくはむなしく、さみしかった。
 
  ごめんね ヒバリくん。
  ダンナのお祖父さまが亡くなって。
  別居してても行かないわけにはいかなくて。
  ヒバリくんにあいたい。
  あした、いつものところでいつもの時間に。
 
 やっと次の次の週にコルリにあうことができた。そのあいだになん度か、ウサギの部屋でウサギといっしょにご飯を食べた。横に並んでふたりとも黙ったままただもぐもぐして、口を開くといえば食べ物をその消化器官に入れるときだけで、まるでマスクをしたときだけ几帳面にも自分が人の言葉を操る動物だということを思いだす。でも、ふたりにはバードコールがあった。ただ黙々としてもぐもぐすればするほど、さえずりは賑やかにはなやかに饒舌になった。

  あれ、ネイル、おまえ、そんなんが好きやったっけ? 
 「って、こういうことだけは、目ざといのよね、こっちの気持ちとか、ぜんぜん鈍感、無視のくせして」
 コルリがダンナのことをとやかくいうのを初めて聞いた気がした。
  えっ、知らんの? いま、流行ってるんよ、この色。
 「ってね。そう、ドンカンっていうのが、いちがいに悪いわけやない(笑 今回みたいな場合はとくに、ね」
 ぼくはどう応じていいのか……言葉につまっていると、すぐにコルリは気がついて言った。
 「あ、ゴメンなさいね、ヒバリくん。せっかく、やっと逢えたのに。逢った早々、犬も喰わないようなこんなハナシ……」
 「逢」という変換が目に飛び込んできて、ドキリとした。「逢ひみての……」なんて百人一首の和歌がとつぜん、思いうかんだ。
  そう ビ、 ン、 カ、 ン、 で、 か  ん  じ  や  す  い  ヒバリ に……コンナ、ハナシ……
 「ぅ、うん……コルリ……さん、いいけど……ただ……」
 ぼくはちょっと躊躇った。
  ただ? いいよ、遠慮しないで
 「ぅうん……前、たしか、メールで、ダンナさんがお風呂入ってる、って……」
 躊躇いがちにきいてみた。
  ぁ、そんなことまで覚えてるのね、ヒバリくんって。ぅん、そう、あのときは、ね。でも、あれからもいろいろあって……。可笑しいでしょ? なんせダンナが実家に帰ってるんだから(笑
 「そんなこと……」
  大きなお店でね、ダンナの実家。どうせ、そこのあと継ぐんでしょ
 こんな時なんて応えたらいいのか、言葉は自然に途切れしまっていた。
 「あぁ、ごめんなさい、ヒバリくん。ほんと、犬も喰わない以上のこんな話し……」
  ううん、これでコルリさんが少しでも気が楽に……と打ってから、あわてて、って、ぼくがきいたんでした。ごめんね、へなんなこと聞いちゃって……
  ううん、そりゃ、気になるわよね、前にお風呂入ってたダンナが、今日はいきなり別居、なんて聞いたら(笑
 
 「うん^^」
 「Kuff、かわいいいね、ヒバリって……」
 いきなりコルリの肉声が艶々としてあやしいかがやきをはなちながら、ぼくの冥い体液にとけこんできた。
 「コルリ……さん?」
  脱がしちゃう、餓えたオオカミになって ヒバリの着てるもの ぜんぶ
  ぇ、コルリ……さん……
 「いいのよ、ヒバリくん、抵抗 しないで、ね 今はなにを着てるの?」
  セーターで、下は、ジーンズ……
 「uff、そう、じゃ、まず、セーター。ほら……」
すそからこうやって手を入れて……そうよ、ヒバリくんの方に掌をむけて……アンダーシャツのうえから、おなか……
  ん、こ、コルリ、……さん……
 「ほら……ネイルのさきが、指の腹が、ふれるか、ふれないかで……ゆっくり……ヒバリくんの肌を、なでてく……」
  ぅっ、ん
 「ヒバリ……、このさきに なにがあるの……?」
 って、ヒバリの耳もとで囁くの……ほら、コルリの熱い息がヒバリの耳にあたってる……ね……
 「ん、ぁ、ぁ……」
 背筋までぞくぞくして、思わず首をすぼめていた。あつい吐息とともに肌にしみこんできたコルリの言葉は冥い体液を震わせ、革袋のなかを木霊しはじめた。
 いま、コルリが爪を立ててる、このさきに ヒバリの……なにがあるの?
 「ぁ、あ、……」 
 口にするのがはずかしくて、こたえられなかった。
 ほら、ゆっくり……コルリのネイルの先がアンダーシャツのうから肌をあわだたせながらじわじわすりあがってくる。触れるか、ふれないかで……
 「直接肌にふれるよりも、感じるでしょ? こんなふうに、アンダーシャツのうえから……」
 「ぅ、……コルリ……さん……」
 「kfっ とくに、びんかんな、ヒバリには……」
 コルリの十本のネイルの先はアンダーシャツをとおして、肉に、肌に、内臓に、触れるかふれないかで、花のように閉じたりひらいたりしていた。
 「ほら、このさきに、なにがあるの、ヒバリ くん?」
 ……ヒバリくんがこたえるまで、ずっと、……さっきから、……閉じたりひらいたり、していた……ニュウリンに触れるか、ふれないか、ぎりぎりのところで……。
 「ん、んん、ぅ……」
  言えないの? それとも、言わないの?
 ますますコルリの肉声は艶めいて冥い体液をとぷとぷと波だて、革袋は内側からぞくぞくしてぼくの肉と、内蔵と、肌は毛羽立っていった。
 言わないのね、それなら、とコルリはアンダーシャツのうえから肌や、肉や、内臓をふれるかふれないかで撫でつづけたまま、両肘を突っ張り、セーターをまくりあげた。
 「たしかめてあげる、コルリが、この目で」
 「ん、ぅっ、k、こルリ……さんっ」
 「なに、ヒバリくん、そんなせつない声あげちゃって」
 実際には発声してもいないぼく自身の声が、革袋を震わせ、とぷんとぷんとゆれている冥い体液のなかでコルリの木霊ととけあっていった。ひざからうえがガクガクして、立っているのがやっとだった。
 「いいのよ、そこのテーブルに手をついて……」
 「は……ぃ」
  kuff、でも、ここは、ほら、コルリの爪先が、まだ、なでつづけてる……アンダーシャツのうえから、ひばりの、肉と、肌と、内臓と……ひざからうえのガクガクがからだを遡ってきて、冥い体液はもっと波だちゆらめき、腕も、手指の先まで、ガクガクが止まらなくなり、キーボードを打つのがあまりにももどかしかった。
 
                      つづく

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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