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5月 身体

フリーペーパー5月号のテーマは「身体」です。

今月号は不便な本屋を通じて出会った3名(でぃー子さん、烏森まどさん、たださん)に「身体」というテーマだけを伝えて文章を寄せてもらいました。同じ言葉なのに連想することがそれぞれ違くて、他者と生きる面白さを感じることができました。違うことは面白いし、だからこそ同じ部分があると嬉しくなりますよね。あなたと違うところや同じように感じるところを探しながら楽しく読んでもらえたら嬉しいです。


- それぞれの身体 –


まど

赤いものがパンツの内側に着いていたとき、ついに私にも来た!と心拍数が上がった。まだ小学校2年生だけれど、これが来たら、大人への仲間入りだと聞いている。これが来たら、わたしの身体はどんどん、丸みを帯びて、女性らしくなると聞いている。丸みを帯びるってなんだろう。女性らしくってなんだろう。よく分からないけど、近所のゆりえお姉ちゃんみたいな感じになるんだったら、それはものすごく嬉しい。

赤いものがパンツの内側に着いていたとき、結局その時のそれはただの赤い糸くずだった。どのくらいの血が出るのか知らなかったから、糸くず少しでも勘違いしたのだ。
あの時のわたしは、もう本当にそれが楽しみで仕方がなかった。みんな口を揃えて大人への入口だと言うし、女性らしく身体が変わるというではないか!!
そんなの、楽しみに決まっている。

幼稚園のときからクラシックバレエを習っていたので、自分の『身体』について考えるのは学校の友達よりも早かったように思う。
だから、私の足がそんなに長くないことも、顔が小さくないことも、太ももに筋肉が付きやすいことも、ずっと早くに知った。

今思えば子どもらしい単純さで、それが来たら何かが変わると期待していたのだと思う。
大人っぽく、女性らしく、という響きはスラリとした脚や美しい首筋を想像させた。

結論から言うと、それが来たところで私の身体は憧れていたようには変わらなかったし、痛いし、何故あんなに待ちわびていたのか!という感じだった。バカだなぁ、と思う。
でも、26歳になった今、私はあの時と似た気持ちで歳を重ねていく自分の変化が楽しみで仕方がない。
例えば妊娠や出産。増えていく(であろう)皺やシミ、、、どんな風に私は、わたしの身体は、変わっていくのだろう。
何も分からないけれど、先輩役者のKさんみたいな感じになるんだったら、それはものすごく嬉しい。

結局どんなに歳を重ねても、どんなに身体が変化をしても、自分という根幹は対して変わらないのだろうなぁと思う。
生理が来ても、想像していたようには変わらなかったように。
人間は対して変わらないことを受け入れたとき、初めて自分の性にも年齢にも、引いては人生にも向き合えるような気がしている。

きっとこれから、嬉しい身体の変化ばかりではないのだろうけれど、どんな変化が来ても、生理が楽しみだったあの時のように、次の何かへの入口だとワクワク思えるようにあれたらと思っている。
きっと自分の身体の変化が楽しみであることは、人生が豊かであることとほぼ同義であると今のところ、感じている。


でぃー子


過去に出会った男性とのデートでドキッとさせられたことがある。それは家族の話になったときの事だった。

27歳でひとり暮らしをはじめた私は、恵まれた家族と環境で育った。家族はみんな違うカルチャーを趣味としていた。父はスポーツ観戦。母は読書、茶道。姉は海外芸能。兄はラノベ、アニメ。小さい頃からそんな環境で育ち、さまざまな趣味を布教されたからか、私は割と何の話題にでもついていけるような人に育った。友達の推し、例えば好きなアイドルを布教されることも、新しい知識だと思うと喜んで聴けた。関心を持って、自分に吸収し浅くても知識を増やす。シンプルにそれだけなのだが、たまに人に色んな分野に詳しいね!と褒められると嬉しい。家族や友達を褒められたようにも感じ、鼻が高い。

その日の男性とのデートでも案の定同じような話の流れになった。話の終わりに「で、あなたは家族にどんな影響を与えたの?」と聞かれ、ドキッさせられたのだ。頬が赤くなるようなドキッではなくて残念だったが、急所を突かれたような痛さがあった。いつもわいわいしている私がどれくらい沈黙してしまったか。「いま思いつかないや」と笑った。笑ったが落ち込んでいた。正確には、笑って誤魔化した自分のことが情けなかった。たくさんギブしてもらっているのにテイクできていない悲しさもあった。でももしかしたら、日常に溶け込みすぎて気がついていないだけなのでは?と思った。自分が好きなことはなんだろうと考えるきっかけが生まれた。

ある日、職場で肌を褒められた。スキンケアが好きで新しい美容液を導入したことを話した。肌が健康であると自分の機嫌がいいからそうしている。肌荒れや胃に負担のかからないように食べる順番に気をつけたり、白湯生活をしている話もした。白湯を飲むようになってからそのインナードライもなくなった。お菓子も食事の延長線上で食べるようにして、白湯を飲んで0カロリーと思い込むようにしている(違うけど)。お酒を飲んだ日に家に帰って、白湯を飲むと0カロリーだと思えて、心も身体もホッとする(違うけど2回目)。色のついた飲み物は外食でしか頼まないし飲まない。ほぼ白湯で生活していると言ったら、みんなそこそこ驚いていた。自分の周りに生息していないのだろう...都内でハクビシンを見た、みたいな顔された。

白湯をずっと飲んでいると、不思議と美味しく感じてくる。無味というのは味が変わらない安心感もある。めぐりも良くなるし、のどが乾燥することも減った。気管支炎によくなっていた小学生時代。お医者さんに「肺が砂漠状態」と言われたのを思い出し、水分補給を意識する。こまめに白湯を飲むことでむくみ解消にもつながる。コーヒーや野菜ジュースと違って、飲み過ぎに注意しなくてもいい。年末に通い始めた整骨院の整骨師さんにも白湯を飲んでると伝えたら、褒められた。施術日は血行が良くなるから、コップ一杯分いつもより多く飲むよう勧められた。やはり白湯は偉大だと思った。もしこの世に健康宗教があったら、私はたぶん白湯派閥に所属してるんだろう。とにかく健康でいられることがとても好きだ、日々の身体メンテナンスが趣味だ、ということに29歳にして気がついた。もうあの男性に会うことはないが、些細な問いかけをきっかけに新たな自分の一面に気がつくことができた。そう考えるとあのデートも尊い経験だったのかもしれない。

そんな私の布教を熱心に聞いてくれる信者がご存知、不便な本屋の店主ザキちゃん。彼女に出会って2年以上になるが、彼女は私のおかげでどんどん健康になっている(自信がある笑)。何を勧めても聞き入れてくれる信者がいてくれることが、私は素直に嬉しい。浮腫みたくないから水分摂りたくないと言った彼女に、それは逆効果だからこまめにお水を飲むことと筋トレをすすめた。それから彼女は会うたびに実践報告をしてくれるようになった。コーヒーだけじゃなく、白湯をたくさん飲むようになったらめぐりも良くなった、とか。前は乾燥で肌が粉を吹いていたけど、それもなくなった、などなど。まさか彼女の改善エピソードが私の心をこんなにも躍らせるとは思ってもみなかった。人の役に立てたのがなにより嬉しい。最近は整骨師さんに教えてもらったマッサージを教えている。冷え性改善のためのマッサージだが、結局は血行促進につながるから、たぶん浮腫み改善にも効くだろう。健康宗教白湯派閥の一員となった彼女の報告が、これからも楽しみだ。


ざき1

どろりとした眠気に襲われて、机に伏せる。肌に触れる机が程よく冷たくて気持ちがいい。外は雨が降っていて、僅かに開けている窓の隙間から雨の音が聞こえてくる。安心して眠りなさい、と寝かしつけられているような心地よさに抗うべく、同じ体勢のままパソコンの画面を伺うように見る。書きかけの文章を追いかけても全く頭に入ってこない。ねむい。あーと声を出して眠気を追い出そうとする。ねむい。太ももを抓る。ねむい。何をしても全然ダメ。ねむい、ねむい。低気圧の日は大抵自律神経のバランスが崩れて恐ろしいほど眠くて、何よりも眠気に弱い私は理性をあっさり手放してしまう。この時も、仕事を続けなければ、と抗うフリをしながらほとんど眠気に身を任せている。最後の力を振り絞って開こうとしても持ち上がらない瞼や起きあがろうとしても言うことを聞かない身体はもはや他人のもののように感じられる。そして、そのことを心地よいと感じる。常に持っている自分の身体への責任のようなものから解放されて、どうにもならないと諦める瞬間が気持ちいい。いつまでもこのままでいたい。無責任に、身体の思うまま過ごしていたい。そんなことをぼんやりと思いながら仕事中に眠りに落ちた。

ざき2

私の検索欄は「猫になる 方法」「猫になる おまじない」などの言葉で埋め尽くされている。私が猫になりたいと特に強く思う日は、大抵が人間の女の身体として生きるのが嫌な日だ。私は身体が小さくて顔つきもぼんやりしているから生物的にすごく弱そうで(気は強いです)、見た目だけは抵抗しなさそうだからか割と変な目に遭いやすい。道端で見知らぬ人に腕を掴まれたり、初めて話した人に突然性的な言葉を浴びせられたり、そんなことが割と普通にある。そんな時は自分の身体から解放されたい、と強く思う。私自身は自分の身体をすごく気に入っているのに、他者から浴びせられる言葉や態度や視線に自分を嫌いにさせられるのが虚しくて悔しくてたまらない気持ちになって、身体を乗り捨ててしまいたいような投げやりな気分になるのだ。それでなんで猫?って話だけど、多分、嫌なことに対処する方法を知らなかった十代の頃、無防備に撫でられる猫を見て下心なく接してもらえる存在が羨ましくなったのだと思う。それで身体に関することで嫌な思いをすると、猫になりたいと反射的に思うようになった。自分の身体から遠ざかることで無意識に自分を守っているのだと思う。(そうやって嫌悪感とかを逃していることみんなにはありますか?)こんなふうに改めて書いていたら、猫も猫で自分の身体を無防備に触られるのは嫌かもしれないなあとか思い始めて、とにかく、相手の身体は相手のものであることを正しく認識して行動して欲しいと思うばかり。もちろん自戒も込めて。自分と相手の身体を大切にすることは大切だなあ、と当たり前のことを改めて考える今日この頃です。

追記:「猫になる おまじない」で調べると、居なくなった猫を探すおまじないや猫の病気をどうにか治したいと言う書き込みがたくさんあって、見た目が違くてもこんなに相手を思うことが出来るのか、と。そして、同じ人間であってもこんなに傷つけることが出来るのか、と。希望と絶望そして猫の幸せを願う気持ちでいっぱいになります。


ただ

5月のテーマが「身体」だということを知り、「身体」と「体」の違いを考えてみた。「体」も「身体」も、どちらもカラダと読めるけれどその意味は少しだけ異なっている気がする。人間に絞って考えると、「体」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは一人の人間の全身。精神的なものと対比させた時の、一つの存在としての人間の体。「こころとからだ」の時のカラダはだいたいこっちな気がする。それに対して「身体」は人間を構成する肉体的なパーツ1つ1つに焦点が当たっているように感じる。「身体」という文字を目にすると、私は、“筋骨隆々な脚”だとか“骨々しい手”のように「体」よりもっと具体的な人間の構造を想像する。そういえば、「身体測定」とは言うけれど「体測定」とはなかなか聞かない。
そんな風にぼんやり考えていると、テーマが「体」ではなく「身体」ならば私にも書けるかもしれないと思えてきた。なぜなら、私は時々「身体」の置き場所に迷ってしまうことがあるから。
例えばライブを見ている時。本当にふとした時、「そういえば俺足ってどうしてたっけ?」と分からなくなる瞬間が来る。肩幅くらいに足を開いていただろうか?つま先を揃えて一本の線のように立っていただろうか?いやいや、ライブ中なのだからそれはない。軽くクロスさせていたに違いない。それでもなんだか落ち着かない。それは、突然舌の位置が気になって仕方なくなるあの感じというよりも、他人の視線によるものな気がする。つまり自意識の問題だ。手の置き場所だって同様に悩ましい。隣のおじさんは腕を組み、時折、口元を指で触ってみたりしてなんだかさまになっているが、私がそれをやるにはまだまだ年齢と経験が足りないように思えてくる。大抵は、ドリンクを胸のあたりで持ち手の位置を固定するという方法でなんとかやり過ごしてはいるが、飲み終わってしまえばこの裏技もそれまでだ。そんなことを考えていたら、聞きたかった曲のサビは終わっている。
写真撮影の時も身体の置き場所は深刻な問題だ。手を横に、直立不動で立っている訳にはいかないから、何かしらのポーズを取ろうとする。チョキの形を作りピースをするがそれらはどこに配置するべきなんだろうか。お腹の傍だと低すぎて素っ気ないし、顔の傍だったらなんだか恥ずかしい。両手でピースをするか(ダブルピースかよ!と突っ込まれそうだ)、片手だけでピースをするかという選択肢もある。その場合はもう片方の手はどこに、どのように置いておくべきかという問題も更に検討する必要がある。顔だって身体の一部だから、頑張って表情を作ってみるものの、顔の筋肉の使い方は難しい。どうしても不自然な笑顔ができてしまう。この時、足は既にノーマークだから後から見返して変な方向を向いた自分の足を発見する。結局見返したくない写真が一枚撮影されてしまう。
自意識過剰だと身体の扱い方も分からなくなってしまうらしい。皆はどうしているのだろうか。一度時間をとってしっかりと聞いてみたい。

その時、手はどこに置いておくんですか?


寄稿者一覧

ただ @ta_da_da_ta
でぃー子 @syuwafuwa_dee__
烏森まど @puppymado9
ざき @fuben_na_honya @tomokomoko_

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